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1分でわかる『カラヴァッジョ―聖性とヴィジョン』




【1分でわかる】

はじめに.

カラヴァッジョ以前、あるいは同時代のローマの画家たちはカラヴァッジョという天才を引き立てる背景にすぎなかったと思われるほどである。




1. カラヴァッジョの位置

◯生涯と批評

●生涯と神話化
カラヴァッジョは死と同時に「呪われた画家」として伝説化・神話化していったのであり、それは現代なお増幅しているようである。 ●カラヴァッジョの影響と批評史
血と暴力に彩られた破滅的な生涯をおくりながら、その作品の深い精神性宗教性が時代を越えて現代人を打つという矛盾が、この画家への興味をかきたててやまないのは否定しがたいことである。



◯1600年前後のローマ画壇とカラヴァッジョ

バロック様式の先駆者としてのカラヴァッジョは、素朴な写実主義を、ミケランジェロラファエロに代表されるローマの盛期ルネサンスの古典主義と融合させた。

●反宗教改革と美術
カトリック視覚イメージによって聖書の言葉をより近づきやすくし、理性よりも感情に訴えて信仰心を高揚させようとした。

●クレメンス八世治世下のローマ画壇
ローマでは反宗教改革のキャンペーンのために聖年(ジュレピオ)が盛大に祝われた。

それらがバロック美術を開花させる契機となったのである。


●ロンカッリとダルピーノ
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クリストファノ・ロンカッリ通称ポマランチョの《キリストの埋葬》は、天を仰ぐマリアや、「終油の石」など、いくつかの図像的共通性はカラヴァッジョがこの作品を研究したことをうかがわせる。

カラヴァッジョは八ヶ月そのもとにいたジュゼッペ・チェーザリ通称カヴァリエール・ダルピーノに大きな影響を受けた。

●アンニーバレ・カラッチ
アンニーバレの《聖マルガリータ》を眺めた際、カラヴァッジョは「自分の時代に真の画家を見ることができて嬉しい」と称賛したという。
聖マルガリータ


●ジョバン・バッティスタ・ポッツォとその他の画家たち
カラヴァッジョはどの時代のものであれ、気に入った作品を貪欲に吸収したのではないだろうか。そしてその記憶を、ローマを後にしてからも保ちつづけたのである。




2. カラヴァッジョ芸術の特質

◯回心の光

1600年代初頭は、イエズス会による海外布教がさかんとなり、「改宗」や「回心」はもっとも好まれた主題となる。

●速やかな回心
《聖マタイの召命》
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これは「速やかな回心」であり、マタイは何の躊躇もなく立ちあがり、直ちにキリストに付いていったことが、マタイ改宗の最大の奇蹟なのである。

《聖マタイの殉教》についても、新たな見解が提示された。
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この場面はマタイを殺され、蜂起する信者たちの姿を描いたものだということだ。

●天からの声
《聖パウロの回心》
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これは「宗教美術史上もっとも革新的」と評された。
カラヴァッジョはドラマチックであるべき主題を、一人の人間の内面に起こった静かなドラマに変容させたのである。


●死からの覚醒
《ラザロの復活》
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右手には光、左手は髑髏に向けているというラザロのこのポーズは、精神的にも肉体的にもいまだ生と死、救済と罪との葛藤にいると解釈される。

●カラヴァッジョにおける回心
カラヴァッジョは、天使などの超越的な存在を描かず、現実的な光のみによって主人公の内面に起こった変化を暗示するにとどめた。

さらに、それに迫真性を与えるために、写実的な細部描写と、現実の光を取りこむ巧みな明暗表現によって、作品内のドラマが現実空間で起こっているようなイリュージョンを与えた。




◯幻視のリアリズム

●巡礼者たちのヴィジョン
《ロレートの聖母》
ロレートの聖母


この画面には、巡礼のいる現実の聖域の空間と、巡礼の幻視(ヴィジョン)というふたつの異なるレベルの空間が共存しているのである。

●ヴィジョンへの参入
《エマオの晩餐》
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聖なる情景は歴史的な出来事ではなくなり、今まさに目の前に起こっている、つまり、画中の人物にとっても観者にとってもヴィジョンとして立ち現れるのである。

●瞑想の空間
描写も、すばやく荒々しい筆触にとって代わり、静謐さも感じられる雰囲気は、逃亡時代のカラヴァッジョの様式に共通する晩年様式となった。

バロック的のヴィジョンへ
ベルニーニは、カラヴァッジョの「劇場化」を完全に理解し、彫刻や建築を総動員してこれを完成させたといってよい。
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3. カラヴァッジョ作品の諸問題

◯真贋の森

●カラヴァッジョの複数作品
発見されて修復された原作を見ると、それまで議論していたコピーが急に色あせて見えてくるほど、それらとは隔絶した、巨匠特有としかいいようのない質の高さを感じさせる。

●最初期の《果物を剥く少年》の問題
《果物を剥く少年》は、カラヴァッジョの最初期の重要な作品でありながらが多く残されている。
果物を剥く少年



◯カラヴァッジョの身振り

彼の用いた身振り表現はその作品の意味を解き明かす上でも重要である。

●「マタイ論争」と身振り
他人を指差して顔を上げる男と、うつむく男との対比は、ルカ伝の譬話を介してマタイ召命のドラマをもっとも効果的に演出していると考えられる。

●オランスの身振り
アンニーバレもこのオランス型の身振りをいくつか描いていることからも、やはりオラトリオ会の復古趣味が影響しているようである。
キリストの埋葬




◯二点の《洗礼者ヨハネ》の主題

子羊の代わりに大きな角を持った老羊を抱くこの少年は本当に洗礼者ヨハネであろうか。ヨハネでなければ誰なのか。まだ充分に納得できる結果を見ていない。

カピトリーノ作品
「解放されたイサク」であるという説が相次いで提出された。
洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)



●カラヴァッジョにおける「不在効果」
不在効果の作品では、聖なる情景を画中で完結させず、画面枠で断ち切ることによって、画面外にその情景が継続しているように感じさせるのであった。

●ボルゲーゼ作品
洗礼者ヨハネ3

子羊ではなく角のはえた牡羊、十字架の横木の欠けた棒状の杖は、救世主がいまだに出現せず、人類の罪がまだ贖われていない状況を示す。

これは、旧約の世にあって主の到来を予告したヨハネ位置を示すものにほかならない。

ヨハネ=イサク=キリスト
つまりこの少年は、一見「荒野の洗礼者ヨハネ」でありながら、実は「解放されたイサク」であり、霊肉を備えたキリストでもあるという重層的な意味を持つことになる。




4. カラヴァッジョ逃亡

◯末期の相貌

●悔恨の山──ラティオ逃亡期の問題
アトリビュートの欠如ないし不備は意図的なものにちがいない。それは通常の宗教主題のうちに、画家の個人的で特殊な意味がこめられていることを伝えるためではなかったろうか。

●切られた首の自画像──《ダヴィデとゴリアテ
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ボルゲーゼ美術館にあるカラヴァッジョの《ダヴィデとゴリアテ》は、「殺人者」、「呪われた画家」といったこの画家につきまとう「黒いイメージ」の生成に寄与してきた。



◯犠牲の血

《洗礼者ヨハネの斬首》
洗礼者ヨハネの斬首

「17世紀最高の絵画」とか「西洋美術における究極の傑作」などと評されてきた作品である。

マルタ騎士団
カラヴァッジョが来島した年の前年には、イスラム教徒との戦闘で500人にのぼる騎士とマルタ人が、戦死するか捕虜になっており、島は常に臨戦態勢にあった。

●血の寓意
カラヴァッジョ作品で横たわって血を流す洗礼者ヨハネは、血による洗礼を表し、さらに殉教した騎士を暗示すると思われる。

●鍵と囚人
牢番の三本の鍵は戦利品を表し、英雄的な活動を象徴するものだろう。

処刑現場を覗いている二人の人物は奴隷となってしまった二人の騎士である。

●騎士団長礼賛
この作品は、騎士の戦死、洗礼者ヨハネの殉教、キリストの犠牲という重層的な意味をもっており、対イスラム戦の英雄的な活動をした騎士団長ヴィニャクールへの称賛と、戦死した騎士たちへの鎮魂を込めたものであった。



◯失われた最後の大作

●《生誕》の位置づけ
《聖ラウレンティウスと聖フランチェスコのいる生誕》(《パレルモの生誕》)
羊飼いの礼拝
生誕

この作品は、主題・図像・様式などが伝統的・保守的で、彼独特の斬新さがないようであり、しかも晩年の画風携行に一致しないように思われるため、製作年代を上げる説が繰り返し唱えられた。

●カラヴァッジョのモデル使用
作品に描かれた人物の容貌を比較することによって、製作時期をある程度推定することができると思われる。

●先行作例と晩年様式
二人の聖人を挿入しなければならないこの作品では、祈念画的表現をとらなければならなかったため、安定やモニュメンタリティーが求められたと考えられる。

●《キリストの復活》再現の試み
カラヴァッジョは1603年のバリオーネに対する憤慨の時点で、自分ならこう描くというプランを抱いていたのはたしかであり、それを数年後にナポリ実現したといえる。




【30分でわかる】

はじめに.

カラヴァッジョは、カラヴァッジョ以前、あるいは同時代のローマの画家たちはカラヴァッジョという天才を引き立てる背景にすぎなかったと思われるほどである。




1. カラヴァッジョの位置



◯生涯と批評

●生涯と神話化
人格や画風の基礎がほぼ形成されたはずの21歳までロンバルディアの美術風土の中にいたということはカラヴァッジョの様式の方向性を決定づけたといえよう。
ローマから逃走し、没するまでの四年間の漂泊時代は、同時にカラヴァッジョの芸術の円熟期でもあった。
自然を忠実に模倣したがゆえに自然から復讐されたというマリーノ追悼詩に始まり、自然主義者が太陽に近づきすぎたイカロスや水鏡に魅了されたナルキッソス、あるいは現実の利得に目がくらんだユダのように悲惨な最後を遂げるというプロットがよく適用されている。
カラヴァッジョは死と同時に「呪われた画家」として伝説化・神話化していったのであり、それは現代なお増幅しているようである。

●カラヴァッジョの影響と批評史

カラヴァッジョは、生前からかなり高い評価を得ていた。
カラヴァッジョの影響は、カラヴァッジョ派、カラヴァッジェスキという名で急速に広がった。強い明暗様式、写実的描写、風俗画的要素が特徴である。
だがその後イタリアではボローニャ派が隆盛し、カラヴァッジョ様式は終焉した。
19世紀になってカラヴァッジョは再評価される。レンブラントの明暗法と比較されたのである。
芸術家の個性や革新を重視するモダニズム的な視点から、カラヴァッジョは研究された。
戦後、社会主義的な美術史観が流行すると、カラヴァッジョは左翼的芸術家にまつりあげられた。
血と暴力に彩られた破滅的な生涯をおくりながら、その作品の深い精神性や宗教性が時代を越えて現代人を打つという矛盾が、この画家への興味をかきたててやまないのは否定しがたいことである。



◯1600年前後のローマ画壇とカラヴァッジョ



素朴な写実主義を、 ミケランジェロラファエロに代表されるローマの盛期ルネサンスの古典主義と融合させた点にこそ、バロック様式の先駆者としてのカラヴァッジョの意義があった。

●反宗教改革と美術
16世紀後半のローマ美術は後期マニエリスムを中心として混ざり合っていた。
末には、反宗教改革の精神を反映した厳格で教義的な性格を強めていた。カトリックは視覚イメージによって聖書の言葉をより近づきやすくし、理性よりも感情に訴えて信仰心を高揚させようとした。
難解さ、世俗的要素、裸体などに厳しい目が向けられ、異端審問所は異端的・異教的な美術を取り締まった。
カルヴァンの思想と対照的に、物質的な現実を通して超現実や精神性にいたることを、当時のカトリックでは奨励した。これは写実的な表現や感覚に訴える生々しい表現を要請した。
筆者はカラヴァッジョのイメージにおける暴力性は、殉教図サイクルからの刺激が大きく作用したと考えている。

●クレメンス八世治世下のローマ画壇
教皇シクストゥス五世以降、ローマはキリスト教の首都としての整備が進められた。数多くの画家が集められ夥しい壁画が制作された。反宗教改革のキャンペーンのために聖年(ジュレピオ)が盛大に祝われた。
それらがバロック美術を開花させる契機となったのである。
1590年代から圧倒的な力をもったのはカヴァリエール・ダルピーノであった。
カラヴァッジョは、自分の認める画家として、ダルピーノ、フェデリーコ・ズッカリ、ロンカッリ、アンニーバレの四名を挙げている。

●ロンカッリとダルピーノ
クリストファノ・ロンカッリ通称ポマランチョは、世紀のかわり目に旺盛な活動を展開した画家である。
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《キリストの埋葬》は、天を仰ぐマリアや、「終油の石」など、いくつかの図像的共通性はカラヴァッジョがこの作品を研究したことをうかがわせる。
カラヴァッジョは八ヶ月そのもとにいたジュゼッペ・チェーザリ通称カヴァリエール・ダルピーノに大きな影響を受けた。両者は親方と弟子というより対等に近い関係であったと推測している。
カラヴァッジョはかつての師にして画壇の頂点に君臨する人物に反逆し、超克しようとすると同時に、時にはそこに着想源を求めたのである。
また、最晩年の《ダヴィデとゴリアテ》はダルピーノの同主題作品と関連づけられる。勝利の喜びにもかかわらず憂鬱そうな、あるいは放心したダヴィデの表情である。

●アンニーバレ・カラッチ
「革新者」カラヴァッジョとともにローマ画壇に衝撃を与えた「改革者」アンニーバレ・カラッチは、しばしばカラヴァッジョと比較されてきた。両者を対抗的にとらえる図式があった。
だが「反マニエリスム」とミケランジェロラファエロといった古典を研究したという共通性があきらかになった。そしてその経歴と運命は「奇妙にも一致」している。
二人には共通のパトロンが多く、当時からライバルと目されていたらしい。個人の宮殿に限定され、教皇庁のための仕事は皆無であった。
アンニーバレの《聖マルガリータ》を眺めた際、カラヴァッジョは「自分の時代に真の画家を見ることができて嬉しい」と称賛したという。
カラヴァッジョはヤコポ・ズッキ風の象徴的神話世界から、アンニーバレ風の寓意的神話世界に転換し、《勝ち誇るアモール》やカピトリーノの《洗礼者ヨハネ》といった裸体像に結実した。

●ジョバン・バッティスタ・ポッツォとその他の画家たち
ロンバルディア出身で優れた才能をもっていた夭折のジョヴァン・バッティスタ・ポッツォとの関係にふれる。
サンタ・スザンナ聖堂の装飾がある。
「ローマにおいて、ラファエロとアンニーバレにいたる様式展開の重要な発展段階を示す」と評されるほどである。
《聖ゲネギウスの洗礼》の雲から身を乗り出す若者の天使は、カラヴァッジョの《聖マタイの殉教》の右上の天使に借用されている。
サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂サンタ・ルチア礼拝堂の《嬰児虐殺》の右手前で顔を覆う母親は、カラヴァッジョの老婆にそっくり借用されている。
カラヴァッジョの作品には、明らかに同時代の画家たちの影響が見られるのだが、ただしそれは彼がラファエロミケランジェロを引用するときと同じく、図像や構成の上に限定されており、それらは自然主義的で明暗対比の強い彼独自の様式によって処理されているため、一見その影響が判別しがたいのである。
彼はどの時代のものであれ、気に入った作品を貪欲に吸収したのではないだろうか。そしてその記憶を、ローマを後にしてからも保ちつづけたのである。




2. カラヴァッジョ芸術の特質



◯回心の光



1600年代初頭は、イエズス会による海外布教がさかんとなり、非キリスト教徒をいかに効率よく改宗させるかという問題が議論された。またローマでは、プロテスタントユダヤ人を改宗させる運動がさかんであった。
そのため、「改宗」や「回心」はもっとも好まれた主題となる。カラヴァッジョの代表作の多くもそれを扱っている。

●速やかな回心
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂のために描かれた《聖マタイの召命》、《聖マタイの殉教》《聖マタイと天使》は、バロックという新しい時代様式の開幕を告げるものであった。
《聖マタイの召命》でのキリストはミケランジェロの《アダムの創造》のアダムと同じ手を差し出している。
筆者は左端の若者がマタイであると考えている。
これは「速やかな回心」であり、マタイは何の躊躇もなく立ちあがり、直ちにキリストに付いていったことが、マタイ改宗の最大の奇蹟なのである。
カラヴァッジョはドラマのクライマックスではなく、その直前を選んで描いたということになる。
《聖マタイの殉教》についても、新たな見解を提示した。
この場面はマタイを殺され、蜂起する信者たちの姿を描いたものだということだ。
そうすると、中央の抜き身の剣を握った若者は、マタイが洗礼を施す者であり、それゆえに半裸なのである。刺客は左の四人であり、画家の自画像である人物が、この若者に剣を奪われたということなのだ。
そう考えると、これはカラヴァッジョによる観者への挑戦ともとれよう。
そして、キリストはすでに踵をかえしている。既にマタイはキリストの声を聞き、内面で回心が起こっていると考えられよう。この場面ですでに召命は成就しているのだ。

●天からの声
サンタ・マリア・ポポロ聖堂チェラージ礼拝堂にカラヴァッジョが描いた《聖パウロ》の回心と、《聖ペテロの磔刑》も、改宗と殉教という主題の組合せである。
伝統的な図像では、落馬するパウロと、天に出現したキリスト、光に打たれて驚き慌てる周囲の人々とが組み合わせて表現されてきた。
《聖パウロの回心》のカラヴァッジョの最初のバージョンでは、右上にキリストと天使が顔をのぞかせている。
だが、礼拝堂に設置された描き直しされた第二バージョンにあるのは、地に倒れるパウロと巨大な馬と馬丁だけである。しかも馬丁も馬もパウロに起こった異変に気づいていないかのように動作をとめている。
第一作と第二作との間には大きな主題解釈の変化が起こったのである。
これは「宗教美術史上もっとも革新的」と評された。
カラヴァッジョはドラマチックであるべき主題を、一人の人間の内面に起こった静かなドラマに変容させたのである。ここには強い光も描かれていない。
夏の午後、この礼拝堂に行くと、後方の高い窓から差し込む日差しがあたかも神の光のように画面を斜めに横切って、倒れているパウロの広げた両腕に受け止められているのを見ることができる。
この作品も現地で(in situ)で見なければならないものである。
この構成によって作品は現実空間に接続し、奇蹟が観者の目前で起こっているような錯覚を覚えさせるのである。
奇蹟が眼前で起こるというイリュージョンによって、礼拝堂内の日常的な地平が昇華され、観者は宗教的な感情に包まれる。壮大なスペクタクルよりも、この改宗劇のほうがより現実的で深い説得力をもって理解されるのだ。

●死からの覚醒
メッシーナに移ったカラヴァッジョは、1609年の初めに《ラザロの復活》を制作した。
やはりこれも伝統的な図像からはずれている。
右手には光、左手は髑髏に向けているというラザロのこのポーズは、精神的にも肉体的にもいまだ生と死、救済と罪との葛藤にいると解釈される。
《召命》では光に当たっていたキリストの顔が、ここでは完全に闇に沈み、真っ黒になっているのが注目される。
後ろをふり返っている三人の男たちの視線は、不思議な事にキリストではなく、画面の外に向けられている。あたかもラザロに息を吹き込んだのは、墓室に差しこんできた光であり、人々には実はキリストが見えていないのではないかと思わせる。

この作品は美術館に移されたため、残念ながら聖堂内での当初の効果は不明だが、おそらく画中の光はチェラージ礼拝堂の場合のように現実空間のそれと一致していたのだろう。
パウロは神をすべて受け入れ、回心しているのに対し、ラザロは左手をまだ髑髏の上に置き、死(罪)から全面的に覚醒してはいないようである。
そして、《召命》のマタイと同じように、ラザロの顔の半分に光が当たり、内面の覚醒が示されている。

●カラヴァッジョにおける回心
以上の三点の作品は、徴税人、パリサイ人、死者という否定的な存在が、いずれも神によって新しい命を吹き込まれる瞬間が扱われている。
奇蹟というものは基本的に個人の内面にしか起こらない。特に回心については、第三者には知覚できないものである。
カラヴァッジョは、天使などの超越的な存在を描かず、現実的な光のみによって主人公の内面に起こった変化を暗示するにとどめた。さらに、それに迫真性を与えるために、写実的な細部描写と、現実の光を取りこむ巧みな明暗表現によって、作品内のドラマが現実空間で起こっているようなイリュージョンを与えた。
こうした奇蹟の現実的解釈は、奇蹟に懐疑的な現代人をも惹きつけるのである。
それは反宗教改革の精神をもっとも完璧に体現した芸術であるだけでなく、宗教美術の新たな可能性を示すものであった。
《ラザロの復活》を描いたメッシーナで、聖堂に入る際に聖水をつけるように勧められた画家は、「その必要はない。自分の罪は死すべきものだからだ」ともらしたという。



◯幻視のリアリズム



●巡礼者たちのヴィジョン
ローマのナヴォーナ広場にほど近いサン・タゴスティーノ聖堂には《ロレートの聖母》がある。
男の巡礼者は汚れた足の裏をこちらに見せており、聖母は巡礼たちのほうに顔を向け、幼児キリストは右手で彼らを祝福しているようである。
ロレートとは、1294年にキリストの生家(サンタ・カーサ)がナザレから異教徒の手を逃れて飛来したという伝承から聖地となったマルケ地方の街で、イタリア有数の巡礼地であった。
図像的には幼児キリストとともにサンタ・カーサに乗って天使たちに運ばれているものが一般的であった。
カラヴァッジョ作品は、それらに反して、ロレートの聖家に奇蹟を暗示する点も、ロレートにある聖母像を思わせる要素も見当たらない。
この作品に登場するような巡礼は、もちろんロレートにもたくさんいたであるが、カラヴァッジョの時代のローマに溢れていた。
作品のあるサン・タゴスティーノ聖堂は、巡礼の最終的な目標であるヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂に通じるサン・タンジェロ橋への途上に位置し、多くの巡礼も立ち寄った場所である。巡礼たちは、この画面の中に自分たちの姿を認めたにちがいない。
カラヴァッジョ作品の聖母子は、聖母に比して幼児が大きすぎるが、ロレートのサンタ・カーサにあった聖母子の彫像はキリストが大きかったという。
さらに聖母子が立っている石段は、左の端がやや欠けているように見えるが、これはロレートのサンタ・カーサの石段と一致しており、現在でも確認できるという。
この作品に描かれた巡礼者の汚い足は、重要な跣足式を暗示するものにほかならないと言われている。
この印象的な聖母の源泉は、画家の故郷の教会にある一枚の祭壇画に求められる。
聖母は巡礼者のみに顕現したものであり、聖母子が実体化しているのは彼らの心のうち、あるいは視野の中においてのみである。
この画面には、巡礼のいる現実の聖域の空間と、巡礼の幻視(ヴィジョン)というふたつの異なるレベルの空間が共存しているのである。
ロンギはこの作品を「モニュメンタルで民衆的な奉納画(エクス・ヴォート)」と称している。カラヴァッジョの作品は、ロレートにも多く見られたであろうエクス・ヴォートの図像を借用した可能性がある。
それゆえに、この作品は高貴な芸術には無縁であった巡礼や民衆にも理解しやすかったのだろう。

●ヴィジョンへの参入
巡礼姿は《エマオの晩餐》にも登場する。
右側のこの男は、短い皮のマントを被り、巡礼の象徴である帆立貝の貝殻を胸につけている。
目をひくのは「鬚がない若者のような」キリストである。
この作品の引き込まれるような迫力と強い現実感は、彼以前の宗教画にはまったく見られないものである。
ここには突出効果とでもよぶべき技法が駆使されている。ひとつは落ちそうな果物籠であり、左の使徒の肘、右の巡礼の左手、キリストの右手の短縮法である。
カラヴァッジョ作品にはつねに「絵の外へ」向かおうとする描写があり、画中空間と観者の空間とを接合させているのである。
《エマオの晩餐》の半身像の人物はほぼ等身大であり、この画面に向かう観者はこの夕食の席に参加しているようなイリュージョンをおぼえる。これは邸宅の一室に飾る目的で制作されたのだ。
卓上の静物には象徴的意味が読み取られてきた。
観者はこの現世の食べ物を前にしつつ、その向こうにある永遠に生きるための食べ物、つまり救済へと誘導されるようである。
同時代風の衣装によって、日常的な食事の光景に突如キリストが侵入したような感を与える。カラヴァッジョは、風俗画的な表現であっても深刻な宗教画として許容させようとしたのである。
観者は世俗的人物に同化しつつ、聖なる情景に直接的に参加することになる。そのとき聖なる情景は歴史的な出来事ではなくなり、今まさに目の前に起こっている、つまり、画中の人物にとっても観者にとってもヴィジョンとして立ち現れるのである。
《エマオの晩餐》と同時期に制作され、きわめて近いと思われる作品として、アントニオ・ヴィヴィアーニの《聖グレゴリウスの食事》がある。
作品の設置された場そのものを激情的な作品に仕立てあげる手法は、バロニオのトリクリニウムにその淵源が見られ、やがてベルニーニによって大成されるのである。

●瞑想の空間
カラヴァッジョは1606年にローマから逃亡し、パレストリーナザガロロといったローマ近郊のコロンナ家の領地に身を隠しながら、もう一点の《エマオの晩餐》を制作したと思われる。
この作品の印象は一作目と全く異なる。
人物たちは動きを抑え、はるかに内向的になり、食事も質素なものとなっている。
前作が、キリスト出現のドラマであったのに対し、悲劇的な雰囲気すら感じさせるこの作品では、人物たちは静かにキリストの声に耳を傾けているようだ。
描写も、すばやく荒々しい筆触にとって代わったが、これは逃亡時代のカラヴァッジョの様式に共通する晩年様式となった。
ロンドンの作品では、キリスト以外の人物や事物が強い現実味を帯び、観者のいる空間と時間を共有していた、つまり現実とヴィジョンとが混交していたのに対し、ここでは給仕の二人のみが観者と同じ現在におり、彼らとともに観者はキリストと使徒の晩餐のヴィジョンを見ることになる。
その後画家が辿り着いたナポリで、ピオ・モンデ・デラ・ミゼリコルディア聖堂のために制作された《慈悲の七つの行い》は、ナポリの裏通りを思わせる薄暗い場所で、七つの善行やそれを象徴するエピソードが、きわめて現実味の強いドラマとなって展開している。
この主題を扱った従来の図像と大きく異なり、「制度的なカトリックともプロテスタントとも異なる彼のキリスト教的善行のヴィジョン」が表現されているものの、それぞれのエピソードをパッチワークのように集めて一画面に詰め込んだような窮屈さが感じられる。
しかし、この画面が統一空間ではなく、これらひとつひとつがヴィジョンであると考えれば、この構成の無理が説明されるのではないだろうか。
マルタ島に渡った翌年の1608年にヴァレッタのサン・ジョヴァンニ大聖堂付属オラトリオの祭壇画として描かれ、現在もそこにあるこの画家畢生の大作《洗礼者ヨハネの斬首》については、やはりその特異な図像が注目される。
処刑現場を覗き見る二人の囚人がいる。
この二人の囚人はトルコと戦って囚われた騎士を暗示している。そして観者と同一の時間にいる一般民衆として観者とともに事件や奇蹟に立ち会う役割を果たしている。
中央の執行人は通常の斬首の図像とはかけ離れ、羊を屠殺するような身振りをしている。
これはトルコ軍と恒常的な戦闘状態にあった聖ヨハネ騎士団たちの殉教を示している。
これも「二重ヴィジョン」だとすれば、処刑人は犠牲の羊を屠殺しながら、騎士の犠牲の死のヴィジョンを見ており、二人の囚人は、誰かの処刑に洗礼者ヨハネの斬首という歴史的事件のヴィジョンを重ね合わせているのだ。
騎士たちは、キリスト教を守るべく自分たちを犠牲にすること、それは主の犠牲につながるものであることを感じ取っただろう。
脱獄したカラヴァッジョはシラクーサに逃れ、そこで旧友の画家ミンニーティに迎えられ1608年末にサンタ・ルチア・アル・セポルクロ聖堂に《聖ルチアの埋葬》を制作した。
聖ルチアが埋葬されるというきわめて珍しい主題である。
「イタリアの伝統にかつてなかったものであり、すでにレンブラントを予告している」といわれる。
「前景と後景との急激な対比」は奥行きのイリュージョンを生み出すためのものであったろう。
観者は、墓掘り人の隙間に見え隠れする小さな遺体を取り囲む哀悼の場面に、遠くから静かに参加することになる。
殉教の勝利を表す棕櫚の葉も、上空を飛ぶ天使も見えず、単なる一人の人物がひっそりと埋葬される情景があるばかりである。
「虚無を視覚化した暗く深い死の絵画」と評される。
この情景自体、墓掘り人のヴィジョンと見ることもできる。二人は土木作業に従事する現実の労働者であり、左の男はしゃべる手を止めてふと顔を上げ、かつてそこで行われた聖女の埋葬のヴィジョンを見ているのかもしれない。
左の男は光=救済に、右の男は地=死に向かっている、つまりこれに続く《ラザロの復活》においてのラザロが、ここでは左右の二人に分かれていると考えられる。
後景が異様に小さいのも、それが現実ではない過去の情景のヴィジョンであるためであると見ることができるのである。
《ラザロの復活》は1609年に慈善宗教団体クロチーフェリ会の礼拝堂のために制作された。
臨終の病者が奇跡的に息を吹き返すこともあったであろうが、そんなとき彼らは主の臨済を感じたにちがいない。
この作品はクロチーフェリ会が活動の場としていた、サンティ・ピエトロ・エ・パオロ・デイ・ピサーニ聖堂の主祭壇に設置されていたようだが、修道会士たちが、自分たちの活動をここに重ねて見たのはごく自然なことである。
《羊飼いの礼拝》では、神の子の奇跡的な誕生を崇拝するというより、貧しい庶民の誕生を、居合わせた身近な人々がささやかに祝している情景のように見える。
彼らの日常の現実と融合し、画中の卑俗な現実そのものが観者を取り込んで聖なるヴィジョンと化しているのである。

バロック的のヴィジョンへ
17世紀にはカトリック圏で幻視あるいは法悦(脱魂)の主題が大きな流行を見た。
幻視体験とともに起きるのが法悦(エクスタシー)である。
カラヴァッジョの《ロレートの聖母》はこうした幻視画のプロトタイプであった。
現実性を取り込んだカラヴァッジョ的なヴィジョン表現は、ベルニーニによって発展し、変質していった。
1647-1652年のサンタ・マリア・デラ・ヴィットリーア聖堂コルナロ礼拝堂は、「建築・彫刻・絵画を統合した美しい総合物(bel composto)」の典型である。
ここに数段階の現実、つまり、観者の空間にいるコルナロ一族、天蓋と光ににょって観者から隔てられた聖女の幻視、そしてまばゆい天空という三段階のヒエラルキーを認められ、観者はこの関係に巻き込まれ、人間→聖人→神というヒエラルキーの証人となると述べられている。
ベルニーニは総合芸術(ベル・コンポスト)によって観者のいる現実空間を神秘劇の劇場に変容させたのだ。
ベルニーニは、カラヴァッジョの「劇場化」を完全に理解し、彫刻や建築を総動員してこれを完成させたといってよい。
しかしカラヴァッジョの自己省察的な厳しさは、同時代にも模倣されず、カラヴァッジェスキを含めて後の時代にもほとんど継承されなかった。
世俗の塵埃と罪の暗黒のうちに救済の光を見るカラヴァッジョのヴィジョンは、ナポリやスペインの厳しい宗教風土やオランダや北欧といった質朴な新教国で新たな発展をとげた。
客観的なリアリズムを通して内面的なヴィジョンを表現しえた点にこそ、カラヴァッジョの真骨頂があるといってよいだろう。



3. カラヴァッジョ作品の諸問題



◯真贋の森



●カラヴァッジョの複数作品
カラヴァッジョの作品はそれほど多くないが、生前からの人気からコピーが多くつくられた。
同時代のアンニーバレ・カラッチと違って版画が少いのも特徴的である。
コピー・レプリカ問題("doppi”)がつきまとっている。
マグダラのマリアの法悦》にもきわめて多くのコピーが存在する。
《女占い師》は、詳細な科学的調査の結果、加筆は多いが、オリジナルだと認められた。カピトリーノ作品では、占い師も青年もルーヴル作品は別のモデルである。
リュート弾き》もこれが最初のパトロンであるデル・モンテ枢機卿の所蔵であったことがあきらかとなった。
発見されて修復された原作を見ると、それまで議論していたコピーが急に色あせて見えてくるほど、それらとは隔絶した、巨匠特有としかいいようのない質の高さを感じさせる。

●最初期の《果物を剥く少年》の問題
《果物を剥く少年》は真筆であるにしてもコピーであるにしても、カラヴァッジョの最初期の作品を伝えるものであることはまちがいない。
多くのコピーが残っているにもかかわらず、原作は失われたという見方が強い。
ローマ作品と東京作品では、シャツの下部の内側に折れている部分の描き方が違う。
最大の違いは、ローマ作品のほうがサイズが大きく、正方形に近いため、少年の右腕が画面枠にすべて収まっているのに対し、東京作品は長方形で右腕の肘が左の画面左枠で断ち切られているという点である。
この作品の主題についてはいくつか考えかたがある。
桃のような甘い果実がおいてありながら、酸っぱい果実を選んで人生の辛酸を知る若者の寓意。これは《トカゲに噛まれた少年》と同種の解釈である。
筆者は、果物の下の小麦の穂に疑問をもった。
小麦は聖餐式の象徴であり、葡萄と麦が組み合わされていれば、よりあきらかにキリストの犠牲を象徴する。
この画面では葡萄のかわりに原罪を暗示する果実が登場している。
果物を剥く少年の行為が原罪の浄化であり、麦の穂も同様の意味を表し、救済の意味を補強するものではないだろうか。
いずれにしても、《果物を剥く少年》は、カラヴァッジョの最初期の重要な作品でありながら謎が多く残されている。



◯カラヴァッジョの身振り



「カラヴァッジェスキの独自性は身振り、とくに手の緊張の効果に集中したことにあった」
とアンドレ・シャステルは述べている。
カラヴァッジョの絵画に見られる身振りは、ステレオタイプ化された反宗教改革期の絵画と異なり、より自然で調整されている。
彼の用いた身振り表現はその作品の意味を解き明かす上でも重要である。
身振りは一般に、感情表現などの「表現的身振り(expressive gestures)」と政治的・儀礼的行為などの「象徴的身振り(symbolic gestures)」の二種類の分類される。

●「マタイ論争」と身振り
時間や動きを表現することのできない美術は、ひとつの身振りでその前後の状況を示す必要があった。
そこでは、表現の伝統とコードに則ったいくつかの型によって表現されることになる。
人物表現の型は、記号として画面内で機能する。
つまり身振り表現は、造形的伝統に照らして考察する必要があるのである。
《聖マタイの召命》をめぐる論争がある。
人差し指の点から見ると、これは中央の鬚の男が自分を指すように見えるのだが、人差し指でこのような身振りをする作例があるだろうか。
カラヴァッジョ自身も多くの人差し指を描いている。
そこで頻出する人差し指は必ず自分以外の第三者を指し、しかもほとんどの場合、それに指示されるものは画面の主役たる聖なる存在である。
それゆえ、左の若者こそがマタイであると考えるべきではないだろうか。
頭を垂れる姿勢は祝福や洗礼を受ける場合によく見られる。腕を組んでいるように見えるのも、謙遜の身振りをしていると解釈できるだろうか。
エスはこうたとえている。
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのだ」。
他人を指差して顔を上げる男と、うつむく男との対比は、ルカ伝の譬話を介してマタイ召命のドラマをもっとも効果的に演出していると考えられるのである。

●オランスの身振り
絵画でしか表現できない身振りとしては、ひとつの身振りが二つ以上の意味を暗示するというものがある。
カラヴァッジョの作品には、両腕を左右に広げる身振りが多く見られる。
ここでは仮にこの身振りを「オランス型」とよぶことにしたい。
この身振りはバロック期にいたって広く流行した。
1602年頃にカラヴァッジョがオラトリオ会の総本山キエーザ・ヌオーヴァ(サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂)のために描いた《キリストの埋葬》ではクレオパのマリアがきわめて目を引ひく。
カラヴァッジョのこの作品には、初期キリスト教文化の再評価運動の中心であるオラトリオ会の思想が色濃く繁栄している。
カタコンベ壁画に見られるオランスの図像がよく似ているのだ。
とくにプリシラカタコンベにあるオランスの図像は、両腕を広げた身振りだけでなく、光に向かって左上に上げた顔、左目にかかる髪までが共通する。
《キリストの埋葬》は、オラトリオ会の祈りの理論を視覚化したものであるとされている。
両手を上げるクレオパのマリア、涙を拭うマグダラのマリア、身をかがめるニコデモという三人の姿勢は祈りの三形態を象徴しており、中でも天に目を向けるクレオパのマリアは恩寵の光を受け、復活を暗示しているという。
この両手を上げて立つ身振りは、オラトリオ会を中心に普及したものと考えられる。
これは古代においては負けた者が両手を挙げて武装解除たことを示す降伏の身振りであったが、これが嘆願から祈りを示すものとなり、古代教会では一般的な祈りの姿勢となった。
これはイエズス会のサント・ステファノ・ロトンド聖堂の殉教図サイクルなどにも見出すことができる。
アンニーバレもこのオランス型の身振りをいくつか描いていることからも、やはりオラトリオ会の復古趣味が影響しているようである。
より直接的に十字架のポーズが登場するのは、1609年にメッシーナのクロチーフェリ修道会に描かれた《ラザロの復活》である。
「永遠の夢から覚めて体を伸ばし、右腕で闇を横切って指先で光を汲み取る」このポーズをロンギは「卓抜な創造」としている。
これは「イタリア絵画では類例がない」、独創的なものである。
ラザロのモデルは、クロチーフェリ会が維持している、聖週間の祭礼に用いられたシチリア独自の彩色された等身大の木彫磔刑像だと想定されている。
カラヴァッジョ作品のもっていたこうした象徴的な側面は、カラヴァッジェスキの画家たちに継承されることはなく、17世紀には表現的な身振りの集積によって構成されるドラマチックな説話表現、つまり歴史画が隆盛を迎えるのである。



◯二点の《洗礼者ヨハネ》の主題

カピトリーノ美術館にあるカラヴァッジョの通称《洗礼者ヨハネ》は、近年その新たな疑問が投げかけられている作品である。
子羊の代わりに大きな角を持った老羊を抱くこの少年は本当に洗礼者ヨハネであろうか。ヨハネでなければ誰なのか。まだ充分に納得できる結果を見ていない。
ボルゲーゼ美術館にある《洗礼者ヨハネ》にも牡羊が登場するが、これについては疑義が提出されていない。
ふたつの「洗礼者ヨハネ」をどのように捉えるべきだろうか。

カピトリーノ作品
この解釈論争は新たな局面を迎える。
「解放されたイサク」であるという説が相次いで提出されたのである。
左下の赤いタッチは、布ではなく火であるとし、少年は犠牲の祭壇の上にいて天使に解放されたところであり、自分の代わりに犠牲に供されようとする牡羊を歓喜のあまり抱擁している場面であるとした。
裸体であるのは犠牲に供されようとしたからで、羊が祭壇の上にいるのはこれから犠牲に供されるためであると解釈された。
フィレンツェウフィツィ美術館にあるカラヴァッジョの《イサクの犠牲》の泣き叫ぶ顔と対照的であることから、両者の間に意味的な連関を認めようとしている。
この場面がウフィツィ作品の《イサクの犠牲》に続く情景であるとしている。
画面右下の植物、イチイはキリストの受肉、死、復活を示すという点からも、この作品はイサクの解放に予告されるキリストの復活を示すものであるとした。
最近になって、アブラハムはここでは画面の外にいるとし、それによって観者はアブラハムの位置に自らを置くことによって深く画中の出来事に関わることになるという論文が発表された。
かれらはこうした効果を「transaction of experience(体験転化)」と呼ぶが、これは筆者がカラヴァッジョの特質のひとつだと考える「不在効果」にほかならない。

●カラヴァッジョにおける「不在効果」
パレルモにあるアントネッロ・ダ・メッシーナの有名な《受胎告知》は、聖母のみが描かれ、もう一人の主人公である天使が登場しない。観者が天使の役割を果たすことになるのだ。
16世紀前半に北イタリアで写実的な絵画を制作したサヴォルドの《マグダラのマリア》も、こうした不在効果を代表する作例である。
これは、復活したキリストを前にしたマグダラのマリア、つまり「ノリ・メ・タンゲレ(われに触るな)」の場面である。
マリアの衣が尋常ならざる光に照らされているのは、キリストから発せられた光のためであると考えられる。
また、レンブラントは1637年頃のハーグにある《スザンナ》において、観者がスザンナのおびえた視線に直面し、スザンナを脅す長老の一人を画面の外に置いて観者と同一視させようとした。
不在効果の作品では、聖なる情景を画中で完結させず、画面枠で断ち切ることによって、画面外にその情景が継続しているように感じさせるのであった。
こうした風潮の影響を受けつつ、情景をわかりやすく表現し、それに現実性を与えて観者を引き込むという課題を解決したのがカラヴァッジョであった。
ウフィツィ美術館にある《バッカス》では、杯をこちらに差し出すバッカスは酔眼を観者に向けて、寝台に横たわり、自らの帯をほどこうとしている。つまり、観者を宴会と情事の相手に誘っているのである。
ちなみに、ワインのフラスコには画家の顔が映っており、観者が画面の前で立つべき場所に画家が位置していたことがわかる。
《エマオの晩餐》での聖なる情景が風俗画のように俗化していないのは、光の効果のためである。
左手前の空間が空いているのに気づくが、ちょうどキリストを前にしてテーブルをはさんだこの席についているような気になる。
観者はもう一人の巡礼になって、画中の巡礼とともにキリストの復活を目の前にしているような感をおぼえるのだ。
カラヴァッジョによって、反宗教改革的なわかりやすい宗教画に、神秘性や聖性を失うことなく現実性がもたらされたのである。

●ボルゲーゼ作品
ボルゲーゼ美術館の《洗礼者ヨハネ》に疑問に呈されたことがないのは、描かれた人物が、カピトリーノ作品のような幼い少年ではなくて、青年であり、全裸ではなく、杖を持っているちう、伝統的な洗礼者ヨハネの図像に近いからであろう。
しかし、よく見ると子羊は角のはえた大きな牡羊に、十字架上の杖はただの棒になっており、洗礼者ヨハネの主要なアトリビュートであるラクダの毛皮も描かれていない。
画家は伝統的な図像に反して十字架を避けたようである。つまりここでは、少年が単なる洗礼者ヨハネに同定されることが巧妙に回避されていると考えられるのである。
子羊ではなく角のはえた牡羊、十字架の横木の欠けた棒状の杖は、救世主がいまだに出現せず、人類の罪がまだ贖われていない状況を示すのである。これは、旧約の世にあって主の到来を予告したヨハネの位置を示すものにほかならない。

ヨハネ=イサク=キリスト
カピトリーノ作品の少年が、イサクでありながらヨハネのような設定で表現されたものであるとすれば、それはこの両者の共通性、つまり、イサクもヨハネもキリストの死とそれによる救済を予告し、象徴するという点からではないだろうか。
ところで、いずれもキリストであるイサクと牡羊とが抱擁していることはどのように解釈されるであろうか。
イサクが背負っていった薪は、キリストが背負った十字架であり、十字架は「イサクの木」であるといわれる。
イサクは殺されることを免れ、代わりに羊が犠牲になったが、これはキリストの神性は殺されずにその人間性のみが死んだということを示しており、イサクはキリストであり羊はキリストの人間性である。イサクの代わりとして、アブラハムが茨の茂みの中で見つけた羊は、茨をつけたキリストの肉体である。
この教説によると、イサクと牡羊とが一体になれば、神性と人間性とを兼ね備えたキリストそのものを象徴することになるのである。
この少年と牡羊との抱擁は、キリストにおける神性と人間性との結合を示すものではないだろうか。
つまりこの少年は、一見「荒野の洗礼者ヨハネ」でありながら、実は「解放されたイサク」であり、霊肉を備えたキリストでもあるという重層的な意味を持つことになる。
救世主が出現すれば人類の罪が贖われるように、恩赦が出れば罪深い画家は救済されるのである。
ヨハネが杖に依る表情は、放浪の果てに行き倒れた画家の最後の表情に重なるように思われるのである。




4. カラヴァッジョ逃亡

◯末期の相貌

●悔恨の山──ラティオ逃亡期の問題
1606年ローマから逃亡したカラヴァッジョは、同年10月6日にナポリに現れるまでの4ヶ月間を、コロンナ領の山岳都市、ザガロロ、パレストリーナ、パリアーノを点々と潜伏して過ごす。
ローマでは恐るべき「死刑宣告(bondo capitale)」が出されていた。
このとき制作されたのが、ミラノにある《エマオの晩餐》と《マッダレーナ・クライン》だとされている。
《エマオの晩餐》は1601年に制作されたロンドンの第一作と比べると、大きな変化が見られる。
身振りは最小限に押さえられ、人物たちは静かに闇の中に沈んでいる。
細部描写も見られず、大まかな筆触が目立っている。
これらの特徴はこの時期以降のカラヴァッジョ作品に共通するものとなった。
マグダラのマリアの法悦》の注文主は不明だが、画家が死の間際まで携えていたものにもあった。
主題はあきらかに悔悛だが、その表現は法悦を思わせ、17世紀に大流行する法悦の表現の嚆矢となった。
やはりここでは、ベルニーニ的な法悦ではなく悔悛の激しい苦悩が表されていると見るべきだろう。
ラツィオ逃亡記に描かれた《エマオ》と《マグダラ》の深い闇と瞑想的な雰囲気は、その直前のローマ時代の終わりごろの《執筆する聖ヒエロニムス》にその萌芽があった。
よく観察すると、奇妙なことに聖人の視線は書物の端からそれており、書物の上にかがみこみながらも内面に沈潜しているようである。
これにきわめて近似しているのが、《瞑想のフランチェスコ》である。
ここでは伝統図像から逸脱し、聖人の孤独な人間性が強調されている。
これはゲッセマネのキリストになぞらえられており、同時にヒエロニムスやメメント・モリと結びついた人文主義的なメランコリーの図像とも重なり合っている。
もう一点の《祈る聖フランチェスコ》はどうであろうか。
二度目に滞在したナポリでは、《聖ウルスラの殉教》に見られるように、画面を覆う闇に人物が侵食され、画家の焦燥と絶望が表出しているかのようである。
ダヴィデとゴリアテ》はカルピネートの《聖フランチェスコ》が発展したものと見ることができる。
恩赦を得るということが晩年の画家の最大の目的となっていたことはまちがいない。
いまだ聖痕を拝受していない《聖フランチェスコ》も、《洗礼者ヨハネ》と同じ文脈で、山中で聖痕を希求する姿に、罪の赦しを求める画家の姿が重ね合わせられているようである。
アトリビュートの欠如ないし不備は意図的なものにちがいない。それは通常の宗教主題のうちに、画家の個人的で特殊な意味がこめられていることを伝えるためではなかったろうか。
カラヴァッジョが潜伏したラツィオの山岳都市は、いずれも山道や石段を延々と上りきった高い山上にあり、車のない時代に登るのは大変な苦労だっと思われるが、そこからの眺望は格別である。なだらかな緑の平野のはるかの果てには、ローマの街がきらめいて見える。
パレストリーナザガロロでは、カラヴァッジョの滞在した旧パラッツォ・コロンナが現存している。
光が強いほど陰も濃くなるように、画家の描く画面の闇はますます深くなっていった。
彼が流れ着いた先々で、その暗黒様式(テネプリズモ)がまたたく間に浸透したのは、あるいはこの陽光の明るさゆえではなかったろうか。

●切られた首の自画像──《ダヴィデとゴリアテ
ボルゲーゼ美術館にあるカラヴァッジョの《ダヴィデとゴリアテ》は、「殺人者」、「呪われた画家」といったこの画家につきまとう「黒いイメージ」の生成に寄与してきた。
「様式的というだけでなく心理学的にまさに最晩年に属している」と評される。
ゴリアテの首がカラヴァッジョの自画像であるということは17世紀から広く信じられており、オッタヴィオ・レオーニが描いたカラヴァッジョの肖像と比較しても納得できるものである。
カラヴァッジョの自画像は、《病めるバッカス》、《聖マタイの殉教》が認められている。
《病めるバッカス》で、ロンギは顔色の悪さから見て、コンソラツィオーネ病院に入院していた頃に描いたと考えている。1593-1594年頃のカヴァリエール・ダルピーノに画家が弟子入りしていた期間に重なる。
常にモデルに依存していた画家が、モデルの調達できない入院中に、自分の姿を鏡に映して描いたという事情は想像に難くない。
自作の多くに変装した自画像を描きこんでいながら、独立した自画像は描かなかったとことに、この画家の屈折した自我を読み取ることもできよう。
シチリアから再びナポリに戻ってきた1606年10月、カラヴァッジョは居酒屋チェリーリオの前で襲撃され、瀕死の重傷を負っている。
ダヴィデとゴリアテ》のゴリアテとしての自画像も、このときの療養期間中の、同種の事情の産物ではないだろうか。これはあくまでもひとつの仮説である。
中世以来、「ユディト」の主題は「ダヴィデ」と対になって構想されたが、ホロフェルネスの切られた首として肖像が描かれることも16世紀には珍しくなかった。
カラヴァッジョには、初期の《メドゥーサ》、《ユディトとホロフェルネス》から《洗礼者ヨハネの斬首》、《サロメ》など、斬首を扱った作品が多いが、そこに見られる生々しい迫真性は当時ローマで行われていた公開処刑の記憶に基づくと思われる。
とくに1599年9月11日にピアッツァ・サンタンジェロで執行された美少女ベアトリーチェ・チェンチのチェンチ一族の斬首はちょうどその頃制作されたと思われる《ユディト》に反映しているのであろう。



◯犠牲の血

カラヴァッジョの《洗礼者ヨハネの斬首》は彼の最大の作品(361×520)であり、この画家には珍しい古典的な調和と均衡を備えた大作として、「17世紀最高の絵画」とか「西洋美術における究極の傑作」などと評されてきた作品である。
この図像はかなり特殊であり、一太刀で切れなかったヨハネの首を小刀で切り離そうとしているという、美術史上、類例のない瞬間を描写したものである。
この作品は1608年にマルタ島ヴァレッタのサン・ジョヴァンニ大聖堂付属オラトリオの祭壇画として描かれ、現在もそこに設置されている。

マルタ騎士団
マルタ騎士団の歴史については、カラヴァッジョと同時代のジャコモ・ボジオによって1571年までの膨大な正史が編纂されそれ以降はダル・ポッツォが執筆している。
カラヴァッジョが来島した年の前年には、イスラム教徒との戦闘で500人にのぼる騎士とマルタ人が、戦死するか捕虜になっており、島は常に臨戦態勢にあった。
1607年にマルタ島にやってきたカラヴァッジョは、《聖ヒエロニムス》を制作し、1608年にかけて騎士団長ヴィニャクールの肖像を数点描いて、同年7月には騎士団への入会を承認された。
この間、《眠るアモール》を制作した。
1608年前半、《洗礼者ヨハネの斬首》を制作した。
「この作品をカラヴァッジョはあらゆる技量を用いてきわめて大胆に描写し、カンヴァスの地塗りをそのまま残した。作品が見事であったので、騎士団長は十字章のほかに、彼の首に高価な金の首飾りをかけ、二人の奴隷を与えた。」と記されている。

●血の寓意
《洗礼者ヨハネの斬首》は、特殊な場面が選ばれている。
洗礼者ヨハネマルタ騎士団守護聖人であり、騎士団そのものの擬人化した姿にもなりうる。
血の洗礼は殉教のことであり、殉教という「第二の洗礼」は水の洗礼よりももっと純粋であり、キリストの血によって浄化されることであると述べられている。
カラヴァッジョ作品で横たわって血を流す洗礼者ヨハネは、血による洗礼を表し、さらに殉教した騎士を暗示すると思われる。
ナピリのサン・リゴーリオ(サン・グレゴリオ・アルメーノ)聖堂には、聖遺物である小瓶に入った洗礼者ヨハネの凝固した血が、8月29日の洗礼者ヨハネの斬首の火に、祈りとともい溶けて液体になるという奇蹟があった。このミサにはマルタ騎士が立ち会っており、毎年の恒例となっていた。
目の前でルビー色に沸騰して液化する聖血を目撃していた騎士たちは、洗礼者ヨハネの血に対して格別の思いを持っていたに違いない。
騎士団は洗礼者ヨハネの右手をサン・ジョヴァンニ大聖堂のオラトリオに大切に保管している。
カラヴァッジョの画面では、右手首だけが見える。
これは同じ礼拝堂に安置された聖遺物を暗示していたと考えられるのである。
記録によれば聖遺物容器からは親指、人差し指、中指しか見えなかったという。また、薬指と小指が欠損していたという。
作品の右手も、親指、人差し指、中指が目立ち、薬指は先端のみ、小指はほとんど見えないのである。

●鍵と囚人
処刑を支持している人物について見よう。
鍵をぶら下げ、監獄の看守であることが示されている。
サン・ジョヴァンニ大聖堂にある9つの礼拝堂のうちのひとつ、マドンナ・ディ・フィレルモ礼拝堂には、壁に三枚の銀のプレートがはめこまれており、それぞれに鍵の束がぶら下がっている。
これはオスマン都市を攻撃した際の、三度の戦利品である。
牢番の三本の鍵はこの英雄的な活動を象徴するものだろう。
処刑現場を覗いている二人の人物はどうだろうか。
作品が注文される直前の1606年4月に、チンバロ島でのガレー船の難破によって、襲撃を受けた騎士たちが、奴隷として連れ去られるという事件がおこっている。
そこで、負傷した仲間の騎士を助けるために引き返し、結局二人とも捕らえられて奴隷となってしまったという美談がある。
それがこの二人の騎士であると考えれば頭に包帯を巻いているのも辻褄が合う。
騎士団長が与えた二人の奴隷という報酬は、画中の二人のキリスト教奴隷に対応するものと推測することもできるのである。
諸説あるが、大聖堂の近くにある奴隷収容所を舞台としていると筆者はみている。

●騎士団長礼賛
ヨハネの血はちょうど祭壇の中央に流れるようになっている。
マルタ島最大の危機の際に落命した騎士たちの殉教の様子が上にあり、その下には、洗礼者ヨハネの斬首によってより普遍的な騎士団の殉教が暗示され、その下の祭壇上の十字架によってキリストの死による救済にいたるという構成が示されている。
《洗礼者ヨハネの斬首》では、「帝国君主号(プリンチペ・デル・インペーロ)」を授与されたヴィニャクールおよび騎士団の栄光と殉教が表象されていると考えられる。
処刑人のポーズによって、ヨハネは殉教だけでなく、犠牲であることが示され、罪の贖いによる騎士たちの救済が暗示されている。それは価値ある血であると同時に、キリストの贖いの血でもあるわけである。
騎士団長の尽力によって念願の騎士号を手に入れた画家は、ヨハネの首から流れ出る血で、「F Michel A」と自らの名前を記した。
FはFecitではなく、騎士団員であることを示す「Fra」であり、それを誇らしげに示したものだと思われる。
この作品は、騎士の戦死、洗礼者ヨハネの殉教、キリストの犠牲という重層的な意味をもっており、対イスラム戦の英雄的な活動をした騎士団長ヴィニャクールへの称賛と、戦死した騎士たちへの鎮魂を込めたものであった。



◯失われた最後の大作

●《生誕》の位置づけ
《聖ラウレンティウスと聖フランチェスコのいる生誕》(《パレルモの生誕》)は不幸にして盗難にあい、現在なお行方不明である。
この作品は、主題・図像・様式などが伝統的・保守的で、彼独特の斬新さがないようであり、しかも晩年の画風携行に一致しないように思われるため、製作年代を上げる説が繰り返し唱えられた。
多くの説があるが、筆者は、この作品に描かれた人物像のタイプを検討した結果、やはりこの作品は晩年に描かれたものであると判断した。

●カラヴァッジョのモデル使用
作品に描かれた人物の容貌を比較することによって、製作時期をある程度推定することができると思われる。
特に女性や少年、老人に関しては、製作時期による画家のモデルの変遷を容易に辿ることができる。
カラヴァッジョ作品の人物像に注目し、それらを比較対照させれば、ある程度の製作時期を推定できる。
そして、そのことを利用して《生誕》の製作時期も判断できると思うのである。
天使の翼の描写から比較すると、最も近いのは《慈悲の七つの行い》と《受胎告知》の天使である。
ローマ時代のように緻密で写実的ではなく、羽毛の方向が統一され、整理された描写となっている。
それはローマ時代のものよりはナポリ時代のそれに近い。
聖母について見てみる。
マグダラのマリアの回心》、《アレクサンドリアの聖カタリナ》、《ユディトとホロフェルネス》の同一の女性は、娼婦フィリーデ・メランドローニであろうと考えられている。
《ロレートの聖母》と翌年の《蛇の聖母》のモデルは、公証人パスクアローネとの争いの原因となった娼婦レーナ(マッダレーナ・アントニェッティ)であると考えられている。
幼児については、《眠るアモール》、《羊飼いの礼拝》、《生誕》の赤子は同一タイプといえるだろう。
画面左の聖ラウレンティウスは《ラザロの復活》でラザロを両腕で抱きかかえる男の容貌と近い。
以上によって、《生誕》がやはりシチリア時代、特にメッシーナの人物像と同種といってよいだろう。

●先行作例と晩年様式
この作品の様式の特殊性はどうだろう。
これがメッシーナの《羊飼いの礼拝》と同時期に描かれたとすれば、なぜこの作品のみが保守的で、構成などが異なっているのかという点が問題となる。
二人の聖人の存在は、注文者である、サン・ロレンツォのオラトリオ(小集会所)とそれが帰属していた聖フランチェスコ同信会にちなんでいるのは明白である。
二人を挿入しなければならないこの作品では、祈念画的表現をとらなければならなかったため、安定やモニュメンタリティーが求められたと考えられる。
伝統的図像にいくぶん基づいていながら、カラヴァッジョが革新的である点は、幼児キリストを光源としていないことである。
《生誕》の構成と様式も、それが設置されるべき祭壇における効果を意図してのことだったと思われる。
まったく異なる画風は、設置される空間への画家の計算によって説明できるのではないだろうか。
画面に占める人物の割合がやや大きくなり、人物の動きが抑制されたこの《生誕》は、続く第二次ナポリ滞在時に描いた唯一の大作で19世紀に焼失した《キリストの復活》に受け継がれたのではなかろうか。

●《キリストの復活》再現の試み
1609年10月にはシチリアからナポリに戻っていたカラヴァッジョは、翌年7月にローマに向けて死出の旅路に赴く前にいくつかの作品を描いた。
第二次ナポリ時代の作でもっとも重要な大作は、サンタンナ・デイ・ロンバルディ聖堂のフェナロリ礼拝堂に設置されていた《キリストの復活》である。これは1805年にナポリを襲った大地震で教会が倒壊したときに失われたとされる。
この作品はナポリ派に大きな影響を与えたと思われる。
作品の複製版画やスケッチなどはないが、いくつかのディスクリプションが残っており、図像の概要をうかがい知ることができる上、作品を比較的忠実に写したとされるルイ・フィンソンの同主題作品が一種のコピーとして認識されてきた。
だがフィンソンのそれは凡庸で、忠実なコピーとは考えにくい。
いくつかの記述から抽出されるのは、キリストが宙に浮くのではなく、墓に片足を残し、兵士たちの間をこちらに向かって歩いてくる図像である。
奇異に感じられたのは、キリストが画面の下部に位置し、周囲の人物と同じ地平に位置していたからだと思われる。
重要なのは、ピオ・モンテ・デラ・ミゼリコルディア聖堂にある《聖ペテロの解放》である。
このカラッチョロの代表作は、カラヴァッジョの《復活》におけるキリストについてのコメントを想起させる。
カラッチョロは、カラヴァッジョの《復活》の構成をそのまま応用してこの作品を構想したのではなかろうか。
カラヴァッジョは1603年のバリオーネに対する憤慨の時点で、自分ならこう描くというプランを抱いていたのはたしかであり、それを数年後にナポリで実現したといえる。





【60分で理解する】

はじめに.

 

カラヴァッジョは、カラヴァッジョ以前、あるいは同時代のローマの画家たちはカラヴァッジョという天才を引き立てる背景にすぎなかったと思われるほどである。




1. カラヴァッジョの位置



◯生涯と批評

●生涯と神話化
ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジョは1571年のおそらく9月29日ミラノ、あるいはその近郊の町カラヴァッジョで、カラヴァッジョ侯爵フランチェスコスフォルツァの「マギステル」(石工、建築家あるいは執事、家令のような職)であったフェルモ・メリージとルチア・アラトーリの子として生まれた。
1584年4月に北イタリアの保守的なマニエリスム画家といえるシモーネ・ペテルツァーノに徒弟契約をしている。
のちに弟とは頑として会わなかったというエピソードは、財産分与の際に兄弟との間で何らかの確執があったことを想像させる。
ミラノでトラブルがあったのか、カラヴァッジョはローマに出る。
人格や画風の基礎がほぼ形成されたはずの21歳までロンバルディアの美術風土の中にいたということはカラヴァッジョの様式の方向性を決定づけたといえよう。
1593年、サン・ピエトロ大聖堂の要人であったパンドルフォ・プッチのもとに寄寓し、粗末な待遇のもとで宗教画の模写を制作していた。
その後、シチリア出身の画家ロレンツォ・カルロの工房で肖像画を制作し、そこで生涯の友にして初期作品のモデルとなったシラクーサ出身のマリオ・ミンニーティと出会う。
そして、ローマで最大の名声を誇っていたカヴァリエール・ダルピーノの工房に入門した。だが八ヶ月で辞めている。
《いかさま師》に目をとめたフランチェスコ・マリア・ブルボン・デル・モンテ枢機卿の庇護を受け、その宮殿パラッツォ・マダーマに移り住む。
バッカス》《リュート弾き》《女占い師》を描く。
この間、ミケランジェロラファエロの古典主義や当時のローマ画壇の作品群を熱心に研究し、大画面の構成法や人物の情念表現などを貪欲に吸収した。
1599年にサン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂壁画の注文を受け、油彩画による「聖マタイ伝」を制作した。
《聖マタイの召命》と《聖マタイの殉教》はローマ画壇に衝撃を与える。
パラッツォ・マダーマを出た後は、1605年半ばまでサン・ロレンツォ・イン・ルチーナ聖堂近くのサン・ピアジオ地区の借家で暮らしたようである。
しかし1601年頃から素行不良が目立ち、サンタンジェロ城の監獄(トル・ディ・ノーナ)へ出入獄を繰り返すようになり、犯罪記録に頻出するようになる。
もっとも親しい友人は同郷で建築家のオノリオ・ロンギであった。
女性関係としては、1605年にレーナという女性をめぐって公証人パスクアローネに斬りつけ、ジェノヴァに逃亡した。不在の間に財産を差し押さえられた画家は、数日後に怒ってその家に石をなげて窓を壊し、訴えられている。
1606年5月29日、賭けテニスの得点争いの喧嘩といわれるが、日頃からカラヴァッジョのグループと対立していたグループのひとりで売春婦の見張りなどをしていたラヌッチオ・トマッソーニを殺してしまい、ローマから逃亡する。これに死刑宣告、この布告が以後彼を不断に苛みつつ南イタリアを転々とさせたのである。
しかし、以降没するまでの四年間の漂泊時代は、同時にカラヴァッジョの芸術の円熟期でもあった。
ラツィオ地方山岳地帯のコロンナ家の領地匿われて、《エマオの晩餐》の第二バージョンや《マグダラのマリアの法悦》を描き、資金を得た後、秋にはスペイン領であったナポリに行く。
翌年夏にはマルタ島に渡っている。
《洗礼者ヨハネの斬首》を描き、カラヴァッジョ芸術の頂点を示した。
全体の悲劇的調子はローマ時代の作品とは異なる精神的な深まりを感じさせる。
だが仲間とともに身分の高い騎士を襲撃し、逮捕され、サンタンジェロ牢獄に幽閉される。
脱獄の後、小舟でシチリア島シラクーサに渡る。
ここでかつての盟友、画家ミンニーティの世話でサンタ・ルチア聖堂に《聖女ルチアの埋葬》を描く。
年末にはメッシーナに移る。
10月頃、再びナポリに渡った画家は、居酒屋オステリア・デル・チェリーリオの前で何者かに襲われ瀕死の重傷を負う。
1610年7月、カラヴァッジョは恩赦が出るという期待を抱き、フェルッカ船でナポリを出発するが、途中ローマに近いテヴェレ川河口でスペイン官憲に逮捕される。
保釈金を払って釈放され、彼は海岸を歩いてトスカーナポルト・エルコレまで行く。
しかしそこで熱病に倒れ、地元のサンタ・クローチェ同信会で看護されるが7月18日にこときれた(享年38歳)。
カラヴァッジョが荷物を求めて真夏の海岸を歩き、灼熱の太陽に焼かれるように熱病で死んだエピソードは、この画家にふさわしい最後として早くから喧伝されてきた。

自然を忠実に模倣したがゆえに自然から復讐されたというマリーノ追悼詩に始まり、自然主義者が太陽に近づきすぎたイカロスや水鏡に魅了されたナルキッソス、あるいは現実の利得に目がくらんだユダのように悲惨な最後を遂げるというプロットがよく適用されている。
カラヴァッジョは死と同時に「呪われた画家」として伝説化・神話化していったのであり、それは現代なお増幅しているようである。

●カラヴァッジョの影響と批評史

カラヴァッジョは、生前からかなり高い評価を得ていた。
単なる自然主義でも、形骸化したマニエリスムでもなく、この両者を統合させた点にカラヴァッジョとアンニーバレの意義があると、ジュスティアーニは評価していた。こうした見方が甦るのは、実に1960年まで待たねばならなかった。
カラヴァッジョの影響は、カラヴァッジョ派、カラヴァッジェスキという名で急速に広がった。強い明暗様式、写実的描写、風俗画的要素が特徴である。
だがその後イタリアではボローニャ派が隆盛し、カラヴァッジョ様式は終焉した。
カラヴァッジェスキの卑俗な絵画によって、絵画を堕落させた張本人として否定的な評価がカラヴァッジョになされるようになった。
19世紀になってカラヴァッジョは再評価される。レンブラントの明暗法と比較されたのである。
その写実主義の先駆者であると同時に、伝統に反逆した近代的芸術家というイメージが登場した。
「天使は見えないから描かない」と言ったクールベの有名な逸話がある。
芸術家の個性や革新を重視するモダニズム的な視点から、カラヴァッジョは研究された。
戦後、社会主義的な美術史観が流行すると、カラヴァッジョは左翼的芸術家にまつりあげられた。
また、殺人を犯したカラヴァッジョは、犯罪者にして天才というロマンチックな芸術家イメージを形成し、脚色とあいまて一般的な人気を高めた。
20世紀の美意識に好まれた、精神を病んだ凶暴な芸術家、呪われた画家の代表としてカラヴァッジョの名が喧伝されるようになったのである。
1985年に米伊両国で開催された「カラヴァッジョとその時代展」でカラヴァッジョ研究がひとつの区切りを迎えた。
安定した人気のあったミケランジェロ、レオナルド、ティティアーノと異なり、カラヴァッジョは21世紀になってますます人気を博している画家といってよい。
カラヴァッジョの絵画性や空間は今なお尽きせぬ霊感源となっているのである。
血と暴力に彩られた破滅的な生涯をおくりながら、その作品の深い精神性や宗教性が時代を越えて現代人を打つという矛盾が、この画家への興味をかきたててやまないのは否定しがたいことである。



◯1600年前後のローマ画壇とカラヴァッジョ



素朴な写実主義を、 ミケランジェロラファエロに代表されるローマの盛期ルネサンスの古典主義と融合させた点にこそ、バロック様式の先駆者としてのカラヴァッジョの意義があった。

●反宗教改革と美術
16世紀後半のローマ美術は後期マニエリスムを中心として混ざり合っていた。
美術史的にはマニエリスムからバロックへの移行期とよんでよいだろう。
末には、反宗教改革の精神を反映した厳格で教義的な性格を強めていた。カトリックは視覚イメージによって聖書の言葉をより近づきやすくし、理性よりも感情に訴えて信仰心を高揚させようとした。
古い図像が復活するとともに新たな図像が次々に生み出されるようになった。布教や殉教によって新たな聖人が増加した。
難解さ、世俗的要素、裸体などに厳しい目が向けられ、異端審問所は異端的・異教的な美術を取り締まった。
宗教改革の求めた美術は、わかりやすさ、写実性、情動性の三点であった。
清貧思想のオラトリオ会や、反宗教改革の推進母体となったイエズス会があった。
五感を集中させることを基本とする祈りの方法を示した手引書が著され、それにともなって美術は役割を強化され、それを写実的で再現的な性格に方向づけていった。
画像の伝播の速さとその効力をイエズス会は布教に最大限活用したのである。
プロテスタントは初期教会や聖人伝の歴史的信憑性に疑問を投げかけたが、これに対しカトリックは考古学的・文献的に歴史や権威の正統性を実証した。カタコンベが発見されると、そこでオラトリオ会が推進したキリスト教考古学が成立した。
聖チェチェリアの遺体は大理石に写され、1600年の聖年のよびものとして大いに喧伝された。これは発掘ブームを生み出した。
こうした風潮は、当時の宗教美術に実証性と写実性を要請することになったのである。
カルヴァンの思想と対照的に、物質的な現実を通して超現実や精神性にいたることを、当時のカトリックでは奨励した。これは写実的な表現や感覚に訴える生々しい表現を要請した。
これを典型的に示すものとして、イエズス会の教会でさかんに制作された「殉教図サイクル」がある。
サント・ステファノ・ロトンド聖堂。殉教者たちは血みどろになりながら、いたって平静な表情をしており、時に笑みさえ浮かべている。こうしたむごたらしい場面は、そこに機会的に付されたアルファベットと奇妙な対照をなしている。
これらは殉教の覚悟をつけさせるためのものであったようである。
筆者はカラヴァッジョのイメージにおける暴力性は、こうした殉教図サイクルからの刺激が大きく作用したと考えている。
殉教図サイクルは1600年には流行しなくなっていた。

●クレメンス八世治世下のローマ画壇
教皇シクストゥス五世以降、ローマはキリスト教の首都としての整備が進められた。数多くの画家が集められ夥しい壁画が制作された。反宗教改革のキャンペーンのために聖年(ジュレピオ)が盛大に祝われた。
それらがバロック美術を開花させる契機となったのである。
1590年代から圧倒的な力をもったのはカヴァリエール・ダルピーノであった。
アレッサンドロとジョバンニのアルベルティ兄弟が装飾したヴァチカン宮殿のサラ・クレメンティーナがある。
これは教皇権を称揚する様々な寓意や擬人像を配しつつ、複雑な建築的枠組みによって現実空間を拡大するイリュージョンを見事に表現した。これは盛期バロックの壮大なイリュージョニスティックな天井画の嚆矢となった。
ドメニコ・パッシニャーノと他二人の、サン・ジョヴァンニ・デイ・フィオレンティーニ聖堂マンチーニ礼拝堂に油彩による壁画は、油彩画のみによる礼拝堂装飾という点でカラヴァッジョのコンタレッリ礼拝堂の先駆となった。パッシニャーノとチゴリはカラヴァッジョと顔なじみであり、ライバル関係にあったことがわかっている。
世紀のかわり目には、イエズス会においても血生臭い殉教を強調する必要がなくなり、美的な鑑賞に適したものが好まれるようになった。
こうした、「移行期」の画家たちとカラヴァッジョの関係については、ほとんど明らかになっていない。だが、彼はローマ中の画家を知っていると証言していることから、同時代の作品には敏感に反応していたと思われる。
自分の認める画家として、ダルピーノ、フェデリーコ・ズッカリ、ロンカッリ、アンニーバレの四名を挙げている。

●ロンカッリとダルピーノ
クリストファノ・ロンカッリ通称ポマランチョは、世紀のかわり目に旺盛な活動を展開した画家である。
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《キリストの埋葬》は、天を仰ぐマリアや、「終油の石」など、いくつかの図像的共通性はカラヴァッジョがこの作品を研究したことをうかがわせる。
ロンカッリの《穴に落ちた助修士フィリッポを助ける天使》の天使の表現は、カラヴァッジョの《慈悲の七つの行ない》の画面上方にそのまま登場する。ナポリで描いたこの作品に、かなり正確な記憶によって再現したのである。
カラヴァッジョは八ヶ月そのもとにいたジュゼッペ・チェーザリ通称カヴァリエール・ダルピーノに大きな影響を受けた。両者は親方と弟子というより対等に近い関係であったと推測している。
ダルピーノの《貧者と病人の中にいる聖ラウレンティウス》の裸体の人物は、左右反転した形でからの《七つの慈悲の行い》に登場する。このポーズはカピトリーノ美術館にある《瀕死のガリア人》を背面からとらえたものである。
カラヴァッジョはかつての師にして画壇の頂点に君臨する人物に反逆し、超克しようとすると同時に、時にはそこに着想源を求めたのである。
《聖フランチェスコの法悦》も霊感源になった可能性がある。
また、最晩年の《ダヴィデとゴリアテ》はダルピーノの同主題作品と関連づけられる。勝利の喜びにもかかわらず憂鬱そうな、あるいは放心したダヴィデの表情である。
だが、カラヴァッジョはかつでの師であるダルピーノの比肩する宗教画家として認知されており、一方的な影響関係ではなかった。

●アンニーバレ・カラッチ
「革新者」カラヴァッジョとともにローマ画壇に衝撃を与えた「改革者」アンニーバレ・カラッチは、しばしばカラヴァッジョと比較されてきた。両者を対抗的にとらえる図式があった。
だが「反マニエリスム」とミケランジェロラファエロといった古典を研究したという共通性があきらかになった。そしてその経歴と運命は「奇妙にも一致」している。
二人には共通のパトロンが多く、当時からライバルと目されていたらしい。個人の宮殿に限定され、教皇庁のための仕事は皆無であった。
アンニーバレの《聖マルガリータ》を眺めた際、カラヴァッジョは「自分の時代に真の画家を見ることができて嬉しい」と称賛したという。
ポズナーよる説だとこうである。
サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂内チェラージ礼拝堂の壁画がある。
カラヴァッジョに対して激しい競争心と脅威を抱いたアンニーバレは祭壇画《聖母被昇天》において、明暗を強調したカラヴァッジョの自然主義的な様式を意図的に回避するべく、明暗を排した明るい色彩によって高度に理想主義的な冷たい様式を展開した。
一方、側壁に《聖ペテロの磔刑》と《聖パウロの回心》を描いたカラヴァッジョは、画面一杯に人物のボリュームが充満するアンニーバレの様式を模倣し、原色を用いるボローニャ的な色相を導入した。
カラヴァッジョの円熟様式がアンニーバレとの接触によって生じたというのは確かだとしている。
しかし、アンニーバレがまず初めにカラヴァッジョ作品を意識せずに描いたということが判明した現在となっては、このポズナーの説は半分しか有効ではない。
カラヴァッジョはヤコポ・ズッキ風の象徴的神話世界から、アンニーバレ風の寓意的神話世界に転換し、《勝ち誇るアモール》やカピトリーノの《洗礼者ヨハネ》といった裸体像に結実した。
カラヴァッジョのモニュメンタルな宗教画がアンニーバレの影響によって成立したとする近年の諸説は傾聴に値するだろう。
カラヴァッジョの《エジプト逃避途上の休息》の天使とアンニーバレの《分かれ道のヘラクレス》の悪徳の擬人像との類似がある。おそらくこれらには共通の源泉である、ラファエロ原作《パリスの審判》で衣をまとおうとするミネルヴァの後ろ姿であると思われる。
アンニーバレの《聖ロクスの施し》は、偉大なバロック群衆構成を示す最初の作品である。カラヴァッジョの《ロザリオの聖母》にも、その痕跡が認められる。
ドリス式円柱も共通している。
カラヴァッジョは、ヴェネティア派的な聖会話のスタティックな祭壇画に、大胆な動きを導入したのである。
ウフィツィにある《民衆の聖母(マドンナ・デル・ポポロ)》を共通の霊感源としたのかもしれない。
《慈悲の七つの行ない》に見ると、若い頃からフレスコの大画面で修錬していたアンニーバレと比べ、カラヴァッジョが群像処理を苦手としたことはあきらかであり、強い明暗対比によってその弱点を隠そうとしたといってもよい。

●ジョバン・バッティスタ・ポッツォとその他の画家たち
ロンバルディア出身で優れた才能をもっていた夭折のジョヴァン・バッティスタ・ポッツォとの関係にふれる。
サンタ・スザンナ聖堂の装飾がある。
「ローマにおいて、ラファエロとアンニーバレにいたる様式展開の重要な発展段階を示す」と評されるほどである。
《聖ゲネギウスの洗礼》の雲から身を乗り出す若者の天使は、カラヴァッジョの《聖マタイの殉教》の右上の天使に借用されている。
カラヴァッジョは最初の大規模な群衆構成である《聖マタイの殉教》を構想する際に、彼が状況する前年に夭折した同郷の画家ポッツォの作品から多くのものを学んだのである。
作品数は膨大だが画家の個性のきわめて乏しい1590年から1600年の聖堂装飾のうちで、ポッツォのこの壁画は小規模ながら強い個性をもって異彩を放っている。
サンタ・マリア・マッジョーレ聖堂サンタ・ルチア礼拝堂の《嬰児虐殺》の右手前で顔を覆う母親は、カラヴァッジョの老婆にそっくり借用されている。
また同じサンタ・スザンナ聖堂の正面祭壇として描かれたトンマーゾ・ラウレーティの《聖スザンナの殉教》は、カラヴァッジョの《聖ルチアの埋葬》の源泉となったのではなかろうか。
カラヴァッジョの作品には、明らかに同時代の画家たちの影響が見られるのだが、ただしそれは彼がラファエロミケランジェロを引用するときと同じく、図像や構成の上に限定されており、それらは自然主義的で明暗対比の強い彼独自の様式によって処理されているため、一見その影響が判別しがたいのである。
彼はどの時代のものであれ、気に入った作品を貪欲に吸収したのではないだろうか。そしてその記憶を、ローマを後にしてからも保ちつづけたのである。




2. カラヴァッジョ芸術の特質



◯回心の光



1600年代初頭は、イエズス会による海外布教がさかんとなり、非キリスト教徒をいかに効率よく改宗させるかという問題が議論された。またローマでは、プロテスタントユダヤ人を改宗させる運動がさかんであった。
そのため、「改宗」や「回心」はもっとも好まれた主題となる。カラヴァッジョの代表作の多くもそれを扱っている。

●速やかな回心
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂コンタレッリ礼拝堂のために描かれた《聖マタイの召命》、《聖マタイの殉教》《聖マタイと天使》は、カラヴァッジョの宗教画郡の劈頭を飾る傑作であるだけでなく、バロックという新しい時代様式の開幕を告げるものであった。
《聖マタイの召命》でのキリストはミケランジェロの《アダムの創造》のアダムと同じ手を差し出している。
筆者は左端の若者がマタイであると考えている。
プトファーケンによると、
これは「速やかな回心」であり、マタイは何の躊躇もなく立ちあがり、直ちにキリストに付いていったことが、マタイ改宗の最大の奇蹟なのである。
カラヴァッジョはドラマのクライマックスではなく、その直前を選んで描いたということになる。
《聖マタイの殉教》についても、新たな見解を提示した。
『黄金伝説』によれば、エチオピアでマタイが殉教したとき、キリスト教信者が怒って反乱を起こしたという。つまりこの場面はマタイを殺され、蜂起する信者たちの姿を描いたものだということだ。
そうすると、中央の抜き身の剣を握った若者は、マタイが洗礼を施す者であり、それゆえに半裸なのである。刺客は左の四人であり、画家の自画像である人物が、この若者に剣を奪われたということなのだ。
そう考えると、これはカラヴァッジョによる観者への挑戦ともとれよう。
プトファーケンは、観者が特権的な位置にいた従来の絵画と異なり、混沌とした細部から真実に到達するための注意と発見を前提としたまったく新しい種類の絵画であるとする。
《聖マタイの召命》は常に左下から見ることになる。そうすると、左端の若者が非常に大きく見える。
礼拝堂に入った観者のもっとも近くにマタイを置き、そこから召命(回心)・霊感(福音書執筆)・殉教へと展開させる流れをカラヴァッジョは作り出したのではないだろう。
そして、キリストはすでに踵をかえしている。既にマタイはキリストの声を聞き、内面で回心が起こっていると考えられよう。この場面ですでに召命は成就しているのだ。
サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂はローマにいるフランス人の教会である、イタリアではあまり前例のないこの主題が選ばれたのも、アンリ四世のカトリック改宗と関係するものと思われる。
《聖マタイの殉教》で、画面下部の大きな洗礼槽も改宗政策と無縁ではない。

●天からの声
サンタ・マリア・ポポロ聖堂チェラージ礼拝堂にカラヴァッジョが描いた《聖パウロ》の回心と、《聖ペテロの磔刑》も、前年に完成したコンタレッリ礼拝堂の作品と同じく、改宗と殉教という主題の組合せである。
これはミケランジェロが描いたパオリーナ礼拝堂の作品が念頭にあったにちがいない。
パウロは、マタイと同じく回心と召命とを同時に体験したという点で、単なる異教徒の改宗以上の重要な意味をもつ。
伝統的な図像では、落馬するパウロと、天に出現したキリスト、光に打たれて驚き慌てる周囲の人々とが組み合わせて表現されてきた。
《聖パウロの回心》のカラヴァッジョの最初のバージョンでは、右上にキリストと天使が顔をのぞかせている。
だが、礼拝堂に設置された描き直しされた第二バージョンにあるのは、地に倒れるパウロと巨大な馬と馬丁だけである。しかも馬丁も馬もパウロに起こった異変に気づいていないかのように動作をとめている。
第一作と第二作との間には大きな主題解釈の変化が起こったのである。
これは「宗教美術史上もっとも革新的」と評された。
すべては倒れたパウロの内面で起こったのである。カラヴァッジョはドラマチックであるべき主題を、一人の人間の内面に起こった静かなドラマに変容させたのである。ここには強い光も描かれていない。
向かい側の《聖ペテロの磔刑》も、栄光に満ちた殉教のドラマではなく、日常的な処刑の救いようのない悲劇性が提示されているようだ。
《聖パウロの回心》でも神を暗示するものはほとんどない。
夏の午後、この礼拝堂に行くと、後方の高い窓から差し込む日差しがあたかも神の光のように画面を斜めに横切って、倒れているパウロの広げた両腕に受け止められているのを見ることができる。
この作品も現地で(in situ)で見なければならないものである。
この構成によって作品は現実空間に接続し、奇蹟が観者の目前で起こっているような錯覚を覚えさせるのである。
奇蹟が眼前で起こるというイリュージョンによって、礼拝堂内の日常的な地平が昇華され、観者は宗教的な感情に包まれる。壮大なスペクタクルよりも、この改宗劇のほうがより現実的で深い説得力をもって理解されるのだ。
もっとも現実的な表現がもっとも神秘的な宗教性を与えうることに彼は気づいていたのである。
神の姿を描かず、目を閉じたパウロの姿をクローズアップすることで、《聖マタイの召命》と同じく、内的な覚醒という意味を一掃あきらかにしているのである。
カラヴァッジョの斬新な聖書解釈がここでさらに深化したことがわかる。

●死からの覚醒
メッシーナに移ったカラヴァッジョは、1609年の初めに《ラザロの復活》を制作した。
やはりこれも伝統的な図像からはずれている。
右手には光、左手は髑髏に向けているというラザロのこのポーズは、精神的にも肉体的にもいまだ生と死、救済と罪との葛藤にいると解釈される。
ラザロに顔を近づけるマルタは、カラヴァッジョ作品のうちでももっとも感動的な描写となっている。
人物構成は《聖マタイの召命》に近く、キリストの「アダムの手」も同じである。
しかし《召命》では光に当たっていたキリストの顔が、ここでは完全に闇に沈み、真っ黒になっているのが注目される。
後ろをふり返っている三人の男たちの視線は、不思議な事にキリストではなく、画面の外に向けられている。あたかもラザロに息を吹き込んだのは、墓室に差しこんできた光であり、人々には実はキリストが見えていないのではないかと思わせる。
キリストの存在は象徴的・暗示的なものにすぎず、光こそが奇蹟をもたらす存在となっているのである。
この作品は美術館に移されたため、残念ながら聖堂内での当初の効果は不明だが、おそらく画中の光はチェラージ礼拝堂の場合のように現実空間のそれと一致していたのだろう。
ここでも、ラザロの内面の覚醒が光によって表現されているといってよいであろう。ただしパウロは神をすべて受け入れ、回心しているのに対し、ラザロは左手をまだ髑髏の上に置き、死(罪)から全面的に覚醒してはいないようである。
そして、《召命》のマタイと同じように、ラザロの顔の半分に光が当たり、内面の覚醒が示されている。

●カラヴァッジョにおける回心
以上の三点の作品は、徴税人、パリサイ人、死者という否定的な存在が、いずれも神によって新しい命を吹き込まれる瞬間が扱われている。
奇蹟というものは基本的に個人の内面にしか起こらない。特に回心については、第三者には知覚できないものである。
カラヴァッジョは、天使などの超越的な存在を描かず、現実的な光のみによって主人公の内面に起こった変化を暗示するにとどめた。さらに、それに迫真性を与えるために、写実的な細部描写と、現実の光を取りこむ巧みな明暗表現によって、作品内のドラマが現実空間で起こっているようなイリュージョンを与えた。
こうした奇蹟の現実的解釈は、奇蹟に懐疑的な現代人をも惹きつけるのである。
それは反宗教改革の精神をもっとも完璧に体現した芸術であるだけでなく、宗教美術の新たな可能性を示すものであった。

カラヴァッジョの宗教画の衝撃は、いずれも、もっとも救済から遠く見えそうな罪人が光を受けて奇蹟の主人公になりえている点にあるといってもよい。
しかも彼らは目を挙げて神を見るのではなく、自らの内面でのみ神と出会っている。
《聖マタイの召命》では鋭く人物を直撃していた光が、《聖パウロの回心》では現実の堂内の光と同化するような薄明となり、《ラザロの復活》にいたっては、人物たちは濃い闇に沈み、彼らを断片的にしか照らしていない。画家は内面で神に出会うということが、それほど容易に起こりうるものではないと悟っていたのかもしれない。
《ラザロの復活》を描いたメッシーナで、聖堂に入る際に聖水をつけるように勧められた画家は、「その必要はない。自分の罪は死すべきものだからだ」ともらしたという。



◯幻視のリアリズム



●巡礼者たちのヴィジョン
ローマのナヴォーナ広場にほど近いサン・タゴスティーノ聖堂には《ロレートの聖母》がある。
男の巡礼者は汚れた足の裏をこちらに見せており、聖母は巡礼たちのほうに顔を向け、幼児キリストは右手で彼らを祝福しているようである。
ロレートとは、1294年にキリストの生家(サンタ・カーサ)がナザレから異教徒の手を逃れて飛来したという伝承から聖地となったマルケ地方の街で、イタリア有数の巡礼地であった。
図像的には幼児キリストとともにサンタ・カーサに乗って天使たちに運ばれているものが一般的であった。
カラヴァッジョ作品は、それらに反して、ロレートの聖家に奇蹟を暗示する点も、ロレートにある聖母像を思わせる要素も見当たらない。
この作品に登場するような巡礼は、もちろんロレートにもたくさんいたであるが、カラヴァッジョの時代のローマに溢れていた。
1600年の聖年(ジュレピオ)の際には、53万6000人という巡礼がやってきており、その後も毎年3万人ほどの巡礼がローマを訪れ、10万弱のローマ市の人口を数倍上回っていたという。彼らの多くはそのままローマに残って物乞いをする浮浪者となり、カラヴァッジョの時代にはこうした貧民層の増加が深刻な社会問題となりつつあった。
この作品の図像源泉として、アントニオ・ラフレーリによる《ローマ七大聖堂図》があげられる。
作品のあるサン・タゴスティーノ聖堂は、巡礼の最終的な目標であるヴァチカンのサン・ピエトロ大聖堂に通じるサン・タンジェロ橋への途上に位置し、多くの巡礼も立ち寄った場所である。巡礼たちは、この画面の中に自分たちの姿を認めたにちがいない。
宗教改革期にロレート崇拝はかつてなく高まり、1599年から1600年にかけてサンタ・カーサが再建された。
15世紀にはアーチの下の聖母子の図像が一般的であった。
カラヴァッジョ作品の聖母子は、聖母に比して幼児が大きすぎるが、ロレートのサンタ・カーサにあった聖母子の彫像はキリストが大きかったという。
さらに聖母子が立っている石段は、左の端がやや欠けているように見えるが、これはロレートのサンタ・カーサの石段と一致しており、現在でも確認できるという。

巡礼はロレートに着くとすぐにサンタ・カーサに向かい、家の周囲を三回まわり、謙虚な心でひざまずいて門に入ることになっていたという。巡礼がひざまずいているのはこうしたロレートでの慣習を表しているのだろう。
また、裸足は巡礼者の謙遜を表すものであった。裸足であるからこそ、描かれた舞台が通常の玄関ではなく聖なる地の入り口であることが示されているのである。
サンティッシマ・トリニタ・デイ・ペッレグリーニ同信会は巡礼者を迎えて宿泊させるのを事業の中心にしており、1600年には21万1000人もの貧しい巡礼を世話している。
同会の教会付属オラトリオには「跣足室(la Sala della levanda)」があり、かつてキリストが最後の晩餐の前に弟子たちの足を洗ったことにちなんで、高位聖職者や多くの貴顕たちが、定期的に巡礼者たちの長旅で汚れた汚い足を洗っていた。
《ロレートの聖母》の依頼者エルメーテ・カヴァレッティも若い頃からこの会に参加していた。
この作品に描かれた巡礼者の汚い足は、こうした重要な跣足式を暗示するものにほかならないと言われている。
この印象的な聖母の源泉は、画家の故郷の教会にある一枚の祭壇画に求められる。
作品に見られる素朴な民衆の祈りという主題自体が、鄙びた教会で村人たちの信仰を集めていた聖画を画家の脳裏に呼び起こしたのではないだろうか。
聖母は巡礼者のみに顕現したものであり、聖母子が実体化しているのは彼らの心のうち、あるいは視野の中においてのみである。
この画面には、巡礼のいる現実の聖域の空間と、巡礼の幻視(ヴィジョン)というふたつの異なるレベルの空間が共存しているのである。
ロンギはこの作品を「モニュメンタルで民衆的な奉納画(エクス・ヴォート)」と称している。カラヴァッジョの作品は、ロレートにも多く見られたであろうエクス・ヴォートの図像を借用した可能性がある。
それゆえに、この作品は高貴な芸術には無縁であった巡礼や民衆にも理解しやすかったのだろう。
16世紀後半のローマでは、イメージは中世のイコンのような機能を回復したという。この絵は、聖母の顕視を目の当たりにする効果をもたらしたにちがいない。
この作品の写実性は表層的な技巧主義ではなく、神を希求する者の真摯な信仰心や精神的な深みを表現しえている。
エクス・ヴォートが個々の奉納者の姿を写して彼らの幻視や奇蹟を表現したものとすれば、この作品は、注文者や特定の人物に限定されない、集合的なエクス・ヴォートとでもいうべきものである。
観者は画中の幻視者というフィルターを通して聖なる存在を見るのであり、幻視画とは、単なるイコンではなく、幻視者がイコンを見るというナラティヴを含んだ、イコンとナラティヴとの混成物にして、イメージを見る体験についてのイメージという一種のメタ表現である。

●ヴィジョンへの参入
巡礼姿は《エマオの晩餐》にも登場する。
右側のこの男は、短い皮のマントを被り、巡礼の象徴である帆立貝の貝殻を胸につけている。
この主題に登場するふたりの使徒はなぜかしばしば巡礼とされ、そのため、中世以来、巡礼を世話する修道院との関係が深い主題となっていた。
これは私的な礼拝あるいは観賞用に制作されたものである。
目をひくのは「鬚がない若者のような」キリストである。
この作品の引き込まれるような迫力と強い現実感は、彼以前の宗教画にはまったく見られないものである。
ここには突出効果とでもよぶべき技法が駆使されている。ひとつは落ちそうな果物籠であり、左の使徒の肘、右の巡礼の左手、キリストの右手の短縮法である。
こうした効果はカラヴァッジョが好んで用いたものである。《聖マタイと天使》第二作の椅子、《キリストの埋葬》のニコデモの左肘や終油の石の角、《聖マタイと天使》第一作でのマタイの足、《聖パウロの回心》の大胆な短縮法である。
カラヴァッジョ作品にはつねに「絵の外へ」向かおうとする描写があり、画中空間と観者の空間とを接合させているのである。
《エマオの晩餐》の半身像の人物はほぼ等身大であり、この画面に向かう観者はこの夕食の席に参加しているようなイリュージョンをおぼえる。これは邸宅の一室に飾る目的で制作されたのだ。
卓上の静物には象徴的意味が読み取られてきた。
現在の象徴である林檎と、受難を表す葡萄とザクロの対比により、キリストの死と復活が示されているという説。
果物と祝福されたパンを「地上の食物と聖体」として対比させる説。
筆者は後者の説を発展させて以下のように解釈する。
林檎には虫食いの痕がいくつも見られ、テーブルからはみ出た籠の位置的な不安定さとともにやがて朽ちていく食物であることが示されている。その背後にある鶏肉もやはり地上の食べ物である。手前と画面右のパンは、キリストによって祝福されて裂かれた中央のパンと対比されており、このテーブルにおいては、手前から奥に向かって肉から霊、滅びから永遠に向かっているようである。
つまり、もっとも奥にいるキリストこそが「命のパン」であり、その前にある祝福されたパンはキリストの肉体の象徴としてこれに等しいものということである。
観者はこの現世の食べ物を前にしつつ、その向こうにある永遠に生きるための食べ物、つまり救済へと誘導されるようである。
同時代風の衣装によって、日常的な食事の光景に突如キリストが侵入したような感を与える。カラヴァッジョは、風俗画的な表現であっても深刻な宗教画として許容させようとしたのである。
画面左の宿屋の主人あるいは給仕は、副次的人物として、罪人として解釈されることが多い。だが、この男はキリストを真剣に見つめているようである。ここには神の顕現を見る一般市民の姿が認められる。
カラヴァッジョ作品における副次的人物も、ある程度は観者の代用としての機能を担っているはずである。
この場面全体が、宿の主人だけでなく、キリスト以外の登場人物と観者の前で起こったヴィジョンとみなすことができるのではないか。
宿の主人の落とす影はキリストにも投げかけられるはずなのに、キリストはその影を受けていないのも、そのためであろうか。
観者は世俗的人物に同化しつつ、聖なる情景に直接的に参加することになる。そのとき聖なる情景は歴史的な出来事ではなくなり、今まさに目の前に起こっている、つまり、画中の人物にとっても観者にとってもヴィジョンとして立ち現れるのである。
《エマオの晩餐》と同時期に制作され、きわめて近いと思われる作品として、アントニオ・ヴィヴィアーニの《聖グレゴリウスの食事》がある。
これは1602年にバロニオが僧院長に任命されるとすぐに着手された。
長い髪の卵型の顔はカラヴァッジョのキリストに似ており、同じように画面中央で強い光を当てられている。
大グレゴリウスは、最後の晩餐にちなんで毎日十二人の貧者を招いて食事を施す習慣をもっていたが、あるとき十三人目の男が食卓におり、グレゴリウスはこれがキリストであると気づくという逸話を扱っており、同種の主題といえよう。
この壁画が制作されたオラトリオ・ティ・サンタ・バルバラは「トリクリニウム・パウペルム(貧者の食堂)」ともよばれ、観者はそれが起こった空間で追体験できるようになっている。
大グレゴリウスの姿はバロニオに、画中の情景は現実の慈善活動に重ねられていたのである。
これらは新興教団オラトリオ会の思想がよく表れている。
オラトリオ会は、「場」への黙想を重視したイエズス会と異なり、歴史や伝統を深く調べてそこに教訓や象徴を見出し、歴史的な事件も現在に重ね合わせて解釈した。
カラヴァッジョ作品のうちにもオラトリオ会の思想の源流であるアウグスティヌスの思想を読み取ることができる。
《聖パウロの回心》でも、馬に鞍がついていないことに注目して、馬丁がパウロの改宗劇を想起して回心した瞬間を捉えたものだという解釈もある。画中の馬丁も、現実空間の観者と同じように、現在にありながら回心の奇蹟を見ている観客の一人ではなかろうか。
カラヴァッジョはおそらく1602年から4年ごろ、オラトリオ会の総本山キエーザ・ヌオーヴァに《キリスト埋葬》を制作している。
現在は模写が設置されているキエーザ・ヌオーヴァのヴィットリーチェ礼拝堂では高い位置に設置されており、ミサの際には画中のキリストが司祭の掲げる聖体と重ね合わされていたという。
不備のミサの最中に突如キリストの遺体が現れて聖体に取って代わるという、現在と過去、現実と幻視との交錯が起こっていたのである。
一方カラヴァッジョとイエズス会との関係についても、全面的に否定することはできない。
ロヨラの「霊操」に代表されるイエズス会の教義においてはイメージが何よりも重視され、「三位一体」のような抽象的で不可視の事物でさえも、具体的な像として見出すことが奨励された。
「幻視される」のではなく実際に視覚的に「見られる」のである。
トロンプ・ルイユ的な現実描写とキリストの姿との衝突は、イエズス会の修行者による日々の黙想を視覚化したものと見ることもできるのである。
結局のところ、オラトリオ会もイエズス会も、イメージの効果を最大限に利用する反宗教改革的な思想を共有したのである。
作品の設置された場そのものを激情的な作品に仕立てあげる手法は、バロニオのトリクリニウムにその淵源が見られ、やがてベルニーニによって大成されるのである。

●瞑想の空間
カラヴァッジョは1606年にローマから逃亡し、パレストリーナザガロロといったローマ近郊のコロンナ家の領地に身を隠しながら、もう一点の《エマオの晩餐》を制作したと思われる。
この作品の印象は一作目と全く異なる。
人物たちは動きを抑え、はるかに内向的になり、食事も質素なものとなっている。
前作が、キリスト出現のドラマであったのに対し、悲劇的な雰囲気すら感じさせるこの作品では、人物たちは静かにキリストの声に耳を傾けているようだ。
描写も、すばやく荒々しい筆触にとって代わったが、これは逃亡時代のカラヴァッジョの様式に共通する晩年様式となった。
前作と同じモデルが歳をとったような宿の主人がキリストの右に移り、前作にはいなかった老婆がその傍らに登場した。この老婆は、《ロレートの聖母》の老婆と同一人物のようである。
ロンドンの作品では、キリスト以外の人物や事物が強い現実味を帯び、観者のいる空間と時間を共有していた、つまり現実とヴィジョンとが混交していたのに対し、ここでは給仕の二人のみが観者と同じ現在におり、彼らとともに観者はキリストと使徒の晩餐のヴィジョンを見ることになる。
その後画家が辿り着いたナポリで、ピオ・モンデ・デラ・ミゼリコルディア聖堂のために制作された《慈悲の七つの行い》は、ナポリの裏通りを思わせる薄暗い場所で、七つの善行やそれを象徴するエピソードが、きわめて現実味の強いドラマとなって展開している。
この主題を扱った従来の図像と大きく異なり、「制度的なカトリックともプロテスタントとも異なる彼のキリスト教的善行のヴィジョン」が表現されているものの、それぞれのエピソードをパッチワークのように集めて一画面に詰め込んだような窮屈さが感じられる。
しかし、この画面が統一空間ではなく、これらひとつひとつがヴィジョンであると考えれば、この構成の無理が説明されるのではないだろうか。
マルタ島に渡った翌年の1608年にヴァレッタのサン・ジョヴァンニ大聖堂付属オラトリオの祭壇画として描かれ、現在もそこにあるこの画家畢生の大作《洗礼者ヨハネの斬首》いついては、やはりその特異な図像が注目される。
処刑現場を覗き見る二人の囚人がいる。
この二人の囚人はトルコと戦って囚われた騎士を暗示している。そして観者と同一の時間にいる一般民衆として観者とともに事件や奇蹟に立ち会う役割を果たしている。
中央の執行人は通常の斬首の図像とはかけ離れ、羊を屠殺するような身振りをしている。
これはトルコ軍と恒常的な戦闘状態にあった聖ヨハネ騎士団たちの殉教を示している。
これも「二重ヴィジョン」だとすれば、処刑人は犠牲の羊を屠殺しながら、騎士の犠牲の死のヴィジョンを見ており、二人の囚人は、誰かの処刑に洗礼者ヨハネの斬首という歴史的事件のヴィジョンを重ね合わせているのだ。
騎士たちは、キリスト教を守るべく自分たちを犠牲にすること、それは主の犠牲につながるものであることを感じ取っただろう。
脱獄したカラヴァッジョはシラクーサに逃れ、そこで旧友の画家ミンニーティに迎えられ1608年末にサンタ・ルチア・アル・セポルクロ聖堂に《聖ルチアの埋葬》を制作した。
聖ルチアが埋葬されるというきわめて珍しい主題である。
「イタリアの伝統にかつてなかったものであり、すでにレンブラントを予告している」といわれる。
「前景と後景との急激な対比」は奥行きのイリュージョンを生み出すためのものであったろう。
画中のルチアの遺体はサンタ・チェチェリア・イン・トラステヴェレ聖堂にある聖チェチェリアの大理石像との関係が指摘されている。
背景には初期キリスト教時代の文化の見直しという風潮のほかに、サンタ・チェチェリア聖堂からの影響があったのではなかろうか。
人物の背景には大きな二重アーチが見えるが、これはシラクーサ最古の教会とされていたサン・マルツィアーノ聖堂のクリプタであると考えられる。
観者は、墓掘り人の隙間に見え隠れする小さな遺体を取り囲む哀悼の場面に、遠くから静かに参加することになる。
殉教の勝利を表す棕櫚の葉も、上空を飛ぶ天使も見えず、単なる一人の人物がひっそりと埋葬される情景があるばかりである。
声高に殉教聖人の栄光を謳うものではなく、死がもたらす絶望的な悲しみと救いの無さを重々しく語っているようである。
「虚無を視覚化した暗く深い死の絵画」と評される。
ここには逃げ出したり叫んだりする否定的な観衆が見られないことから、「合唱団(coro)」のように参与しているとされる。
この情景自体、墓掘り人のヴィジョンと見ることもできる。二人は土木作業に従事する現実の労働者であり、左の男はしゃべる手を止めてふと顔を上げ、かつてそこで行われた聖女の埋葬のヴィジョンを見ているのかもしれない。
光はルチアという名の原義である「Lucis via」に通じるという。
左の男は光=救済に、右の男は地=死に向かっている、つまりこれに続く《ラザロの復活》においてのラザロが、ここでは左右の二人に分かれていると考えられる。
後景が異様に小さいのも、それが現実ではない過去の情景のヴィジョンであるためであると見ることができるのである。
筆者はこれをサン・ヴィターレ聖堂の《聖ヴィタリスの殉教》と近いと考えている。
初期キリスト教時代の厳粛な雰囲気はサンタ・ルチア聖堂のそれと同種のものであったに違いない。
この新たな傾向は、メッシーナ滞在時の《ラザロの復活》と《羊飼いの礼拝》、パレルモ滞在時の《生誕》に展開していった。
《ラザロの復活》は1609年に慈善宗教団体クロチーフェリ会の礼拝堂のために制作された。
臨終の病者が奇跡的に息を吹き返すこともあったであろうが、そんなとき彼らは主の臨済を感じたにちがいない。
この作品はクロチーフェリ会が活動の場としていた、サンティ・ピエトロ・エ・パオロ・デイ・ピサーニ聖堂の主祭壇に設置されていたようだが、修道会士たちが、自分たちの活動をここに重ねて見たのはごく自然なことである。
《羊飼いの礼拝》では、神の子の奇跡的な誕生を崇拝するというより、貧しい庶民の誕生を、居合わせた身近な人々がささやかに祝している情景のように見える。
うなだれた聖母の醸し出す悲劇的な気配によって、現実的でありながら静謐な神聖さを感じさせる。
彼らの日常の現実と融合し、画中の卑俗な現実そのものが観者を取り込んで聖なるヴィジョンと化しているのである。

バロック的のヴィジョンへ
17世紀にはカトリック圏で幻視あるいは法悦(脱魂)の主題が大きな流行を見た。
すでに中世から様々な神秘主義者が幻視を体験していたが、神との合一を表すこれらの体験は個人と神とを、教会という介在無しに直接結びつけてしまうため、教会側はこうした事象を認めることに慎重であり、幻視者の中には異端とされ、弾圧された者も少なくない。
ところが、反宗教改革の頃からこうした体験が一気に増加し、幻視体験が信仰の強さの証であるという考えが一般化してきた。
幻視体験とともに起きるのが法悦(エクスタシー)である。
聖フランチェスコや聖ヒエロニムス、マグダラのマリアなど、ナラティヴに表現されることの多かった過去の聖人でさえ、幻視や法悦に没頭する聖人として頻繁に表現されるようになった。
美術と幻視が相互に影響し、かつてないほど幻視表現を隆盛させたのである。
カラヴァッジョの《ロレートの聖母》はこうした幻視画のプロトタイプであった。
しかし17世紀後半になり、聖堂の広大な天井に神の栄光と聖人称揚を大々的に謳うようになると、聖人はまばゆいヴィジョンに入り込む、天使の舞い飛ぶ天空に引き上げられてしまう。
観者はもはや聖人とともにヴィジョンを見ることはできなくなる。
こうした変化の分岐点にベルニーニがいる。
現実性を取り込んだカラヴァッジョ的なヴィジョン表現は、ベルニーニによって発展し、変質していったのである。
1647-1652年のサンタ・マリア・デラ・ヴィットリーア聖堂コルナロ礼拝堂は、「建築・彫刻・絵画を統合した美しい総合物(bel composto)」の典型である。
「激しい苦痛と霊魂の甘美なる喜悦」のうちにあるアビラの聖テレサ像が正面に設置され、あたかも聖女と天使は、両側面のコルナロ一族のヴィジョンのようである。
礼拝堂の上方からは実際の光が差し込み、天井にはフレスコとストゥッコによって神々しい天上世界が現出している。
ここに数段階の現実、つまり、観者の空間にいるコルナロ一族、天蓋と光ににょって観者から隔てられた聖女の幻視、そしてまばゆい天空という三段階のヒエラルキーを認められ、観者はこの関係に巻き込まれ、人間→聖人→神というヒエラルキーの証人となると述べられている。
1671-1674年に制作されたサン・フランチェスコ・ア・リーパ聖堂のアルティエーリ礼拝堂での、死に行く福者ルドヴィカ・アルベルトーニは苦痛と法悦のあわいで悶え、彼女の魂が天で迎えられることを示すように、その背後には幼児キリストに手を伸ばす聖アンナを表したバチッチアによる絵画が設置されている。ここにも数段階の現実が認められる。
下から上へいくにつれ、肉体から魂、罪から救済というように、個別から普遍という変遷を示している。
彼女の大きな身振りや乱れた衣文にもかかわらず、驚くほど静謐で深い瞑想性をたたえた空間となっている。
これはまったく異なるメディアにもかかわらず、カラヴァッジョの《聖ルチアの埋葬》と共通点を見出すことができる。
ベルニーニは総合芸術(ベル・コンポスト)によって観者のいる現実空間を神秘劇の劇場に変容させたのだ。
ベルニーニは、カラヴァッジョの「劇場化」を完全に理解し、彫刻や建築を総動員してこれを完成させたといってよい。
しかしカラヴァッジョの自己省察的な厳しさは、同時代にも模倣されず、カラヴァッジェスキを含めて後の時代にもほとんど継承されなかった。
世俗の塵埃と罪の暗黒のうちに救済の光を見るカラヴァッジョのヴィジョンは、ナポリやスペインの厳しい宗教風土やオランダや北欧といった質朴な新教国で新たな発展をとげた。
カラヴァッジョのリアリズムとは「生ではなく死の側から眺めた世界のヴィジョン」であると評される。
画家は現世の事象のうちに神の啓示を見るだけでなく、そのヴィジョンを誰にでも触知でき、どこにでも起こりうるものとして表現したのである。
客観的なリアリズムを通して内面的なヴィジョンを表現しえた点にこそ、カラヴァッジョの真骨頂があるといってよいだろう。



3. カラヴァッジョ作品の諸問題



◯真贋の森



●カラヴァッジョの複数作品
カラヴァッジョの作品はそれほど多くないが、生前からの人気からコピーが多くつくられた。
同時代のアンニーバレ・カラッチと違って版画が少いのも特徴的である。
コピー・レプリカ問題("doppi”)がつきまとっている。
マグダラのマリアの法悦》にもきわめて多くのコピーが存在する。
《マッダレーナ・クライン》とよばれる作品が現存する作品のうちではもっとも質が高い。
だが、カラッチョロによるコピーと比較してもそれほど質の差は感じられない。
1951年にロンギが写真のみで判断して真作であると発表したバージョンはいまだに所在不明だが、このいわゆる「ロンギのプロトタイプ」が世に出たら、状況が変わるかもしれない。
《女占い師》は、詳細な科学的調査の結果、加筆は多いが、オリジナルだと認められた。カピトリーノ作品では、占い師も青年もルーヴル作品は別のモデルである。
リュート弾き》もこれが最初のパトロンであるデル・モンテ枢機卿の所蔵であったことがあきらかとなった。
だが、筆者が見る限り両作品からはあまりにも受ける印象が異なる。
個々の事例では問題が残っているが、カラヴァッジョが自作のレプリカをつくったことはほぼまちがいない。
17世紀には画家が自作のレプリカを作ることはごく一般的であった。
同時期に作る場合はほとんど同じものになったであろうし、時間がたってからの場合は様式に多少の変化が生じたであろう。
発見されて修復された原作を見ると、それまで議論していたコピーが急に色あせて見えてくるほど、それらとは隔絶した、巨匠特有としかいいようのない質の高さを感じさせる。

●最初期の《果物を剥く少年》の問題
《果物を剥く少年》は真筆であるにしてもコピーであるにしても、カラヴァッジョの最初期の作品を伝えるものであることはまちがいない。
現存の作品群を見ると、白いシャツを着た少年が果物のたくさん載ったテーブルの前でうつむいてベルモットシトラスのような柑橘系の果物(マリーニによればメランゴロ)の皮をナイフで剥いているのみの作品だが、これが単なる風俗画ではなく、果物に原罪の意味があること、単なる風俗画にしては異例なほどコピーが多いことから、この作品に隠された意味を読もうとする試みが多い。
多くのコピーが残っているにもかかわらず、原作は失われたという見方が強い。
ローマ作品と東京作品では、シャツの下部の内側に折れている部分の描き方が違う。
最大の違いは、ローマ作品のほうがサイズが大きく、正方形に近いため、少年の右腕が画面枠にすべて収まっているのに対し、東京作品は長方形で右腕の肘が左の画面左枠で断ち切られているという点である。
この作品群には少年の腕を全部描いたものとトリミングしたものとの二系統があるのである。
コピー群の中で数が多いのは、後者のトリミングされたタイプである。
こうしたトリミングはロンバルディアの画家たちには定着した手法であったが、ローマの画壇では見られない発想であり、模作者にはなおさら発想できないはずである。
この作品の主題についてはいくつか考えかたがある。
桃のような甘い果実がおいてありながら、酸っぱい果実を選んで人生の辛酸を知る若者の寓意。これは《トカゲに噛まれた少年》と同種の解釈である。
果物から象徴的な意味を読み取ろうおつる学者が多いが、ローマ上京直後の窮乏生活の中で、若い画家にそのような象徴的意味を助言するパトロンがいたとは思われないと、グレゴーリは言っている。
だが、現在の目から見れば何の変哲もないこの作品に尋常ではないほど多くのコピーが作られたことは何らかの宗教的あるいは教訓的意味を含んでいる考えるのも当然であり、単なる風俗画とは断定できなくなってくる。
筆者は、果物の下の小麦の穂に疑問をもった。
小麦は聖餐式の象徴であり、葡萄と麦が組み合わされていれば、よりあきらかにキリストの犠牲を象徴する。
この画面では葡萄のかわりに原罪を暗示する果実が登場している。
果物を剥く少年の行為が原罪の浄化であり、麦の穂も同様の意味を表し、救済の意味を補強するものではないだろうか。
いずれにしても、《果物を剥く少年》は、カラヴァッジョの最初期の重要な作品でありながら謎が多く残されている。
食にも事書く窮乏生活の中で過剰な自身や野望をたぎらせつつ、血のにじむような努力を重ねて卓抜した病者技術を獲得していったというカラヴァッジョのイメージも、想定しなければならないのかもしれない。



◯カラヴァッジョの身振り



「カラヴァッジェスキの独自性は身振り、とくに手の緊張の効果に集中したことにあった」

とアンドレ・シャステルは述べている。
カラヴァッジョの絵画に見られる身振りは、ステレオタイプ化された反宗教改革期の絵画と異なり、より自然で調整されている。
彼の用いた身振り表現はその作品の意味を解き明かす上でも重要である。
身振りは一般に、感情表現などの「表現的身振り(expressive gestures)」と政治的・儀礼的行為などの「象徴的身振り(symbolic gestures)」の二種類の分類される。

●「マタイ論争」と身振り
時間や動きを表現することのできない美術は、ひとつの身振りでその前後の状況を示す必要があった。
そこでは、表現の伝統とコードに則ったいくつかの型によって表現されることになる。
人物表現の型は、記号として画面内で機能する。
つまり身振り表現は、造形的伝統に照らして考察する必要があるのである。
《聖マタイの召命》をめぐる論争がある。
人差し指の点から見ると、これは中央の鬚の男が自分を指すように見えるのだが、人差し指でこのような身振りをする作例があるだろうか。
19世紀のナポリ民俗学者が言うには、自分を指す(Me, A me)ときには、掌を自然に開いて胸に置く、両の掌を胸に置く、の二種類を挙げるのみで、人差し指を胸に立てることは記されていない。
カラヴァッジョ自身も多くの人差し指を描いている。
そこで頻出する人差し指は必ず自分以外の第三者を指し、しかもほとんどの場合、それに指示されるものは画面の主役たる聖なる存在である。
それゆえ、左の若者こそがマタイであると考えるべきではないだろうか。
そうすると、画面両端の横顔が対峙する構成となり、たとえ見つめ合っていなくとも劇的効果と緊張感を増すと考えられる。
頭を垂れる姿勢は祝福や洗礼を受ける場合によく見られる。腕を組んでいるように見えるのも、謙遜の身振りをしていると解釈できるだろうか。
エスはこうたとえている。
「だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるのだ」。
他人を指差して顔を上げる男と、うつむく男との対比は、ルカ伝の譬話を介してマタイ召命のドラマをもっとも効果的に演出していると考えられるのである。

●オランスの身振り
絵画でしか表現できない身振りとしては、ひとつの身振りが二つ以上の意味を暗示するというものがある。
カラヴァッジョの作品には、両腕を左右に広げる身振りが多く見られる。
ここでは仮にこの身振りを「オランス型」とよぶことにしたい。
この身振りはバロック期にいたって広く流行した。
1602年頃にカラヴァッジョがオラトリオ会の総本山キエーザ・ヌオーヴァ(サンタ・マリア・イン・ヴァリチェッラ聖堂)のために描いた《キリストの埋葬》ではクレオパのマリアがきわめて目を引ひく。
近代の批評家には、芝居がかった大げさなものとして否定的に写り、ルーベンスの模写ではこの人物は排除されている。
だが、カラヴァッジョのこの作品には、初期キリスト教文化の再評価運動の中心であるオラトリオ会の思想が色濃く繁栄している。
カタコンベ壁画に見られるオランスの図像がよく似ているのだ。
とくにプリシラカタコンベにあるオランスの図像は、両腕を広げた身振りだけでなく、光に向かって左上に上げた顔、左目にかかる髪までが共通する。
オラトリオ会はその名称からも(orazione)を重視している。
《キリストの埋葬》は、オラトリオ会の祈りの理論を視覚化したものであるとされている。
両手を上げるクレオパのマリア、涙を拭うマグダラのマリア、身をかがめるニコデモという三人の姿勢は祈りの三形態を象徴しており、中でも天に目を向けるクレオパのマリアは恩寵の光を受け、復活を暗示しているという。
同時期に作成された《聖母の死》や、後の《聖ルチアの埋葬》では抑制された悲嘆表現が示されているのを鑑みると、《キリストの埋葬》の方にはオラトリオ会特有の教説が反映していたと説明しうるだろう。
この両手を上げて立つ身振りは、オラトリオ会を中心に普及したものと考えられる。
これは古代においては負けた者が両手を挙げて武装解除たことを示す降伏の身振りであったが、これが嘆願から祈りを示すものとなり、古代教会では一般的な祈りの姿勢となった。
この姿勢は、「救い主の身振りを模倣して両腕を十字架のように左右に伸ばして立つもの」として、キリストの受難を喚起するものであった。
これはイエズス会のサント・ステファノ・ロトンド聖堂の殉教図サイクルなどにも見出すことができる。
1601年に制作されたサンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂チェラージ礼拝堂の《聖パウロの回心》にも、これと似た身振りが見られる。
神の声を受け入れるということは、十字架を背負って神に従うことであるため、この身振りが、前年に完成した《聖マタイの殉教》と同じく十字架、あるいは磔刑を暗示するものであると考えても不自然ではない。
アンニーバレもこのオランス型の身振りをいくつか描いていることからも、やはりオラトリオ会の復古趣味が影響しているようである。
ロンドンにある《エマオの晩餐》では両腕を広げる使徒あるいは巡礼の姿が登場する。
「主よ、あなたは磔刑になったのではないですか。」
と尋ねていると見ることもでき、ミサと磔刑との結びつきを暗示している。驚きという表現的身振りが磔刑という象徴的身振りに転化しているといってよいであろう。
より直接的に十字架のポーズが登場するのは、1609年にメッシーナのクロチーフェリ修道会に描かれた《ラザロの復活》である。
「永遠の夢から覚めて体を伸ばし、右腕で闇を横切って指先で光を汲み取る」このポーズをロンギは「卓抜な創造」としている。
これは「イタリア絵画では類例がない」、独創的なものである。
これは、カラヴァッジョが、嫌がるモデルを剣で脅して死体を抱かせ、それを模写したと伝えられているが、不自然といってよいほど意図的に十字架に似せているといえよう。
ラザロのモデルは、クロチーフェリ会が維持している、聖週間の祭礼に用いられたシチリア独自の彩色された等身大の木彫磔刑像だと想定されている。
ラザロの交差した脚も現存するそうした人形に似ている。
ここにはクロチーフェリ会の修道士の営みが重ねられているのであろう。
この作品の直後に描かれた《生誕》では上部から舞い降りる天使の身振りが目を引く。
片足しか見えない点も、《殉教》の聖マタイやハートフォードの《聖フランチェスコ》、あるいは《ラザロ》と同様であり、磔刑を意味する形態の一連の流れに連なる。
こうした、主題に受難の予徴が描きこまれることは、16世紀に始まり、反宗教改革期以降に広く流行した。
うつむいた聖母の憂鬱そうな表情も、こうした寓意につきものである。

カラヴァッジョがオランスの本来もっていた磔刑の意味を理解し、この身振りを多用したことは、画家が宗教画の大作を制作し始めた1600年代初頭にオラトリオ会と深いかかわりをもったことに起因するのだろう。
カラヴァッジョ作品のもっていたこうした象徴的な側面は、カラヴァッジェスキの画家たちに継承されることはなく、17世紀には表現的な身振りの集積によって構成されるドラマチックな説話表現、つまり歴史画が隆盛を迎えるのである。



◯二点の《洗礼者ヨハネ》の主題

カピトリーノ美術館にあるカラヴァッジョの通称《洗礼者ヨハネ》は、近年その新たな疑問が投げかけられている作品である。
子羊の代わりに大きな角を持った老羊を抱くこの少年は本当に洗礼者ヨハネであろうか。ヨハネでなければ誰なのか。まだ充分に納得できる結果を見ていない。
ボルゲーゼ美術館にある《洗礼者ヨハネ》にも牡羊が登場するが、これについては疑義が提出されていない。
ふたつの「洗礼者ヨハネ」をどのように捉えるべきだろうか。

カピトリーノ作品
この解釈論争は新たな局面を迎える。
「解放されたイサク」であるという説が相次いで提出されたのである。
左下の赤いタッチは、布ではなく火であるとし、少年は犠牲の祭壇の上にいて天使に解放されたところであり、自分の代わりに犠牲に供されようとする牡羊を歓喜のあまり抱擁している場面であるとした。
裸体であるのは犠牲に供されようとしたからで、羊が祭壇の上にいるのはこれから犠牲に供されるためであると解釈された。
フィレンツェウフィツィ美術館にあるカラヴァッジョの《イサクの犠牲》の泣き叫ぶ顔と対照的であることから、両者の間に意味的な連関を認めようとしている。
この場面がウフィツィ作品の《イサクの犠牲》に続く情景であるとしている。
画面右下の植物、イチイはキリストの受肉、死、復活を示すという点からも、この作品はイサクの解放に予告されるキリストの復活を示すものであるとした。
左下の火のついた薪については、従来赤い布の描き直し(ペンティメント)であるとされていた。
しかしペンティメントにしては明瞭にすぎるようである。
アブラハムが登場しないという難点もある。
だが、最近になって、アブラハムはここでは画面の外にいるとし、それによって観者はアブラハムの位置に自らを置くことによって深く画中の出来事に関わることになるという論文が発表された。
かれらはこうした効果を「transaction of experience(体験転化)」と呼ぶが、これは筆者がカラヴァッジョの特質のひとつだと考える「不在効果」にほかならない。

●カラヴァッジョにおける「不在効果」
パレルモにあるアントネッロ・ダ・メッシーナの有名な《受胎告知》は、聖母のみが描かれ、もう一人の主人公である天使が登場しない。
観者が天使の役割を果たすことになるのだ。
登場すべき人物をあえて描かず、画面外の空間にその存在を想定させ、観者の位置に重ね合わせることによって、観者を画中の出来事に関与させるこうした趣向を「不在効果」と呼ぶことにする。
16世紀前半に北イタリアで写実的な絵画を制作したサヴォルドの《マグダラのマリア》も、こうした不在効果を代表する作例である。
これは、復活したキリストを前にしたマグダラのマリア、つまり「ノリ・メ・タンゲレ(われに触るな)」の場面である。
マリアの衣が尋常ならざる光に照らされているのは、キリストから発せられた光のためであると考えられる。
本来はバロッチの作品のように、復活したキリストの存在は不可欠であったのである。
観者は不在効果によって「ノリ・メ・タンゲレ」の主人公になるのである。
ペドロ・デ・オレンテの《聖母被昇天》では、昇天する聖母の下で空になった棺桶のまわりで動揺する使徒たちのうち、聖トマスがいないとされる。この絵を前にした観者はもっとも疑い深いトマスの役を引き受けるのである。
また、レンブラントは1637年頃のハーグにある《スザンナ》において、観者がスザンナのおびえた視線に直面し、スザンナを脅す長老の一人を画面の外に置いて観者と同一視させようとした。
不在効果の作品では、聖なる情景を画中で完結させず、画面枠で断ち切ることによって、画面外にその情景が継続しているように感じさせるのであった。
この情景を具体的に示すために鏡を描きこむ手法もあった。
こうした風潮の影響を受けつつ、情景をわかりやすく表現し、それに現実性を与えて観者を引き込むという課題を解決したのがカラヴァッジョであった。
彼はフランドル風の写実主義のさかんな北イタリアで修行し、迫真的な静物描写に優れていた。
見事な写実技法とともに不在効果を駆使して比類ない臨場感を作品に与えたのだ。
ウフィツィ美術館にある《バッカス》では、杯をこちらに差し出すバッカスは酔眼を観者に向けて、寝台に横たわり、自らの帯をほどこうとしている。つまり、観者を宴会と情事の相手に誘っているのである。
静物も迫真的である。
ちなみに、ワインのフラスコには画家の顔が映っており、観者が画面の前で立つべき場所に画家が位置していたことがわかる。
《エマオの晩餐》での聖なる情景が風俗画のように俗化していないのは、光の効果のためである。
左手前の空間が空いているのに気づくが、ちょうどキリストを前にしてテーブルをはさんだこの席についているような気になる。
観者はもう一人の巡礼になって、画中の巡礼とともにキリストの復活を目の前にしているような感をおぼえるのだ。
カラヴァッジョによって、反宗教改革的なわかりやすい宗教画に、神秘性や聖性を失うことなく現実性がもたらされたのである。

●ボルゲーゼ作品
ボルゲーゼ美術館の《洗礼者ヨハネ》に疑問に呈されたことがないのは、描かれた人物が、カピトリーノ作品のような幼い少年ではなくて、青年であり、全裸ではなく、杖を持っているちう、伝統的な洗礼者ヨハネの図像に近いからであろう。
しかし、よく見ると子羊は角のはえた大きな牡羊に、十字架上の杖はただの棒になっており、洗礼者ヨハネの主要なアトリビュートであるラクダの毛皮も描かれていない。
ただの棒状の杖を持つ洗礼者ヨハネの図像は、管見の限りでは存在しない。
画家は伝統的な図像に反して十字架を避けたようである。つまりここでは、少年が単なる洗礼者ヨハネに同定されることが巧妙に回避されていると考えられるのである。
カピトリーノ作品の少年が微笑んでいるのに対し、ボルゲーゼ作品のヨハネは憂鬱そうな表情をしている。
このオデルは同じボルゲーゼ美術館にある《ダヴィデとゴリアテ》のダヴィデと同一と思われ、それによって制作時期も同じ1609年あたりとされているが、思いに沈んだような表情も近似している。
子羊ではなく角のはえた牡羊、十字架の横木の欠けた棒状の杖は、救世主がいまだに出現せず、人類の罪がまだ贖われていない状況を示すのである。これは、旧約の世にあって主の到来を予告したヨハネの位置を示すものにほかならない。

ヨハネ=イサク=キリスト
カピトリーノ作品の少年が、イサクでありながらヨハネのような設定で表現されたものであるとすれば、それはこの両者の共通性、つまり、イサクもヨハネもキリストの死とそれによる救済を予告し、象徴するという点からではないだろうか。
ところで、いずれもキリストであるイサクと牡羊とが抱擁していることはどのように解釈されるであろうか。
イサクが背負っていった薪は、キリストが背負った十字架であり、十字架は「イサクの木」であるといわれる。
イサクは殺されることを免れ、代わりに羊が犠牲になったが、これはキリストの神性は殺されずにその人間性のみが死んだということを示しており、イサクはキリストであり羊はキリストの人間性である。イサクの代わりとして、アブラハムが茨の茂みの中で見つけた羊は、茨をつけたキリストの肉体である。
この教説によると、イサクと牡羊とが一体になれば、神性と人間性とを兼ね備えたキリストそのものを象徴することになるのである。
この少年と牡羊との抱擁は、キリストにおける神性と人間性との結合を示すものではないだろうか。
つまりこの少年は、一見「荒野の洗礼者ヨハネ」でありながら、実は「解放されたイサク」であり、霊肉を備えたキリストでもあるという重層的な意味を持つことになる。
ボルゲーゼ作品はカラヴァッジョが最後まで携行していた三点の絵画のうちのひとつである。画家がこの作品を携えて旅立ったのは単なる偶然とは思われない。
画家は恩赦が出るという期待を持ってローマに向かっていた。
たとえば《ダヴィデとゴリアテ》は自己を究極の謙遜と悔恨のうちに表したメッセージであるといわれる。
ダヴィデのモデルが洗礼者ヨハネと同一であると思われるのは示唆的である。
勝利者であるはずのダヴィデの憂鬱そうな表情は、福音の到来を前にして喜ぶべきヨハネの諦念を思わせる表情に近く、画家の独自の主題解釈が見られる。
救世主が出現すれば人類の罪が贖われるように、恩赦が出れば罪深い画家は救済されるのである。
ヨハネが杖に依る表情は、放浪の果てに行き倒れた画家の最後の表情に重なるように思われるのである。




4. カラヴァッジョ逃亡

◯末期の相貌

●悔恨の山──ラティオ逃亡期の問題
1606年ローマから逃亡したカラヴァッジョは、同年10月6日にナポリに現れるまでの4ヶ月間を、コロンナ領の山岳都市、ザガロロ、パレストリーナ、パリアーノを点々と潜伏して過ごす。
ローマでは恐るべき「死刑宣告(bondo capitale)」が出されていた。
カラヴァッジョ侯爵の縁戚であるコロンナ家は、画家にとってもっとも頼りになる一族であり、画家は生涯にわたってこの一族に援助されている。
このとき制作されたのが、ミラノにある《エマオの晩餐》と《マッダレーナ・クライン》だとされている。
《エマオの晩餐》は1601年に制作されたロンドンの第一作と比べると、大きな変化が見られる。
身振りは最小限に押さえられ、人物たちは静かに闇の中に沈んでいる。
細部描写も見られず、大まかな筆触が目立っている。
これらの特徴はこの時期以降のカラヴァッジョ作品に共通するものとなった。
同時代の風俗の中に聖書の情景を当てはめた初期の作品とちがい、後期の作品では本質的な要素のみに焦点を当て、精神的で宗教的に深刻な雰囲気を作り出していることがわかる。
マグダラのマリアの法悦》の注文主は不明だが、画家が死の間際まで携えていたものにもあった。
この作品は画家とともに南部を流転し、各地にその図像を流布させたのである。
主題はあきらかに悔悛だが、その表現は法悦を思わせ、17世紀に大流行する法悦の表現の嚆矢となった。
目を上げて後ろに投げ出した頭や組んだ指は、祈りでなく悲嘆を表す身振りであり、伝統図像というよりも実際の生活で見られる身振りを大胆に導入したものであるという。
やはりここでは、ベルニーニ的な法悦ではなく悔悛の激しい苦悩が表されていると見
るべきだろう。
ラツィオ逃亡記に描かれた《エマオ》と《マグダラ》の深い闇と瞑想的な雰囲気は、その直前のローマ時代の終わりごろの《執筆する聖ヒエロニムス》にその萌芽があった。
よく観察すると、奇妙なことに聖人の視線は書物の端からそれており、書物の上にかがみこみながらも内面に沈潜しているようである。
死について瞑想する個人としてヒエロニムスを捉えた斬新であり、以降リベラらに影響を与えることとなった。
これにきわめて近似しているのが、《瞑想のフランチェスコ》である。
ここでは伝統図像から逸脱し、聖人の孤独な人間性が強調されている。
これはゲッセマネのキリストになぞらえられており、同時にヒエロニムスやメメント・モリと結びついた人文主義的なメランコリーの図像とも重なり合っている。
もう一点の《祈る聖フランチェスコ》はどうであろうか。
櫛のように組み合わせた指(mani in pettine)は、苦痛と悲しみを表し、祈りを表す場合は「過去に体験したか未来に予期される苦痛や悲しみのために熱烈に祈る」ときに用いられるという。
この聖人が画家の自画像であると意見も唱えられている。
二度目に滞在したナポリでは、《聖ウルスラの殉教》に見られるように、画面を覆う闇に人物が侵食され、画家の焦燥と絶望が表出しているかのようである。
ダヴィデとゴリアテ》はカルピネートの《聖フランチェスコ》が発展したものと見ることができる。
恩赦を得るということが晩年の画家の最大の目的となっていたことはまちがいない。
いまだ聖痕を拝受していない《聖フランチェスコ》も、《洗礼者ヨハネ》と同じ文脈で、山中で聖痕を希求する姿に、罪の赦しを求める画家の姿が重ね合わせられているようである。
アトリビュートの欠如ないし不備は意図的なものにちがいない。それは通常の宗教主題のうちに、画家の個人的で特殊な意味がこめられていることを伝えるためではなかったろうか。
洗礼者ヨハネはまだ救世主を迎えることなく、聖フランチェスコもまだキリストに近づいていないのである。
カラヴァッジョが潜伏したラツィオの山岳都市は、いずれも山道や石段を延々と上りきった高い山上にあり、車のない時代に登るのは大変な苦労だっと思われるが、そこからの眺望は格別である。なだらかな緑の平野のはるかの果てには、ローマの街がきらめいて見える。
パレストリーナザガロロでは、カラヴァッジョの滞在した旧パラッツォ・コロンナが現存している。
のどかな山岳都市も、逃亡の画家には、聖フランチェスコがすべてを捨てて隠棲したヴェルナ山の峻厳なイメージに重なったにちがいない。
光が強いほど陰も濃くなるように、画家の描く画面の闇はますます深くなっていった。
彼が流れ着いた先々で、その暗黒様式(テネプリズモ)がまたたく間に浸透したのは、あるいはこの陽光の明るさゆえではなかったろうか。

●切られた首の自画像──《ダヴィデとゴリアテ
ボルゲーゼ美術館にあるカラヴァッジョの《ダヴィデとゴリアテ》は、「殺人者」、「呪われた画家」といったこの画家につきまとう「黒いイメージ」の生成に寄与してきた。
「様式的というだけでなく心理学的にまさに最晩年に属している」と評される。
《聖ウルスラの殉教》に描かれた、ウルスラを殺害するアッティラの半分陰に沈んだ悲壮な表情は、ダヴィデの悲しげな表情の描写と非常に近い。
ゴリアテの首がカラヴァッジョの自画像であるということは17世紀から広く信じられており、オッタヴィオ・レオーニが描いたカラヴァッジョの肖像と比較しても納得できるものである。
カラヴァッジョの自画像は、《病めるバッカス》、《聖マタイの殉教》が認められている。
《病めるバッカス》で、ロンギは顔色の悪さから見て、コンソラツィオーネ病院に入院していた頃に描いたと考えている。1593-1594年頃のカヴァリエール・ダルピーノに画家が弟子入りしていた期間に重なる。
常にモデルに依存していた画家が、モデルの調達できない入院中に、自分の姿を鏡に映して描いたという事情は想像に難くない。
自作の多くに変装した自画像を描きこんでいながら、独立した自画像は描かなかったとことに、この画家の屈折した自我を読み取るころもできよう。
シチリアから再びナポリに戻ってきた1606年10月、カラヴァッジョは居酒屋チェリーリオの前で襲撃され、瀕死の重傷を負っている。
ダヴィデとゴリアテ》のゴリアテとしての自画像も、このときの療養期間中の、同種の事情の産物ではないだろうか。これはあくまでもひとつの仮説である。
カラヴァッジョは、ダルピーノの図像を念頭に置きつつ、ジョルジョーネのダヴィデの伝統をふまえて描いたと考えられる。
中世以来、「ユディト」の主題は「ダヴィデ」と対になって構想されたが、ホロフェルネスの切られた首として肖像が描かれることも16世紀には珍しくなかった。
システィーナ礼拝堂天井画で描かれた《ユディトとホロフェルネス》」のホロフェルネスはミケランジェロの自画像である。
これがカラヴァッジョの発想の源泉だと、クレイトン・ギルバートは見ている。
1613年頃のクリストファノ・アッローリの有名な《ユディトとホロフェルネス》は、ユディトを愛人、従者をその母、ホロフェルネスを自身の姿として描いている。
切られた首としての肖像画は、「サロメ」あるいは「洗礼者ヨハネの首」という主題にも現れる。これを写実的に表現することはロンバルディアでさかんであった。
ドーリア・パンフィーリ美術館にあるティツィアーノの《サロメ》の、盆に載った洗礼者ヨハネの首は自画像であるという説があり、これが「斬首された自画像」の最も早い作例といわれている。
切られたゴリアテの首は、打ち負かされた傲慢、つまり謙遜の象徴となるが、あえて処刑された洗礼者ヨハネの首も、究極の謙遜を表すという点でこれに通じるという。
仮装した自画像は、大画面の一登場人物に自画像を紛れ込ませたルネサンスに流行した参列者自画像の変形と見ることもでき、この参列者自画像が独立したものが、変装自画像といえるだろう。
カラヴァッジョはミケランジェロを強く意識していたと思われ、その自己表出の方法も学んだのかもしれない。
カラヴァッジョには、初期の《メドゥーサ》、《ユディトとホロフェルネス》から《洗礼者ヨハネの斬首》、《サロメ》など、斬首を扱った作品が多いが、そこに見られる生々しい迫真性は当時ローマで行われていた公開処刑の記憶に基づくと思われる。
とくに1599年9月11日にピアッツァ・サンタンジェロで執行された美少女ベアトリーチェ・チェンチのチェンチ一族の斬首はちょうどその頃制作されたと思われる《ユディト》に反映しているのであろう。
翌年のカンポ・デイ・フィオーリにおけるジョルダーノ・ブルーノの火刑は有名な事件であった。
彼がローマにいた1592年から1606年までに、658回もの処刑が行われたという。週に一度ほどの頻度である。
約半世紀後にレンブラントは、この作品の図像を借用して《ルクレティア》(ミネアポリス美術館)を描いているが、カラヴァッジョの辞世(canto d'addio)ともいうべき《ダヴィデ》は、まさにレンブラントに通じる芸術の自伝的性格を予告しているように思われるのである。



◯犠牲の血

カラヴァッジョの《洗礼者ヨハネの斬首》は彼の最大の作品(361×520)であり、この画家には珍しい古典的な調和と均衡を備えた大作として、「17世紀最高の絵画」とか「西洋美術における究極の傑作」などと評されてきた作品である。
この図像はかなり特殊であり、一太刀で切れなかったヨハネの首を小刀で切り離そうとしているという、美術史上、類例のない瞬間を描写したものである。
この作品は1608年にマルタ島ヴァレッタのサン・ジョヴァンニ大聖堂付属オラトリオの祭壇画として描かれ、現在もそこに設置されている。

マルタ騎士団
マルタ騎士団の歴史については、カラヴァッジョと同時代のジャコモ・ボジオによって1571年までの膨大な正史が編纂されそれ以降はダル・ポッツォが執筆している。
この騎士団は正式にはエルサレムヨハネ騎士修道会といい、12世紀にエルサレムに設立され、当初は十字軍活動を支援する病院活動を主としていたが、やがて軍事活動に充填を置くようになり、エルサレム陥落後は1291年からキプロス島、1309年からロードス島に活動拠点を移し、そこが1522年にスレイマン大帝の派遣したオスマン軍によって陥落すると、1530年にカール五世からマルタ島を与えられて移り住んだ。
その後、1798年にナポレオンに島を追われるまでキリスト教の前線を守る守備防衛隊としてヨーロッパの名門貴族の子弟を集め、教皇庁からもいくつかの特権を付与されて大きな尊敬と信望を集めていた。
1565年には4万人のオスマン・トルコ軍が来寇したが、5ヶ月にわたる攻防戦の末、9000人の戦死者という犠牲を払いながら島を死守した。この大包囲でマルタも騎士団もきわめて大きな打撃を受けたが、その後ただちに復興を進めて堅固な要塞都市ヴァレッタを建設し、1578年にはこの新都の中央に騎士団の守護聖人洗礼者ヨハネに捧げた大聖堂を建立した。1571年にはレバントの海戦に参加して武名を上げている。17世紀に入ると、1601年から22年まで騎士団長を務めたフランス人のアロフ・ド・ヴィニャクールの下に騎士団が攻勢に出、東地中海やアフリカ近辺でトルコ船を襲撃し、トルコ領を攻撃することもあったが、常にトルコによるマルタ侵略の脅威にさらされており、それが17世紀を通じてマルタ島の平和に暗い影を落としていた。
カラヴァッジョが来島した年の前年には、イスラム教徒との戦闘で500人にのぼる騎士とマルタ人が、戦死するか捕虜になっており、島は常に臨戦態勢にあった。
1602年に騎士たちの提案でサン・ジョヴァンニ大聖堂に付属したオラトリオが建設された。
また1603年には慈善事業を行うために騎士の有志によって設立されたミゼリコルディア会がここに移ってきている。
1607年にマルタ島にやってきたカラヴァッジョは、《聖ヒエロニムス》を制作し、1608年にかけて騎士団長ヴィニャクールの肖像を数点描いて、同年7月には騎士団への入会を承認された。
この間、《眠るアモール》を制作した。
1608年前半、《洗礼者ヨハネの斬首》を制作した。
「この作品をカラヴァッジョはあらゆる技量を用いてきわめて大胆に描写し、カンヴァスの地塗りをそのまま残した。作品が見事であったので、騎士団長は十字章のほかに、彼の首に高価な金の首飾りをかけ、二人の奴隷を与えた。」と記されている。

●血の寓意
《洗礼者ヨハネの斬首》は、特殊な場面が選ばれている。
洗礼者ヨハネマルタ騎士団守護聖人であり、騎士団そのものの擬人化した姿にもなりうる。
血の洗礼は殉教のことであり、殉教という「第二の洗礼」は水の洗礼よりももっと純粋であり、キリストの血によって浄化されることであると述べられている。
カラヴァッジョ作品で横たわって血を流す洗礼者ヨハネは、血による洗礼を表し、さらに殉教した騎士を暗示すると思われる。
「血に似た赤いマント」という記述が、ジャコモ・ボジオの『勝利と栄光の十字架』にあるが、ヨハネの赤いマントはそれと関連するのではないだろうか。
ナピリのサン・リゴーリオ(サン・グレゴリオ・アルメーノ)聖堂には、聖遺物である小瓶に入った洗礼者ヨハネの凝固した血が、8月29日の洗礼者ヨハネの斬首の火に、祈りとともい溶けて液体になるという奇蹟があった。このミサにはマルタ騎士が立ち会っており、毎年の恒例となっていた。
目の前でルビー色に沸騰して液化する聖血を目撃していた騎士たちは、洗礼者ヨハネの血に対して格別の思いを持っていたに違いない。
騎士団は洗礼者ヨハネの右手をサン・ジョヴァンニ大聖堂のオラトリオに大切に保管している。
カラヴァッジョの画面では、右手首だけが見える。
これは同じ礼拝堂に安置された聖遺物を暗示していたと考えられるのである。
記録によれば聖遺物容器からは親指、人差し指、中指しか見えなかったという。また、薬指と小指が欠損していたという。
作品の右手も、親指、人差し指、中指が目立ち、薬指は先端のみ、小指はほとんど見えないのである。

●鍵と囚人
処刑を支持している人物について見よう。
鍵をぶら下げ、監獄の看守であることが示されている。
サン・ジョヴァンニ大聖堂にある9つの礼拝堂のうちのひとつ、マドンナ・ディ・フィレルモ礼拝堂には、壁に三枚の銀のプレートがはめこまれており、それぞれに鍵の束がぶら下がっている。
これはオスマン都市を攻撃した際の、三度の戦利品である。
牢番の三本の鍵はこの英雄的な活動を象徴するものだろう。
処刑現場を覗いている二人の人物はどうだろうか。
作品が注文される直前の1606年4月に、チンバロ島でのガレー船の難破によって、襲撃を受けた騎士たちが、奴隷として連れ去られるという事件がおこっている。
そこで、負傷した仲間の騎士を助けるために引き返し、結局二人とも捕らえられて奴隷となってしまったという美談がある。
それがこの二人の騎士であると考えれば頭に包帯を巻いているのも辻褄が合う。
騎士団長が与えた二人の奴隷という報酬は、画中の二人のキリスト教奴隷に対応するものと推測することもできるのである。
諸説あるが、大聖堂の近くにある奴隷収容所を舞台としていると筆者はみている。

●騎士団長礼賛
ヨハネの血はちょうど祭壇の中央に流れるようになっている。
マルタ島最大の危機の際に落命した騎士たちの殉教の様子が上にあり、その下には、洗礼者ヨハネの斬首によってより普遍的な騎士団の殉教が暗示され、その下の祭壇上の十字架によってキリストの死による救済にいたるという構成が示されている。
《洗礼者ヨハネの斬首》では、「帝国君主号(プリンチペ・デル・インペーロ)」を授与されたヴィニャクールおよび騎士団の栄光と殉教が表象されていると考えられる。
信仰のために血を流すという騎士団のこうした理念を視覚化したものがカラヴァッジョの作品だったと思われる。
処刑人のポーズによって、ヨハネは殉教だけでなく、犠牲であることが示され、罪の贖いによる騎士たちの救済が暗示されている。それは価値ある血であると同時に、キリストの贖いの血でもあるわけである。
騎士団長の尽力によって念願の騎士号を手に入れた画家は、ヨハネの首から流れ出る血で、「F Michel A」と自らの名前を記した。
FはFecitではなく、騎士団員であることを示す「Fra」であり、それを誇らしげに示したものだと思われる。
この作品は、騎士の戦死、洗礼者ヨハネの殉教、キリストの犠牲という重層的な意味をもっており、対イスラム戦の英雄的な活動をした騎士団長ヴィニャクールへの称賛と、戦死した騎士たちへの鎮魂を込めたものであった。



◯失われた最後の大作

●《生誕》の位置づけ
《聖ラウレンティウスと聖フランチェスコのいる生誕》(《パレルモの生誕》)は不幸にして盗難にあい、現在なお行方不明である。
この作品は、主題・図像・様式などが伝統的・保守的で、彼独特の斬新さがないようであり、しかも晩年の画風携行に一致しないように思われるため、製作年代を上げる説が繰り返し唱えられた。
多くの説があるが、筆者は、この作品に描かれた人物像のタイプを検討した結果、やはりこの作品は晩年に描かれたものであると判断した。

●カラヴァッジョのモデル使用
作品に描かれた人物の容貌を比較することによって、製作時期をある程度推定することができると思われる。
彼は大体の構図を刻線によって決めると、あとは描きながら形や細部を作り上げていたようだ。
特に女性や少年、老人に関しては、製作時期による画家のモデルの変遷を容易に辿ることができる。
初期の一連の少年半身像は《音楽家たち》に集合している。1590年代から1600年頃には《女占い師》や《リュート弾き》、《聖マタイの召命》のモデルは画家のマリオ・ミンニーティであることが、その肖像画からわかる。
時にホモエロチックな媚態を帯びた少年は、デル・モンテ枢機卿の邸宅にいた少年たちであろう。
カラヴァッジョ作品の人物像に注目し、それらを比較対照させれば、ある程度の製作時期を推定できる。
そして、そのことを利用して《生誕》の製作時期も判断できると思うのである。
天使の翼の描写から比較すると、最も近いのは《慈悲の七つの行い》と《受胎告知》の天使である。
ローマ時代のように緻密で写実的ではなく、羽毛の方向が統一され、整理された描写となっている。
それはローマ時代のものよりはナポリ時代のそれに近い。

聖母について見てみる。
マグダラのマリアの回心》、《アレクサンドリアの聖カタリナ》、《ユディトとホロフェルネス》の同一の女性は、娼婦フィリーデ・メランドローニであろうと考えられている。
《ロレートの聖母》と翌年の《蛇の聖母》のモデルは、公証人パスクアローネとの争いの原因となった娼婦レーナ(マッダレーナ・アントニェッティ)であると考えられている。
幼児については、《眠るアモール》、《羊飼いの礼拝》、《生誕》の赤子は同一タイプといえるだろう。
画面左の聖ラウレンティウスは《ラザロの復活》でラザロを両腕で抱きかかえる男の容貌と近い。
以上によって、《生誕》がやはりシチリア時代、特にメッシーナの人物像と同種といってよいだろう。

●先行作例と晩年様式
この作品の様式の特殊性はどうだろう。
これがメッシーナの《羊飼いの礼拝》と同時期に描かれたとすれば、なぜこの作品のみが保守的で、構成などが異なっているのかという点が問題となる。
二人の聖人の存在は、注文者である、サン・ロレンツォのオラトリオ(小集会所)とそれが帰属していた聖フランチェスコ同信会にちなんでいるのは明白である。
二人を挿入しなければならないこの作品では、祈念画的表現をとらなければならなかったため、安定やモニュメンタリティーが求められたと考えられる。
「百合がその重さで折れるかのように」とロンギが表現した、降りて来る天使は、かえってその静寂さを高めているようだ。
コルネリス・コートが版刻した版画の青年の天使が、源泉となったのかもしれない。
降誕図の構成としての洗礼は。ブレラ美術館などにあるルカ・カンビアーゾの作品である。
パレルモの《生誕》は、ローマで目にしたこのカンビアーゾの記憶がカラヴァッジョに甦ったものではなかろうか。
ジェノヴァの影響力の強いパレルモで描かれたと思われる《生誕》に、ジェノヴァ屈指といわれたこの画家の影響が見られるのは不自然ではないかもしれない。
伝統的図像にいくぶん基づいていながら、カラヴァッジョが革新的である点は、幼児キリストを光源としていないことである。
《生誕》の構成と様式も、それが設置されるべき祭壇における効果を意図してのことだったと思われる。
まったく異なる画風は、設置される空間への画家の計算によって説明できるのではないだろうか。
民衆的な貧しさ、無力さが基調となっているのも、この時代のカラヴァッジョ作品の特色ともいってよい。
画面に占める人物の割合がやや大きくなり、人物の動きが抑制されたこの《生誕》は、続く第二次ナポリ滞在時に描いた唯一の大作で19世紀に焼失した《キリストの復活》い受け継がれたのではなかろうか。

●《キリストの復活》再現の試み
1609年10月にはシチリアからナポリに戻っていたカラヴァッジョは、翌年7月にローマに向けて死出の旅路に赴く前にいくつかの作品を描いた。
第二次ナポリ時代の作でもっとも重要な大作は、サンタンナ・デイ・ロンバルディ聖堂のフェナロリ礼拝堂に設置されていた《キリストの復活》である。これは1805年にナポリを襲った大地震で教会が倒壊したときに失われたとされる。
この作品はナポリ派に大きな影響を与えたと思われる。
作品の複製版画やスケッチなどはないが、いくつかのディスクリプションが残っており、図像の概要をうかがい知ることができる上、作品を比較的忠実に写したとされるルイ・フィンソンの同主題作品が一種のコピーとして認識されてきた。
だがフィンソンのそれは凡庸で、忠実なコピーとは考えにくい。
いくつかの記述から抽出されるのは、キリストが宙に浮くのではなく、墓に片足を残し、兵士たちの間をこちらに向かって歩いてくる図像である。
奇異に感じられたのは、キリストが画面の下部に位置し、周囲の人物と同じ地平に位置していたからだと思われる。
重要なのは、ピオ・モンテ・デラ・ミゼリコルディア聖堂にある《聖ペテロの解放》である。
このカラッチョロの代表作は、カラヴァッジョの《復活》におけるキリストについてのコメントを想起させる。
カラッチョロは、カラヴァッジョの《復活》の構成をそのまま応用してこの作品を構想したのではなかろうか。
カラヴァッジョは1603年のバリオーネに対する憤慨の時点で、自分ならこう描くというプランを抱いていたのはたしかであり、それを数年後にナポリで実現したといえる。
カラヴァッジョの作品はバリオーネ作品のアンチテーゼとして構想されたと考えることができよう。
もしこの作品が再び世に出ることがあれば、ここで紙墨を費やしておぼつかない足取りで進めてきた考察のほとんどは無に帰するであろうが、そのときを願わずにはいられない。


(カラヴァッジョ年譜)

1571年9月29日
ミケランジェロ・メリージ、おそらくミラノに生まれる。
1577夏
ミラノで大流行したペストを逃れ、家族でミラノあkらカラヴァッジョに移り住む。
10月20日
父フェルモがペストで死亡。同日、祖父と叔父もペストで死亡。
1584年4月3日
ミラノの画家シモーネ・ペテルツァーのと4年間の徒弟契約。
1590年
母ルチア死亡。
1592年5月11日弟のジョバンニ・バティスタ、妹のカテリーナの3人で両親の遺産の分配相続。
年末
ローマに向かう。ミラノで殺人事件か何かのトラブルに巻き込まれて故郷を離れざるを得なかったためであるという。
1593年8月11日
夜中に歌舞音曲をもって騒いで通報された13人の若者のうちに、オノリオ・ロンギとともに「ミケランジェロという画家」がいたという。
サン・ピエトロ大聖堂の要人だったパンドルフォ・プッチのもとに寄寓し、1日の食事がサラダのみという待遇で宗教画を模写する。
このころ《果物を剥く少年》、《蜥蜴に噛まれる少年》を描く。
-94年
画家カヴァルエール・ダルピーノの工房に入り、8ヶ月間そこで花や静物を描く。
このころ《病めるバッカス》や《果物籠を持つ少年》を描く
1594年
このころ馬に蹴られてコンソラツィオーネ病院に入院。退院後、ダルピーノの工房を離れる。
1595年頃
ファンティーノ・ペトリニャーニのもとに寄寓。



【書評】
後ほど