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1分でわかる『カラヴァッジョへの旅』




【1分でわかる】

はじめに.



カラヴァッジョは、イタリアの誇る天才画家である。

17世紀のバロック美術の礎をつくった。



1. 確信への道

原風景は、「カラヴァッジョの聖母」の巡礼地として有名となったカラヴァッジョ市。

ローマでは社会の暗部にうごめきながら、徐々に名前を売っていった。


コンタレッリ礼拝堂で華々しい公的デビューを果たす。


2. 円熟と犯罪



《聖パウロの回心》「宗教美術史上もっとも革新的」と評された。

いつも黒い衣をまとって凶暴な血走った目をしたカラヴァッジョの暗い姿は、とても画家には見えなかったという。

《ロレートの聖母》巡礼者はその信心のゆえに聖母に出会うことができるのだが、まさにカラヴァッジョはそれを描いた。

カラヴァッジョは殺人を犯す。以降逃亡生活を送る。




3.流謫の日々



《洗礼者ヨハネの斬首》生涯最大の作品である。これによって、彼は「従順の騎士(恩寵の騎士)」となった。

《ラザロの復活》キリストの横顔は陰に隠れており、ほとんど漆黒に塗りつぶされているが、この画面におけるキリストは、人々には見えていないのかもしれない。

カラヴァッジョはつねに武装しており、寝るときも衣服を着替えず、剣を抱いて眠った。

ダヴィデとゴリアテ》恐るべき自画像であり、これが「呪われた画家」の絶筆である。



終章. カラヴァッジョの生と芸術


尊大で激昂しやすいが、仲間思いで、友人に頼りきるところがあった。

意外に寂しがり屋であったようである。

彼は宗教画を、昔の出来事ではなく、目の前に立ち現れるヴィジョンとして表現した。

カラヴァッジョほどその人生芸術が密着していた画家はめずらしいといえよう。





【10分でわかる】

はじめに. 
カラヴァッジョは、西洋美術史上、最大の巨匠の一人であり、イタリアの誇る天才画家である。
17世紀のバロック美術の礎をつくったのがカラヴァッジョである。



1. 確信への道

・原風景
ロンバルディア州ベルガモ県のカラヴァッジョ市。
1432年5月、この町の郊外で、一人の農婦の前に聖母が現れた。それ以来「カラヴァッジョの聖母」の巡礼地として有名になった。
同時に、天才画家カラヴァッジョ、本名ミケランジェロ・メリージの出生地として知られている。

・ローマでの貧困
17世紀初頭までのローマ画壇は混沌としていた。
賭場や売春宿などのローマ社会の暗部にうごめいていたカラヴァッジョは、徐々に名前を売っていき、パトロンを増やしていった。
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《果物籠》籠が突き出しているように描かれている。これは西洋美術史上もっともすぐれた静物画となった。
やがてカラヴァッジョは宗教画も描くようになった。

・公的デビュー
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コンタレッリ礼拝堂。
ここに《聖マタイの召命》と《聖マタイの殉教》の二点の絵を描く契約が、カラヴァッジョのはじめての大きな公的な仕事となった。
この二点の絵は公開されるやいなや大評判となり、黒山の人だかりができたという。
カラヴァッジョは一躍有名な画家となった。
両義性、いつまでも私たちの解釈をうながしてやまない点が、カラヴァッジョ作品の魅力であり、力であるといってよい。

2. 円熟と犯罪

・宗教画の確信
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《聖パウロの回心》イタリア最大の美術史家ロベルト・ロンギが、「宗教美術史上もっとも革新的」と評した。
個人と神との対峙を重視する宗教思想を、説得力のある様式ではじめて提示しえたのがカラヴァッジョだったのである。

・ローマでの円熟期
このときのカラヴァッジョは、二週間ほど制作すると、剣を携え、従者をひきつれて1、2か月の間、遊び歩いたという。粗野な若者とともに居酒屋、球戯場、賭場、売春宿に出入りし、いつも黒い衣をまとって凶暴な血走った目をしたカラヴァッジョの暗い姿は、剣客や無頼の徒にようであり、とても画家には見えなかったという。
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《聖母の死》は現在もルーブル美術館でいつでも見ることができる。

・殺人
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《ロレートの聖母》巡礼者はその信心のゆえに聖母に出会うことができるのだが、まさにカラヴァッジョはそれを描いたのである。
幻視でありながら実在感をともなう聖母は、カラヴァッジョが幼いころから思い描いたであろう聖母顕現のイメージであったにちがいない。
カラヴァッジョは殺人を犯す。それに対し死刑布告を出される。以降逃亡生活を送るのだが、寝る時も剣を手放せないほど、死と隣りあわせの不安定な日々を送ることを余儀なくされる。しかしその芸術は、ローマ時代には考えられないほどのあやしい輝きをおびはじめるのである。



3.  流謫の日々

・最初の逃亡
カラヴァッジョはナポリに移る。そこでは貴族は贅を尽くす一方、貧民が街にあふれ、活気と猥雑さを生み出していた。栄光と悲惨、激しい貧富の差といった光と影のおりなす激しいコントラストはカラヴァッジョの画風にも通じ、大都市ナポリのこうした明暗を画面に反映させた。

・マルタの騎士
1607年7月、カラヴァッジョはナポリから船でマルタ島に来た。
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《洗礼者ヨハネの斬首》生涯最大の作品である。これは騎士団長の期待を上回る傑作であった。これによって、彼は「従順の騎士(恩寵の騎士)」となった。
しかしながら、いつものように自らその成功を台無しにしてしまった。「正義の騎士」であるベッツァ伯ロドモンテ・ロエロの家を襲撃し、重症を負わせたのだ。
投獄されたが、脱獄して小舟で彼はシチリアに渡る。

シチリア放浪
小舟でシラクーサに着いた。
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《ラザロの復活》キリストの横顔は陰に隠れており、ほとんど漆黒に塗りつぶされているが、この画面におけるキリストは、人々には見えていないのかもしれない。
騎士の復讐を恐れる画家にとっては、シチリアも安全な場所ではなかった。カラヴァッジョはつねに武装しており、寝るときも衣服を着替えず、剣を抱いて眠ったようだ。黒い犬をペットにしており、さまざまな芸を仕込んでいたというが、おそらくこの犬が画家の唯一の慰めとなっていたのだろう。

・流浪の果て
カラヴァッジョは再びナポリに来た。
しかし、そこで惨劇は起こった。居酒屋オステリア・デル・チェリーリオの入り口で、四人の武装した男に襲われ、殺されかかったのである。
ローマではカラヴァッジョの恩赦を求める動きが高まっていた。
だがローマに戻る道半ばで彼は熱病に罹ってしまう。7月18日にこと切れた。享年38であった。
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ダヴィデとゴリアテ》画家の晩年の焦燥や苦悩が表出したような恐るべき自画像であり、「呪われた画家」の絶筆としてこれほどふさわしいイメージはないだろう。



終章. カラヴァッジョの生と芸術
尊大で激昂しやすいが、仲間思いで、友人に頼りきるところがあった。いつも孤独であったが、取り巻きを連れ歩いたり、いつも仲間とともに行動したりしていたこと、犬を飼ってかわいがっていたことから考えると、意外に寂しがり屋であったようである。
彼は宗教画を、昔の出来事ではなく、目の前に立ち現れるヴィジョンとして表現した。
芸術制作の極度の緊張感と、限度を知らぬ生の放縦とがあやうい均衡を保っていたというべきだろうか。その意味で、カラヴァッジョほどその人生と芸術が密着していた画家はめずらしいといえよう。



【60分で理解する】

はじめに. 
カラヴァッジョは、西洋美術史上、最大の巨匠の一人であり、イタリアの誇る天才画家である。
17世紀のバロック美術の礎をつくったのがカラヴァッジョである。



1. 確信への道

・原風景
ロンバルディア州ベルガモ県のカラヴァッジョ市。
1432年5月、この町の郊外で、一人の農婦の前に聖母が現れた。それ以来「カラヴァッジョの聖母」の巡礼地として有名になった。
同時に、天才画家カラヴァッジョ、本名ミケランジェロ・メリージの出生地として知られている。
1577年ミラノでは「聖カルロのペスト」が流行し、人口の5分の1が失われた。当時6歳の少年は、このおびただしい死をまのあたりにしていただろう。
13歳になった少年はミラノに出て画家になる決心をする。
ミラノは当時、ながらく文化的な後進地だった。
カラヴァッジョはペテルツァーノに師事したが、フレスコ画は描けなかった。

・ローマでの貧困
16世紀はルネサンスの徒花のよいうなマニエリスム芸術が生まれていた。17世紀初頭までのローマ画壇は混沌としていた。
ローマが息を吹き返すのは、1563年に終わったトレント会議からのカトリック改革からだった。
カトリックは、美術を布教と信仰のもっとも有力な具としてお墨付きを与えたのである。写実的で明快、ときに感傷的な様式が推奨された。
ローマは新たなバロック都市として力強くよみがえり、カトリック世界の壮大な展示場になっていいった。
25年に一度行われた聖年(ジュレピオ)は、おびただしい巡礼者をローマに集めるのに成功した。
その中で、賭場や売春宿などのローマ社会の暗部にうごめいていたカラヴァッジョは、徐々に名前を売っていき、パトロンを増やしていった。
《果物を剥く少年》の果物は原罪、それを剥く行為は浄化を表し、少年が人間の罪を贖うキリストを表すという意見もある。
《病めるバッカス》のふたつの果実は人間の原罪、ぶどうはキリストの血を表し、また台はキリストの遺体を安置した石版を示しているとみれる。
《トカゲに噛まれた少年》画面上部に斜めに横切る光の線は、以降、カラヴァッジョのトレードマークとなる。
果物には性的な含意があった。
当時は少年も女性も交互に愛するのが普通であった。
バッカス》画面左端にあるフラスコの右下あたりに、カラヴァッジョの顔が映っている。つまり、画家は古代の酒神を描こうとしたというより、それに扮した少年の肖像を描いているのである。
《果物籠》籠が突き出しているように描かれている。「突出効果」である。西洋美術史上もっともすぐれた静物画となった。
やがてカラヴァッジョは宗教画も描くようになった。

・公的デビュー
コンタレッリ礼拝堂。このカラヴァッジョデビューの地は、ローマの最重要観光地となってしまった。
ここに《聖マタイの召命》と《聖マタイの殉教》の二点の絵を描く契約が、カラヴァッジョのはじめての大きな公的な仕事となった。
この二点の絵は公開されるやいなや大評判となり、黒山の人だかりができたという。
カラヴァッジョは一躍有名な画家となった。
両義性、いつまでも私たちの解釈をうながしてやまない点が、カラヴァッジョ作品の魅力であり、力であるといってよい。



2. 円熟と犯罪

・宗教画の確信
《聖パウロの回心》イタリア最大の美術史家ロベルト・ロンギが、「宗教美術史上もっとも革新的」と評した。
この画面には奇蹟を示すものは何ら存在せず、倒れたパウロのみが天からの声を聞いている。すべては倒れたパウロの内面で起こっているのである。
カラヴァッジョの聖書解釈がここで深化し、超自然的な光や神の顕現によったのではなく、すべて余人のうかがい知ることのかなわぬパウロの脳内で起こったという近代的な解釈が提示されたのである。
個人と神との対峙を重視する宗教思想を、説得力のある様式ではじめて提示しえたのがカラヴァッジョだったのである。

・ローマでの円熟期
このときのカラヴァッジョは、二週間ほど制作すると、剣を携え、従者をひきつれて1、2か月の間、遊び歩いたという。粗野な若者とともに居酒屋、球戯場、賭場、売春宿に出入りし、いつも黒い衣をまとって凶暴な血走った目をしたカラヴァッジョの暗い姿は、剣客や無頼の徒にようであり、とても画家には見えなかったという。
すぐれた画家とは、「自然の事物をうまく描き、うまく模倣することのできる画家だ」と持論を述べいている。これはカラヴァッジョ唯一の肉声にして、史上はじめての写実主義マニフェストとなった。
《聖母の死》は現在もルーブル美術館でいつでも見ることができる。

・殺人
《ロレートの聖母》貧しげな巡礼者の写実的な描写は、当時の宗教画にあっては異色であり、人々は聖なる画像を貶めるものだと非難したと解釈されることが多かった。しかし、そうではなく、彼らは、自分たちの姿を絵のなかに見出して興奮したのにちがいない。
巡礼者はその信心のゆえに聖母に出会うことができるのだが、まさにカラヴァッジョはそれを描いたのである。
幻視でありながら実在感をともなう聖母は、カラヴァッジョが幼いころから思い描いたであろう聖母顕現のイメージであったにちがいない。
カラヴァッジョは殺人を犯す。それに対し死刑布告を出される。以降逃亡生活を送るのだが、寝る時も剣を手放せないほど、死と隣りあわせの不安定な日々を送ることを余儀なくされる。しかしその芸術は、ローマ時代には考えられないほどのあやしい輝きをおびはじめるのである。



3.  流謫の日々

・最初の逃亡
マグダラのマリアの法悦》改悛を扱ったこの図像は法悦表現として流通して、17世紀に大流行する法悦の表現の嚆矢となった。
カラヴァッジョはナポリに移る。そこでは貴族は贅を尽くす一方、貧民が街にあふれ、活気と猥雑さを生み出していた。栄光と悲惨、激しい貧富の差といった光と影のおりなす激しいコントラストはカラヴァッジョの画風にも通じ、大都市ナポリのこうした明暗を画面に反映させた。

・マルタの騎士
1607年7月、カラヴァッジョはナポリから船でマルタ島に来た。そこはとくにヨハネ騎士団の島として知られている。彼はマルタで歓迎されたようである。
《洗礼者ヨハネの斬首》生涯最大の作品である。これは騎士団長の期待を上回る傑作であった。これによって、彼は「従順の騎士(恩寵の騎士)」となった。
しかしながら、いつものように自らその成功を台無しにしてしまった。「正義の騎士」であるベッツァ伯ロドモンテ・ロエロの家を襲撃し、重症を負わせたのだ。
投獄されたが、脱獄して小舟で彼はシチリアに渡る。
明るい陽射しと対照的な暗い画面。南イタリアにあるカラヴァッジョ作品にはいつもこの対比がつきまとっている。

シチリア放浪
小舟でシラクーサに着いた。
《ラザロの復活》キリストの横顔は陰に隠れており、ほとんど漆黒に塗りつぶされているが、この画面におけるキリストは、人々には見えていないのかもしれない。カラヴァッジョはもはや奇蹟も救済も信じていなかったのだろうか。
騎士の復讐を恐れる画家にとっては、シチリアも安全な場所ではなかった。カラヴァッジョはつねに武装しており、寝るときも衣服を着替えず、剣を抱いて眠ったようだ。黒い犬をペットにしており、さまざまな芸を仕込んでいたというが、おそらくこの犬が画家の唯一の慰めとなっていたのだろう。

・流浪の果て
カラヴァッジョは再びナポリに来た。
しかし、そこで惨劇は起こった。居酒屋オステリア・デル・チェリーリオの入り口で、四人の武装した男に襲われ、殺されかかったのである。
ローマではカラヴァッジョの恩赦を求める動きが高まっていた。
1610年7月恩赦が出るという望みを抱いてローマに戻ることを決意する。
だが彼は下船しようとしたパーロにて山賊とまちがわれて逮捕されたのである。釈放されたときには船は画家の荷物とともに旅立ってしまっていた。
次の寄港地であるポルト・エルコレに向かって彼は歩き始めた。7月の灼熱の海岸である。
ようやくたどりついた画家は、船を見つけられなかっただけでなく、思い熱病に罹っていた。看護を受けるが、7月18日にこと切れた。享年38であった。
真夏の海岸を歩き、灼熱の太陽に焼かれるように死んだのは、この画家にふさわしい結末であったといえよう。
ダヴィデとゴリアテ》画家の晩年の焦燥や苦悩が表出したような恐るべき自画像であり、「呪われた画家」の絶筆としてこれほどふさわしいイメージはないだろう。



終章. カラヴァッジョの生と芸術
暗い目つきで心に闇を抱えているそんな人物を髣髴とさせるカラヴァッジョ。尊大で激昂しやすいが、仲間思いで、友人に頼りきるところがあった。いつも孤独であったが、孤独を好んだわけではなく、取り巻きを連れ歩いたり、いつも仲間とともに行動したりしていたこと、犬を飼ってかわいがっていたことから考えると、意外に寂しがり屋であったようである。
彼は宗教画を、昔の出来事ではなく、目の前に立ち現れるヴィジョンとして表現したのだ。
この画家の原点でもあった、故郷での「カラヴァッジョの聖母」の顕現のリアリティこそが、この画家のヴィジョンを強化し、つねに補強していたのではないかと私は考えている。
至高の芸術を完成させるためにすべてを犠牲にしたというとロマン主義的な芸術家のようだが、カラヴァッジョの場合、そうした芸術至上主義ではなく、芸術制作の極度の緊張感と、限度を知らぬ生の放縦とがあやうい均衡を保っていたというべきだろうか。その意味で、カラヴァッジョほどその人生と芸術が密着していた画家はめずらしいといえよう。



【書評】
破天荒。だがその技術はピカイチ。
そんな像が見えてくる。
絵画における表現はとても理知的であり、その激烈な行動からはまったく想像できない。
私には、彼がなにか精神的にかかえていたのではないかと思えた。
その突拍子もない行動も、その激情も、決して彼自身の本質からくるものではないのではないか。それを裏付けるかのように陰影の濃い、強烈なコントラストをもつ作品を描いている。そこには間違いなく悔悛がある。マグダラのマリアのように。
彼は救われたかったのではないか。ただそれができない体であった。筆をとっている時間だけが自分自身に戻れる時間なのではなかったか。
どうも、太宰と似通った部分が見えてくる。
「悪い人ではないのです。ただ純粋すぎる」
苦しい人生だっただろう。だが、作り上げたその作品は、現在でも多くの人に影響を与えている。