正論をいう無職

有職になった

1分でわかる『虹の解体―いかにして科学は驚異への扉を開いたか』




【1分でわかる】


 序文.
科学がもたらす自然への畏敬の気持ちは、人間が獲得しうる至福の経験のひとつである。



1. 日常性に埋没した感性
この完璧な環境の惑星に、巨大な集合体として私たちは存在している。この奇跡を喜ぶための力を、科学は与えてくれる。




2. 客間にさまよいいった場違いな人間
詩と科学は、解釈の仕方が違うだけで、同じものなのだ。



3. 星の世界のバーコード
虹を解体することでわかるようになった、星の構造から宇宙の膨張まですべてが、詩的な美をもっている。



4. 空気の中のバーコード
混合された光はスペクトル分けられ、そこにはがある。
すなわち、検出することの美、秩序理解を持ち込むことの美だ。
そこには無駄のない美しさ、メッセージがある。




5. 法の世界のバーコード
DNA鑑定がある。それは”血液の中のバーコード”である。



6. 夢のような空想に ひたすら心を奪われ
われわれは不思議なもの(ワンダー)に飢えている。この詩的な欲求は、本物の科学によって満たされるべきものだ。



7. 神秘の解体
私たちの直感的な部分の脳は石器時代のままだ。

小集落で起こった偶然に、ものすごい驚きをおぼえ、そこにパターンを見出そうとするように、人間の脳が調整されているのだ。




8. ロマンに満ちた巨大な空虚
科学も、それが極まったとき、詩的なものの入り込む余地がある。



9. 利己的な協力者
科学における悪質な詩は多い。だが科学は詩的だ、詩的であるべきだ。

科学は詩から多くを学び、自らのインスピレーションに満ちた営みの中に、良質な詩のイメージやメタファーをしっかりと取り入れなければならない。




10. 遺伝子版死者の書
すべての陸上生物にとって、遠い昔のにおける徒弟時代の記憶が、血液の生化学的組成に反映されているという詩的な示唆がある。

DNAのとは、自分たちの祖先たちが生き抜いてきた世界についての暗号化された記述なのだ。




11. 世界の再構成
環境の細かな変化にしっかり対応するため、遺伝子は動物たちに神経系というハードウェアと、ヴァーチャル・リアリティ・ソフトウェアを与えた。

遺伝子は、世代を超えて変わらないような、環境についてのおおまかなモデルをつくり、細かくてすばやい変化はに任せた。



12. 脳のなかの風船
われわれは、自分を見出すことができ、何かを理解することができ、終わりを予想することができる唯一の存在である。

そしてまた、こう言うことのできる唯一の存在である。自分が生まれてきた価値があった、と。







【30分でわかる】

 序文.

科学がもたらす自然への畏敬の気持ちは、人間が獲得しうる至福の経験のひとつである。
本書の主眼は、よき詩を旨とする科学を唱導しようとするものである。
”詩的な畏敬の念(センス・オブ・ワンダー)を霊感源とする科学”という意味で。



1. 日常性に埋没した感性

『この世に生きているということは結局、それだけで十分な奇跡なのだ。』──マーヴィン・ピーク『ガラス吹き工』
ちょうど現在とは小さいスポットライトのごときもので、時間という非常に長い定規の上を一ミリずつ刻々と移動している。
私たちは自らの生存にとって完璧な環境を有した惑星の上にある。
無作為に選び出した惑星がそのような環境をもっている確率は、100万分の1よりも小さい。
個体レベルの存在を考えるとき、私たち個々の生命は驚くべき幸運にめぐまれたといってよい。
身近さや日常は感覚を鈍らせ、私たちの存在に対する畏敬の念を見えなくする。
今まさにこの世界にまろびでた時の感覚を呼び覚ます方法がある。この世界をいつもとは違う角度から見ればよいのだ。
私たちの個体が国ならば、細胞は州であり、細菌は町である。私たちは最近の巨大な集合体なのである。
私たちを目覚めさせるものとしては、時代をさがのぼる旅も想定できる。
三葉虫の昔を計るタイムスケールで考えれば、古代詩の世界などわずか昨日にすぎない。
化石が見つかったとしたら、それは非常なる幸運にめぐまれたごく一部の生物が化石化しているに過ぎない。
もし私が化石化されたなら、それはとても栄誉なことなのである。



2. 客間にさまよいいった場違いな人間

日常に埋没した感性を解き放つのが、詩人の得意とするところである。
多くの詩人が長い間見すごしてきたインスピレーションの泉がある。
科学がもたらすインスピレーションである。
科学者は私たちの大宇宙に対する見方を変革してくれる。
極小の要素から成る極大の宇宙、ひとり咲く花に進化のすべての過程が読み取れるのである。
詩と科学の畏れと敬意の念は、解釈の仕方が違うだけで、同じものなのだ。
違う部分としては、神秘主義は畏れに身を委ねるだけでよしとし、科学者は同じ畏れを感じるが、そこで立ち止まることを潔しとしない。
科学は”決して飽くことがない”という意味で楽しく、聡明な精神をとらえて生涯放さない力を持つ。
ニュートンが虹を科学的に説明したことによって、その詩性を解体してしまったのだろうか。
本当はまったく正反対である、ということを主張するのが本書の目的の一つである。
科学は仮説に対する反証によって進歩する。自らの非を公に認めることに関して言えば、科学者ほど素直にこれを行ない、また科学者同士でもそれを評価する人種もないだろう。
何を知らないか知ることこそが、科学の本質なのである。
しかし、音楽を奏でるためにあくせくと運指練習に励むのではなく、音楽の聴き方のほうを学ぶように、科学をとらえることができないだろうか。



3. 星の世界のバーコード

ニュートンが虹を解体し、それがマクスウェルの電磁気論に発展し、アインシュタイン特殊相対性理論へと繋がっていった。
「私たちが経験できるもっとも美しいものは不可思議さである。それは真の芸術と科学すべての源である」と、アインシュタインは言った。
ニュートンは、暗室の中で人工的に虹をつくり出した。
シャッターに開けた小さな穴から太陽光が入り、プリズムを通る。
白色光はさまざまな波長の光が混ぜ合わされた混合物であり、いわば不協和音を視覚化したものである。
屈折は空気中からガラスや水に光が移行するとき、速度が落ちることによっておきる。
物理学者が「最小運動の法則」と呼ぶ原理が、少なくとも共感できる。
それは、光はすべて、あたかも経済性を求めているかのようにふるまい、その運動量を最小限に抑えようとしている、というものである。
海辺の救命救助員が、できるだけ速く子供のところへ到達するというたとえがある。
泳ぐ速度と走る速度が、水と空気中での光の屈折率である。
青い光は赤い光よりも遅い泳ぎ手だとみなせる。青い光は短い波長のためにガラスや水の原子という水草に足を取られているのである。
水草のない真空中では、どの色の光も同じ速度を持つ。
フラウンホーファー線は、指紋あるいはバーコードといったようなもので、光が通過する物質の化学的性質によって左右される。
現在の分光器では約一万の線をみわけることができる。
今日では、これによって、星が何からできているかは、非常に細かいところまで判明している。
ニュートンが虹を解体したことから、一九世紀の一大発見への道が開かれた。
可視光線とは、その波長が1メートルの1000万分の4(紫色)から1メートルの1000万分の7(深紅)の範囲のものをいう。
私たちが光と呼ぶ幅の波長には、何も特別な意味はない。ただ、私たちにはそれが見えるというだけのことだ。
われわれが実際に知覚する色、つまり赤いとか青いといった知覚は主観的なものであり、脳がそれぞれ異なった波長の光に結びつけている恣意的なラベルである。
優れた色彩能力を持つ鳥類とは違い、多くの哺乳類は本当の色彩を見ることができない。
波長のドップラー効果がある。
星雲がわれわれから高速で遠ざかっているという事実はこれによって初めて発見された。
遠くの星雲から来る光が赤方に偏っていたのだ。われわれははるか前の過去をみているのである。
脳は、アフリカのサバンナにおけるゆっくりとした大きな対象を扱うようにデザインされている。
過去にない出来事はわれわれの貧弱な理性を脅かす。おそらくわれわれは詩を通してのみ、そのような出来事に対峙することができるのだ。
一億光年離れた世界に住人たちがいて、もし地球上のあらゆることを見ることができるとしたら、バラ色に染まった平原を縦横に突進している恐竜をこの瞬間見ているかもしれない。
恒星のわずかな揺らぎのドップラー効果によって、惑星の存在も確認することができるようになった。
本当に詩的な感性をもつ人間で、この宇宙への思いに同意できないものがいるとは想像もできない。
星の構造から宇宙の膨張まですべてが詩的な美をもっている。



4. 空気の中のバーコード

空気を伝わる波といえば、音である。
音は空気や水のような物質的な媒体を通してのみ伝わる。
音波とは媒体の濃縮化と希薄化(押しと引き)によって生じる波である。
大気中ではその波は、局所的な気圧の上下変化という形で表れる。
音波とは局所的な圧力変化が引き起こす振動によって生じる波なのである。
大規模にこれが起これば、風が生じる。すなわち、風とは気圧の高い場所から低い場所への空気の流れである。
音の周波数というのは、気圧計の針が振動する速さのことである。
脊椎動物の耳は針がとても速く動く気圧計であるといってよい。
対照的に、昆虫の耳は気圧計ではなく、いうなれば一種の小さい風向計である。
周期的にあちこち動きまわる分子によって、文字通り毛が前後に風になびくのである。
どんなに間抜けな昆虫でも、風向計によって風の方角を見分けることができる。
だが気圧計はそうではない。
われわれは左右の耳からの情報を比較することによって音の方向を割り出さなければならない。
音波は波長のスペクトルであり、それはあたかも虹のようなものだ。
ちょうどわれわれの色に対する感覚というのが、脳が波長の異なった光に対して貼り付けたラベルであるように、音では音高の差異がラベルである。
グラスハーモニカの音が正弦波である。
われわれの脳は複雑に絡みあった音をいとも簡単に解きほぐしてしまうが、これはすごいことである。
一つのトランペットの音は、実際倍音がいくつも重なったものであり、この重なり具合を、トランペットを表す一種の”記号”のようなものとしてみなすことも可能だ。
一見、単一の音と思える音でも、実際は脳の中で再構築されたもの、すなわちいくつかの正弦波が混ざったものなのだ。それは分解して何種類かの音叉にしてみる実験も可能である。
クラリネットやバイオリンなども、独自のバーコードを持っている。
われわれが無意識におこなっているすごいことがある。
フルオーケストラのコンサート中の、ささやき声、ドアのしまる音、座席の音、それとオーケストラの音を聞き分けているのだ。
これは、それらすべての音が同時に鼓膜を振動させ、非常に複雑にうねった単一の圧力変化の波にまとめられているにもかかわらず、である。
人間の感情を分析しそれを説明しようとする行為は、決してそれをおとしめることにはならない。虹をプリズムが解体したことによって、虹の詩性をそこなったことにはならないのと同じ謂で。
混合された光はスペクトル分けられ、そこには美がある。
すなわち、検出することの美、秩序と理解を持ち込むことの美だ。
無駄のない美しさ、メッセージがある。



5. 法の世界のバーコード

科学を理解することが、良き市民として不可欠なものとなりつつあるという感覚を検討したい。
DNA鑑定がある。
それは”血液の中のバーコード”である。
私たちは、目で見たことが本当に一番信頼できるような環境の中で長年にわたり進化してきたのであり、その過程でこの信念は人間に組み込まれたものだろう。
それが間違った記憶していたとしてもだ。
DNAでの情報は徹底的かつ根本的にデジタル信号によっている。
ゲノムの一部分に存在する「繰り返し配列」の繰り返しの数は、人によって異なる。
それを測る作業はいわば、”プリズムで分光分析を行うようなもの”である。
それは、まさにバーコードのようなものである。
一般に、科学はその強力さゆえに、一部のひとを恐れさせる。
DNAでの指紋鑑定法も、そういった種類の力である。その強力さを必要以上に強調したり、新しいことを実行するのを急ぎすぎたりして、そういった不安を悪化させないことが重要だ。



6. 夢のような空想に ひたすら心を奪われ

『軽々しくものを信ずるというのは大人には弱点であるが、子供には強みである。』──チャールズ・ラム『エリア随筆』
われわれは不思議なもの(ワンダー)に飢えている。この詩的な欲求は、本物の科学によって満たされるべきものだ。
この章では、迷信とだまされやすさを検討する。
占星術はどうだろうか。
水瓶座というのは、ここからの距離がすべて異なる、さまざまな星の集まりである。
しかも、星座の形は束の間のものだ。
誕生星を見ている時、望遠鏡はタイムマシーンになる。自分の生まれた年に実際に起こっている核熱反応を目撃させてくれるのだ。
宇宙全体の中で、物質として存在するものは、32キロの奥行きと幅と高さをもった空っぽの部屋に置かれた、一粒の砂ほどでしかない。
しかもその砂粒は粉々に打ち砕かれて10の15乗もの数の破片になっている。
これは目が覚めるようであり、美しいとすら感じられる。
これに比べて、占星術は美に対する侮辱である。
では、人々の語る話しをさまざまなレベルから取りあげてみて、そうした話に対してどれだけ懐疑的になればいいか、よく検討しよう。
魔法のような話に直面した時にまず考えてみることができるのは、情報提供者に嘘をつくだけの動機があるか、ということである。
ヒュームはこう言う。
「いかなる証言も、その証言が確率しようと努める事実以上に、その証言の虚偽性のほうが一層奇蹟的であるような性質でないかぎり、奇跡を樹立するのに十分ではない。」
子どもは何でも信じるものだ。
生存のために何でも信じる傾向は、副作用とセットになっている。
それは人生の「幼虫」期の役割をまっとうするためだと言える。
幼虫のやるべきことはできるだけ速く食べて、さなぎになることだ。そしてさなぎから大人になり、飛びまわって、生殖を行ない、卵をあちこちに生みつけることである。
人間の子どもは、知識を食べる幼虫である。
念のために言うが、幼虫のアナロジーはけっして進めすぎてはいけない。子どもはだんだんと大人になっていくのであり、幼虫が蝶に変態するように突然変わることはないのだ。
信頼の基づいて何でも信じ込むのは子どもの正常で健康的な性質だが、大人になるとそれが不健全で良くないだまされやすさになる可能性がある、ということだ。
「にせ科学をすみずみまでよく見てみるといい。触っていると安心できる毛布や、しゃぶってもいい親指、しがみつけるスカートなどがそこに隠れている」とアイザック・アシモフは言う。
われわれはあえて子どもの頃の何でも信じる傾向を捨て、科学に基づいた建設的な懐疑をそこに持ってこなければならないのだ。
「どんな話でも、最初に聞いたものは、信じなさい」とか、「他の大人たちよりも父親を信じなさい、父親よりも母親を信じなさい」といいたようなシンプルな例外の法則が備わっているようにも思える。
つまりいったん身についた信念には、頑固にしがみつくのだ。



7. 神秘の解体

単なる偶然は日常でも起こる。
その偶然はそれ以上のことを考える理由はない。
世界中の人口は一万人に比べてはるかに多く、誰かが、まさにこの瞬間、少なくとも私の体験と同じくらい驚くべき偶然の一致を経験しているはずである。
ここで専門用語を作りたい。
ペトワック(PETWHAC)は”本来偶然にすぎないのに、なにか関係があるように見える事象の集合(Population of Events That Would Have Appeared Coincidental)”の略である。
積載人数の多いボーイング747では、隣どおしのうち少なくとも一組が誕生日を同じくする確率は、50%を越える。
ある部屋に複数の人間がいてその中に同じ誕生日の二人が存在する確率を50%以上にするためには、たった23人が部屋にいればよい。
ことさら偶然の一致を探そうとする人の手にかかれば、ペトワックの総数はおよそ倍になる。
世界中のどこかの一読者や誰やらに起こった驚くべき偶然の一致を新聞で呼んだとしても、驚くべき理由などないのだ。
確率の考えかたは難しい舵取りに大いに役立つ。
一見するとパターンに見えるものの中で、どれが本物であり、どれがでたらめで無意味であるかを見分けるにはどうしたらよいのだろうか。
統計学と実験計画に基づく方法を選ぶことである。
すべての動物は、程度の差こそあれ、直感的な統計学者のように行動し、偽陽性の誤謬と偽陰性の誤謬のあいだを選びとっているのだ。
「釣り針に突き刺されているミミズより、釣り針のついていないミミズのほうが多いのだ。だから、すべてを考え合わせて、あらゆるミミズに食いつき、運に任せてみよ、と自然は魚の子どもたちに言った。」
私たちの特別なところは、計算を二回にわたって行えるという点である。
一回目は直感的に、そしてもう一度、紙と鉛筆、あるいはコンピューターを使って明確に行う。
そこには「正しい」答えというものは存在しない。
p値の設定によって、つまり私たちがどれだけ危険を厭うかによって、決定するのである。
私たちの祖先が日頃会って話していいたであろう友人や知人は、せいぜい2、30人に満たなかった。
驚くべき偶然の一致に関する話を聞くのは、集団の人口から考えてきわめて稀であったと推測できる。
ものすごい驚きをおぼえ、そこにパターンを見出そうとするように、人間の脳が調整されていたのだ。
その小集落での設定値のままで、私たちは現代社会に生きている。
直感的な統計学を司る脳の部位は、今なお石器時代のままなのだ。



8. ロマンに満ちた巨大な空虚

科学も、それが極まったとき、詩的なものの入り込む余地がある。
詩的なアナロジーを使って、ロマンある巨大な空虚を仕立てあげる”偽りの詩”は、宗教的慣習の中にもたくさん潜んでいる。
世界中のどんな儀式でも、それは何かのアナロジーなのだ。
科学においても、象徴主義に毒され、意味のない類似点に酔わされる危険性は確かにある。
神秘主義者たちがよく「エネルギー」や「波動」といった言葉を好んで用いるのは、まったく内容のないところに科学的な裏付けがあるかのように錯覚させるために悪用しているのである。
進化論に関しても、偽りの詩は多い。
グールドの例に見ることができるように、優れた詩人が知らずに及ぼしうる、誤りを呼ぶ力というものがある。
特に本人自身が自分の詩に酔って誤りへと導かれてしまうこともある。
優れた文章表現力は、両刃の剣である。



9. 利己的な協力者
 
二項対立の単純な図式は、自然界には存在しない。それは幻想である。
動物は手本となるためにいるのではない。生き延び、子孫を残すためにいるのである。
私は『利己的な遺伝子』の中で、ボートレースのアナロジーを使った。
自然淘汰を受ける本当の単位は、それがどれくらいよく現れるか、ということを言えるものでなければならない。
あるタイプのものが成功していれば多く現れるし、失敗すれば現れなくなるということだ。
個体について言うと、どのバッファローも一頭限りで、二度と現れない。
植物をすりつぶす平たい歯、噛み殺すための強いあごと鋭い牙、どちらかが明らかに優れている、ということはない。
長い目で見れば、森林はまるでひとつの調和した統一体のようになるかもしれない。
だが、これは怠惰な、悪質な詩的科学だ。
これよりもずっと真実に近い見方を、詩的は詩的でも、良質な詩的科学が与えてくれる。
良質な詩的科学から見れば、森林は利己的な遺伝子たちのアナーキー連盟である。
動植物の個体それぞれが、共同体なのである。
普遍的な共生、「共に生きる」、という考えが遺伝子の最終的な結論なのだ。
科学における悪質な詩は多い。
だが科学は詩的だ、詩的であるべきだ。
科学は詩から多くを学び、自らのインスピレーションに満ちた営みの中に、良質な詩のイメージやメタファーをしっかりと取り入れなければならない。



10. 遺伝子版死者の書

ある一種の遺伝子がみな先祖の同じ「経験」を共有しているのだろうか。
大部分の遺伝子はそうだろう。
しかし、ある一群の遺伝子は異なる経験を持つ。たとえば、性を決定する遺伝子である。Y染色体は雌だけにある。
X染色体遺伝子は、雌雄両方の経験をしているのだが、全経験のうち3分の2は雌の経験である。
これは鳥類では逆転している。
ある遺伝子が自分を乗せてきた個体の歴史を振り返るとき、それらの個体はすべて成功したものの連続ということになる。
一つの種というのはいわば、経験を蓄積する一つのコンピューターである。
それはその種の世界の世界の統計学的記録からなる。
動物の身体を「読み」、その祖先がどのような環境で暮らしていたのか言い当てることができる。
その動物の歯や腸を読み取ることで、何を食べていたのかについて述べることができる。
どんな動物でも自分自身の世界、自分たちの祖先の遺伝子が自然淘汰されてきた世界のモデルであり、記録であると言うことができる。
托卵する性質を持っているカッコウは、「遺伝子版死者の書」の視点からいって奇妙にして魅力的である。
アリ、シロアリ、そしてその他の社会性を持った昆虫種は、別の意味で奇妙である。
それらは養育条件が異なると、違う種類の遺伝子のスイッチが入るしくみになっている。
いわば小人になることも巨人になることもできるのだ。
あらゆる種は、その生活様式を過去、いろいろな形で変化させてきた。
遺伝子の記録では、生活環境で頻繁におこったこと、もしくは大きな影響があったことが、より強調され、あるいは「重みをつけて」記載され、稀なこと、些細なことは軽視される。
すべての陸上生物にとって、遠い昔の海における徒弟時代の記憶が、血液の生化学的組成に反映されているという詩的な示唆がある。
DNAのとは、自分たちの祖先たちが生き抜いてきた世界についての暗号化された記述なのだ。



11. 世界の再構成

『五感を前提として作られている脳というものは、しきりに五感で感じたがるのです。世界をひとつのまとまりとして認識するためには、それに色がついている必要があるのです。私に実際の色が見えるかどうかということにかかわりなく、そうなのです。』──ヘレン・ケラー『私の生涯』
種の遺伝子プールが、その祖先たちが行きた世界の記録のようなものであるとするならば、個体の脳とは、その個体から見た世界の記録が納まった容れものである。
過去の出来事の記録という点でこの2つは共通する。
だが、時間的尺度と、その”私的な”度合いにおいては別物である。
遺伝子は、その種全体が共有する相対的な記録であり、脳はその個体固有のものである。
人間は目覚めているとき、たえまなく物体を見てそれを認知しており、その際には、、実は、恐ろしいくらい巧妙なことが行われている。
感覚情報の大きな冗長性を、神経系はうまく利用しているのではないか、といわれている。
脳は変化だけを知らされ、残りの部分は自分で適当に補うようにできているのである。
すなわち、脳は、神経を通して耳から運ばれてくる情報を用いて、ヴァーチャルな音を組み立てているのだ。
種の遺伝子は、祖先たちが生き抜いてきた世界についての統計的な記録を保持している。
未来の生物学者は、未知生物の神経系を調べることで、その生物が住んでいた世界の統計的な傾向を知ることができるだろう。
あなたと私を含めたすべての人間、哺乳類、動物は、神経系の比較的高次のレベルにおいて、現実の世界をかたどって組み立てられたヴァーチャルの世界に住んでいる。
もちろん、私たちは、自分たちが確固とした現実世界に存在しているかのように感じているが、それは私たちが、現実を比較的精密にかたどってつくられたヴァーチャル世界に置かれているからだ。
そのソフトウェアがうまくはたらかない場合に、われわれは錯覚や幻覚を体験するのだ。
「ネッカー・キューブ」に対する錯視がある。
私たちは、シミュレーションの世界に住むことに、慣れきってしまっている。そしてその世界は、現実の世界とみごとに同調している。
だから、私たちは、自分たちがシミュレーションの世界にいることに気づかない。
脳そのものや、脳のヴァーチャル・リアリティ・ソフトウェアは、究極的には、先祖代々、遺伝子が自然淘汰されてきたという流れのなかで、産み出されてきたものなのだ。
環境の細かな変化にしっかり対応するため、遺伝子は動物たちに神経系というハードウェアと、ヴァーチャル・リアリティ・ソフトウェアを与えた。
遺伝子は、世代を超えて変わらないような、環境についてのおおまかなモデルをつくり、細かくてすばやい変化は脳に任せた。
現代のような複雑で変わりやすい環境の中で生き延びていくには、そのヴァーチャル・リアリティを共有するという作戦をとることによって、もっともむだが少なくなる。



12. 脳のなかの風船

『脳は、わずか1キログラムという、手で支えられる程度の塊でありなgら、はるか1000億光年の大宇宙の果てを、想像の中でつくりだすことができる。』──マリアン・C・ダイヤモンド
私が思うに、人間の脳の進化を考えるとき、われわれは何か爆発的なものを必要とする。
ある独創的なソフトウェアが”爆発的”に登場するためには、世界に解き放たれることを待ちわびながら閉じ込められていなければならなかった。
それが待っていたのは、重大な一つのハードウェア、つまりマウスの到来であった。
ソフトウェア/ハードウェアの螺旋上昇(スパイラル)は続き、その最新の産物がインターネットである。
人間の脳の場合、それにあたる最も明確な一例がある。
言語である。
言語の潜在的に無限な拡張性は、単純な構文法の発明によって突然可能となった。
ソフトウェアの革新は他にもあるだろう。
狩猟生活をするにおいて、指令をするための地図があれば効率化できる。
最初は棒で地面に描いた線だったのかもしれない。
あらゆる表象芸術は、何かが他の何かに変わってそれを表現しうることに気づいたとき可能となり、思考やコミュニケーションを支えることになった。
第三のソフトウェア革新について示唆があった。
投擲行為は、先見的思考そのものの先駆形態ではなかったか、ということだ。
私が挙げる第四の候補は「ミーム」である。
遺伝子の場合と同様に、世界は脳から脳へと複製されてゆく術に長けたミームに満ちていくだろう。
「足跡の地図」と同様、アナロジーがわかる力、他のものを想起させる象徴的な類似性によって意味を表す力こそ、人類の脳の進化を、閾値を越え共進化的上昇へと前進させるのに欠くことのできないソフトウェアの進歩であったのではないか、と私は思っている。
われわれ人類は動物種の中で唯一、ある事物が他の事物と類似していることに気づき、その関係を自らの思考や感覚の支点として用いる、比喩という詩人の才能を有しているのである。
これはヴァーチャル・リアリティへの進歩であったのであろう。
われわれは自分の頭の中で働いているヴァーチャル・リアリティ・ソフトウェアを、ただ単に実利的な現実だけをシミュレートせよという縛めから解き放ってやることができる。
人間だけがその生前に起きたことについて知り、その死後に起きることを予見して、自己の行動を導ける。
スポットライトは通り過ぎていく。
われわれは、自分を見出すことができ、何かを理解することができ、終わりを予想することができる唯一の存在である。
そしてまた、こう言うことのできる唯一の存在である。
自分が生まれてきた価値があった、と。
キーツやニュートンのような人物は、お互いに耳を傾けあいながら、銀河が歌うのを聞いたのかもしれない。







【60分で理解する】

 序文.

救いがない、無味乾燥だ、冷たい、といった非難は、しばしば科学に対して投げつけられる言葉である。
科学にはサッカリンのもつ偽の甘味を一掃する言葉がある。それはあえて選ばれた言葉だ。
本書では積極的な反論を試みた。
私は科学における好奇心(センス・オブ・ワンダー)を喚起したいのだ。
科学がもたらす自然への畏敬の気持ちは、人間が獲得しうる至福の経験のひとつである。
それは美的な情熱の一形態であり、音楽や詩に比肩しうるものである。
本書の主眼は、よき詩を旨とする科学を唱導しようとするものである。
”詩的な畏敬の念(センス・オブ・ワンダー)を霊感源とする科学”という意味で。



1. 日常性に埋没した感性

『この世に生きているということは結局、それだけで十分な奇跡なのだ。』──マーヴィン・ピーク『ガラス吹き工』
私たちはやがていつか死ぬ。
私たちは運がいいのだ。なぜなら大半の生命は、生まれてくることもなく、したがって死ぬこともできなかったからだ。
それらはアラビア海の浜の砂つぶよりも多い。
私たちのDNAが作り出すことのできる生命の数は、実際の人間の数よりも遥かに多い。
受精の瞬間を経て、人間の意識の実在性が確固なものとなる。
天文学的な可能性の中から、ただ一つの個体の発生が決定される瞬間である。
ちょうど現在とは小さいスポットライトのごときもので、時間という非常に長い定規の上を一ミリずつ刻々と移動していると感じる。
たまたまあなたが現在に居合わせる確率は、ちょうど一枚の硬化を投げて、それが落下した場所に、たまたまニューヨークからサンフランシスコに旅する一匹のアリが居合わせる確率くらい小さい。
スポットライトが通りすぎてしまった場所にいた人々、そしてスポットライトが通るであろう場所にいる人々、いずれも本書を読むことはできなかった。
私たちは自らの生存にとって完璧な環境を有した惑星の上にある。
無作為に選び出した惑星がそのような環境をもっている確率は、100万分の1よりも小さい。
個体レベルの存在を考えるとき、私たち個々の生命は驚くべき幸運にめぐまれたといってよい。
私たちは自らの生を認識し、その意味を理解することができる機会が与えられているのだ。
これが科学の役割だ。
科学は未来に対して大きな可能性を秘めているが、それは”有用性”だけではない。
この世に生を受けたことに驚くこともなく死ぬのはあまりにも悲しくはなかろうか。
知性をもって生まれてきた以上、目をさまし、世界を発見し、自分がこの世の一部であることを確かめることをせずして何だというのか。
身近さや日常は感覚を鈍らせ、私たちの存在に対する畏敬の念を見えなくする。
今まさにこの世界にまろびでた時の感覚を呼び覚ます方法がある。この世界をいつもとは違う角度から見ればよいのだ。
イカは皮膚そのもので思考しているのかもしれない。そこには”異星人”がいる。
ヒトの身体はおよそ100兆個もの細胞からなり、膜の総面積は200エーカーにもなる。たいした大農園だ。
私たちの個体が国ならば、細胞は州であり、細菌は町である。私たちは最近の巨大な集合体なのである。
私たちを目覚めさせるものとしては、時代をさがのぼる旅も想定できる。
三葉虫の昔を計るタイムスケールで考えれば、古代詩の世界などわずか昨日にすぎない。
一年間の出来事を一枚の紙に書いたとする。
10センチメートルの厚みは一千年紀に相当する。現在に近い部分から地面に置く。
イエス・キリストについて記されているのは、ちょうどくるぶしの少し上あたりだ。
アガメムノンの名は、ちょうど向こうずねのあたりの冊子だ。
火はホモ・エレクトスによって発見されたとされるが、それは50万年前のことで、冊子は自由の女神像よりも高い位置までよじ登らなければならない。
アウストラロピテクスのページはシカゴの超高層ビルよりも高い。
ヒトとチンパンジーの共通の祖先は、この高さの倍にある。
三葉虫は冊子の塔のどこだろうか。
その高さは58キロメートルである。
エヴェレストの頂上ですら約9キロメートルである。
マンハッタン島のはしからはしまでの長さの三倍の幅の本棚が、ぎっしり埋め尽くされれる。
すべての祖先にあたる最古の生命が記述される第一巻は、ここをロンドンとすればスコットランドとの境界あたりとなる。
生命の歴史は約40億年。冊子にすれば、ローマからヴェネチアの距離である。
別のたとえを使おう。
両腕を広げる。
左手から中点を越えて右肩のあたりまで、バクテリア以上の生命形態は存在していなかった。
多細胞の無脊椎動物は右肘のあたり、恐竜がは右手の手のあたり、絶滅したのが指のつけねのあたりだ。
ホモ・エレクトスからホモ・サピエンスの時代はほんの爪の先。
爪切りでパチンと切りとれる範囲でしかない。
シュメール人の時代といった記録に残っている歴史は、すべて爪の先をやすりでひとおすりしただけで消し飛んでしまうのである。
化石が見つかったとしたら、それは非常なる幸運にめぐまれたごく一部の生物が化石化しているに過ぎない。
もし私が化石化されたなら、それはとても栄誉なことなのである。



2. 客間にさまよいいった場違いな人間

日常に埋没した感性を解き放つのが、詩人の得意とするところである。
多くの詩人が長い間見すごしてきたインスピレーションの泉がある。
科学がもたらすインスピレーションである。
科学者は私たちの大宇宙に対する見方を変革してくれる。
キーツの言葉を借りるなら「銀河にむかって真直に飛んで」いける。
極小の要素から成る極大の宇宙、ひとり咲く花に進化のすべての過程が読み取れるのである。
詩と科学の畏れと敬意の念は、解釈の仕方が違うだけで、同じものなのだ。
違う部分としては、神秘主義は畏れに身を委ねるだけでよしとし、科学者は同じ畏れを感じるが、そこで立ち止まることを潔しとしない。
真の科学とは、人の背中を興奮でぞくぞくさせる力を有しているのだ。
本当の科学は必然的に難しいものであり、それゆえにチャレンジングなものとなりうる。
それでこそ、古典文学やバイオリンの演奏と同様に修錬のしがいがあるのだ。
科学は”決して飽くことがない”という意味で楽しく、聡明な精神をとらえて生涯放さない力を持つ。
私は詩人という言い方よって、すべての芸術家を指している。
ミケランジェロ神経細胞の構造を知っていたらどんな風に描いただろうか。ベートーヴェンが『進化交響曲』を作ったとしたらどうだろう。ハイドンの『膨張する宇宙』、ミルトンの叙情詩『銀河系』。
アイルランドの神秘詩人、ウィリアム・バトラー・イェイツ
墓碑銘にはこうある。「冷徹な目を向けよ。死に対して、生に対して。御者よ、さあ進め」
これは科学者に向けた言葉なのだろうか、今、私はそんなふうにも考える。
ニュートンが虹を科学的に説明したことによって、その詩性を解体してしまったのだろうか。
本当はまったく正反対である、ということを主張するのが本書の目的の一つである。
科学の衣装をまとった好奇心がもし詩人の中に生まれていたなら、さらに偉大な詩が生まれていただろう。
科学は謎を認めるが、魔法は認めない。
ジャワハル・ネルーはこう言った。
「科学のみが飢餓と貧困の問題を解決しうる。」
科学は仮説に対する反証によって進歩する。自らの非を公に認めることに関して言えば、科学者ほど素直にこれを行ない、また科学者同士でもそれを評価する人種もないだろう。
何を知らないか知ることこそが、科学の本質なのである。
科学は難しいと思われている。
しかし、音楽を奏でるためにあくせくと運指練習に励むのではなく、音楽の聴き方のほうを学ぶように、科学をとらえることができないだろうか。



3. 星の世界のバーコード

理論物理学者リチャード・ファインマンは、ある友人から科学者は花を研究対象とすることによってその美しさを損なっていると非難された。
ファインマンはこう言った。
「あなたに見えている美しさは私にも見えている。しかし他の人にとっては容易には得られないより深い美しさを、さらに私は見ているのである。私は複雑な花の相互の作用を見ることができる・・・よりその魅力を引き立たせるばかりだ・・・」。
ニュートンが虹を解体し、それがマクスウェルの電磁気論に発展し、アインシュタイン特殊相対性理論へと繋がっていった。
もし虹に詩的な不思議を感じるなら、相対性理論にも感性を向けてみるべきである。
「私たちが経験できるもっとも美しいものは不可思議さである。それは真の芸術と科学すべての源である」と、アインシュタインは言った。
ニュートンは、暗室の中で人工的に虹をつくり出した。
シャッターに開けた小さな穴から太陽光が入り、プリズムを通る。
白色光がさまざまな色の複合体であることをプリズムを使って示したのは彼が最初だった。
スペクトルを最も簡単に理解するには、光の波動説を用いるのがよい。
波に対して重要なことは、出発点から到着点まで、実際に移動しているものは存在しないことだ。
白色光はさまざまな波長の光が混ぜ合わされた混合物であり、いわば不協和音を視覚化したものである。
屈折は空気中からガラスや水に光が移行するとき、速度が落ちることによっておきる。
物理学者が「最小運動の法則」と呼ぶ原理が、少なくとも共感できる。
それは、光はすべて、あたかも経済性を求めているかのようにふるまい、その運動量を最小限に抑えようとしている、というものである。
海辺の救命救助員が、できるだけ速く子供のところへ到達するというたとえがある。
泳ぐ速度と走る速度が、水と空気中での光の屈折率である。
青い光は赤い光よりも遅い泳ぎ手だとみなせる。青い光は短い波長のためにガラスや水の原子という水草に足を取られているのである。
水草のない真空中では、どの色の光も同じ速度を持つ。
虹が非常に大きく見える理由の一つは、距離による錯覚である。
同じ効果は、明るい電球を凝視してから空を見つめても得られる。電球の残像はことのほか巨大に見えるはずだ。
フラウンホーファー線は、指紋あるいはバーコードといったようなもので、光が通過する物質の化学的性質によって左右される。
現在の分光器では約一万の線をみわけることができる。
今日では、これによって、星が何からできているかは、非常に細かいところまで判明している。
ニュートンが虹を解体したことから、一九世紀の一大発見への道が開かれた。
可視光線とは、その波長が1メートルの1000万分の4(紫色)から1メートルの1000万分の7(深紅)の範囲のものをいう。
私たちが光と呼ぶ幅の波長には、何も特別な意味はない。ただ、私たちにはそれが見えるというだけのことだ。
われわれが実際に知覚する色、つまり赤いとか青いといった知覚は主観的なものであり、脳がそれぞれ異なった波長の光に結びつけている恣意的なラベルである。
”長い波長の”光を赤く感じる根拠はなにもない。
紫色が赤に近い色として認識される理由はスペクトル上の物理的理由ではなく、神経機構に関係しているのだ。
神経を流れる信号は、火薬の列が音をたてて走るように、細長い管にそって走り抜けていく。
強い刺激と弱い刺激の違いは、信号の発射頻度の違いとして表される。
優れた色彩能力を持つ鳥類とは違い、多くの哺乳類は本当の色彩を見ることができない。
心理学者ジョン・モロンによれば、三色の色体系は「自らを繁殖させるためにある果樹が作り出した装置」である。
磁気共鳴イメージング(MRI)も虹の解体によって生み出された。
波長のドップラー効果がある。
星雲がわれわれから高速で遠ざかっているという事実はこれによって初めて発見された。
遠くの星雲から来る光が赤方に偏っていたのだ。われわれははるか前の過去をみているのである。
脳は、アフリカのサバンナにおけるゆっくりとした大きな対象を扱うようにデザインされている。
過去にない出来事はわれわれの貧弱な理性を脅かす。おそらくわれわれは詩を通してのみ、そのような出来事に対峙することができるのだ。
一億光年離れた世界に住人たちがいて、もし地球上のあらゆることを見ることができるとしたら、バラ色に染まった平原を縦横に突進している恐竜をこの瞬間見ているかもしれない。
恒星のわずかな揺らぎのドップラー効果によって、惑星の存在も確認することができるようになった。
本当に詩的な感性をもつ人間で、この宇宙への思いに同意できないものがいるとは想像もできない。
星の構造から宇宙の膨張まですべてが詩的な美をもっている。



4. 空気の中のバーコード

空気を伝わる波といえば、音である。
音は空気や水のような物質的な媒体を通してのみ伝わる。
音波とは媒体の濃縮化と希薄化(押しと引き)によって生じる波である。
大気中ではその波は、局所的な気圧の上下変化という形で表れる。
音波とは局所的な圧力変化が引き起こす振動によって生じる波なのである。
大規模にこれが起これば、風が生じる。すなわち、風とは気圧の高い場所から低い場所への空気の流れである。
音の周波数というのは、気圧計の針が振動する速さのことである。
脊椎動物の耳は針がとても速く動く気圧計であるといってよい。
対照的に、昆虫の耳は気圧計ではなく、いうなれば一種の小さい風向計である。
周期的にあちこち動きまわる分子によって、文字通り毛が前後に風になびくのである。
どんなに間抜けな昆虫でも、風向計によって風の方角を見分けることができる。
だが気圧計はそうではない。
われわれは左右の耳からの情報を比較することによって音の方向を割り出さなければならない。
音波は波長のスペクトルであり、それはあたかも虹のようなものだ。
ちょうどわれわれの色に対する感覚というのが、脳が波長の異なった光に対して貼り付けたラベルであるように、音では音高の差異がラベルである。
グラスハーモニカの音が正弦波である。
われわれの脳は複雑に絡みあった音をいとも簡単に解きほぐしてしまうが、これはすごいことである。
一つのトランペットの音は、実際倍音がいくつも重なったものであり、この重なり具合を、トランペットを表す一種の”記号”のようなものとしてみなすことも可能だ。
一見、単一の音と思える音でも、実際は脳の中で再構築されたもの、すなわちいくつかの正弦波が混ざったものなのだ。それは分解して何種類かの音叉にしてみる実験も可能である。
クラリネットやバイオリンなども、独自のバーコードを持っている。
われわれが無意識におこなっているすごいことがある。
フルオーケストラのコンサート中の、ささやき声、ドアのしまる音、座席の音、それとオーケストラの音を聞き分けているのだ。
これは、それらすべての音が同時に鼓膜を振動させ、非常に複雑にうねった単一の圧力変化の波にまとめられているにもかかわらず、である。
数学的な技術によって、うねっている波形を正弦波に分解することをフーリエ解析という。
象のペニスのゆっくりした振動数の揺れという周波数から、その長さを測定することもできる。
もし、とても長い周期で規則的にサイクルをなしているものを見つけたとしたら、それはおそらく天文学的な事象にもとを発している可能性がある。
月の28日間という周期は多くの生物、特に海の生物の身体的機能に作用する周期の顕著な成分となっている。
2600万年周期の大規模絶滅もある。
人間の声帯というのは、木管楽器のリードのように気道の中でいっしょに振動している。
子音と母音は、オーボエとトランペットのしくみの違いのようなものといえようか。
個々の倍音にもバーコードのような特徴がある。
言語学ではそれを”フォルマント”という。
舌、唇、声を変えるころでほとんど無限に子音や母音を作り出せ、伝えうる内容の範囲は無限に広がっていく。
ナイチンゲールの鳴き声が一種の麻薬として働いているという考えは、まったくのこじつけというわけではない。
鳥類学者の中には鳴き声は情報伝達の手段であると考えている人たちもいる。
鳴き声はメスの脳の生理的状態を変化させるのである。
”麻薬”は皮膚を通るのではなく、メスの耳の穴を通って入ってくるのだ。
ナイチンゲールは哺乳類であり、そして人に効くほとんどの麻薬は他の哺乳類に対しても同様の効果をもっているのである。
人間の感情を分析しそれを説明しようとする行為は、決してそれをおとしめることにはならない。虹をプリズムが解体したことによって、虹の詩性をそこなったことにはならないのと同じ謂で。
混合された光はスペクトル分けられ、そこには美がある。
すなわち、検出することの美、秩序と理解を持ち込むことの美だ。
無駄のない美しさ、メッセージがある。



5. 法の世界のバーコード

科学を理解することが、良き市民として不可欠なものとなりつつあるという感覚を検討したい。
DNA鑑定がある。
それは”血液の中のバーコード”である。
私たちは、目で見たことが本当に一番信頼できるような環境の中で長年にわたり進化してきたのであり、その過程でこの信念は人間に組み込まれたものだろう。
それが間違った記憶していたとしてもだ。
ある種の脳損傷では、他の視覚的機能は損なわれないのに、顔の識別だけができなくなることがある。
それより確実なのはDNAでの識別だ。
DNAでの情報は徹底的かつ根本的にデジタル信号によっている。
ゲノムの一部分に存在する「繰り返し配列」の繰り返しの数は、人によって異なる。
それを測る作業はいわば、”プリズムで分光分析を行うようなもの”である。
それは、まさにバーコードのようなものである。
一般に、科学はその強力さゆえに、一部のひとを恐れさせる。
DNAでの指紋鑑定法も、そういった種類の力である。その強力さを必要以上に強調したり、新しいことを実行するのを急ぎすぎたりして、そういった不安を悪化させないことが重要だ。



6. 夢のような空想に ひたすら心を奪われ

『軽々しくものを信ずるというのは大人には弱点であるが、子供には強みである。』──チャールズ・ラム『エリア随筆』
われわれは不思議なもの(ワンダー)に飢えている。この詩的な欲求は、本物の科学によって満たされるべきものだ。
この章では、迷信とだまされやすさを検討する。
占星術はどうだろうか。
水瓶座というのは、ここからの距離がすべて異なる、さまざまな星の集まりである。
しかも、星座の形は束の間のものだ。
100万年前、われわれの祖先ホモ・エレクトスは夜空を見上げて、今とはまったく違う星座を眺めていた。今から100万年後には、われわれの子孫がさらに異なる形を見上げていることだろう。
アンドロメダ小宇宙を見上げることは、2300万年前の、アウストラロピテクスがアフリカの草原を歩きまわっていた頃を振り返っていることになる。ミラクというアンドロメダ座の星の姿は、ずっと最近の世界恐慌の頃だ。太陽になると、われわれが目撃しているのは、ほんの8分前の様子である。
誕生星を見ている時、望遠鏡はタイムマシーンになる。自分の生まれた年に実際に起こっている核熱反応を目撃させてくれるのだ。
エスの誕生を高らかに告げる声は、理想的な環境においてさえ、宇宙に存在する星々の200兆分の1にしか届かない。
宇宙全体の中で、物質として存在するものは、32キロの奥行きと幅と高さをもった空っぽの部屋に置かれた、一粒の砂ほどでしかない。
しかもその砂粒は粉々に打ち砕かれて10の15乗もの数の破片になっている。
これは目が覚めるようであり、美しいとすら感じられる。
これに比べて、占星術は美に対する侮辱である。
では、人々の語る話しをさまざまなレベルから取りあげてみて、そうした話に対してどれだけ懐疑的になればいいか、よく検討しよう。
「十分に進歩したテクノロジーは、魔法と見分けがつかない」からといって、「魔法について誰がどんな風に語ったものも、進歩した未来のテクノロジーと変わるところはない」ということにはならない。
魔法のような話に直面した時にまず考えてみることができるのは、情報提供者に嘘をつくだけの動機があるか、ということである。
ヒュームはこう言う。
「いかなる証言も、その証言が確率しようと努める事実以上に、その証言の虚偽性のほうが一層奇蹟的であるような性質でないかぎり、奇跡を樹立するのに十分ではない。」
子どもは何でも信じるものだ。
生存のために何でも信じる傾向は、副作用とセットになっている。
それは人生の「幼虫」期の役割をまっとうするためだと言える。
幼虫のやるべきことはできるだけ速く食べて、さなぎになることだ。そしてさなぎから大人になり、飛びまわって、生殖を行ない、卵をあちこちに生みつけることである。
人間の子どもは、知識を食べる幼虫である。
念のために言うが、幼虫のアナロジーはけっして進めすぎてはいけない。子どもはだんだんと大人になっていくのであり、幼虫が蝶に変態するように突然変わることはないのだ。
信頼の基づいて何でも信じ込むのは子どもの正常で健康的な性質だが、大人になるとそれが不健全で良くないだまされやすさになる可能性がある、ということだ。
「にせ科学をすみずみまでよく見てみるといい。触っていると安心できる毛布や、しゃぶってもいい親指、しがみつけるスカートなどがそこに隠れている」とアイザック・アシモフは言う。
われわれはあえて子どもの頃の何でも信じる傾向を捨て、科学に基づいた建設的な懐疑をそこに持ってこなければならないのだ。
「どんな話でも、最初に聞いたものは、信じなさい」とか、「他の大人たちよりも父親を信じなさい、父親よりも母親を信じなさい」といいたようなシンプルな例外の法則が備わっているようにも思える。
つまりいったん身についた信念には、頑固にしがみつくのだ。
ごく初期のだまされやすさに続いて、それに対抗するほどの、信念の揺るがなさ。
「生まれてから七年のあいだ、その子をわれわれにお預けください。一人前の男にしてお返ししましょう」
昔の修道士が言った言葉だ。



7. 神秘の解体

確率の実験。
連続して18回、コインのトスに影響を与えることができたことが、息が詰まるほどの感嘆をよびおこす。
しかしこれは何に対する感嘆なのだろうか。純粋な運以外の何物でもない。
単なる偶然は日常でも起こる。
その偶然はそれ以上のことを考える理由はない。
世界中の人口は一万人に比べてはるかに多く、誰かが、まさにこの瞬間、少なくとも私の体験と同じくらい驚くべき偶然の一致を経験しているはずである。
その瞬間時計が止まったのには理由がある。人間の感傷的な空想をくすぐるためではない。
ここで専門用語を作りたい。
ペトワック(PETWHAC)は”本来偶然にすぎないのに、なにか関係があるように見える事象の集合(Population of Events That Would Have Appeared Coincidental)”の略である。
霊能者の呪文から10秒以内に止まった誰かの腕時計、という現象は明らかにペトワックの範疇に入る。
手の温度が、固まっていた油を溶かし、ほんの束の間秒針を動きはじめさせることもある。
壊れた腕時計のうち50%以上が、手の中に握れば、少なくとも瞬間的には動くのである。
なにか神秘的な感じのする偶然の一致の例で、確率計算の仕方がはっきりしているものを述べる。
かつて付き合っていた人が、その前のガールフレンドと同じ誕生日だった。
これは同じ「星座」に基いて選んだのだろうか。
これは、もし1000万人の男性について考えれば、2万7000人の男性のケースでおこってしまう。
積載人数の多いボーイング747では、隣どおしのうち少なくとも一組が誕生日を同じくする確率は、50%を越える。
ある部屋に複数の人間がいてその中に同じ誕生日の二人が存在する確率を50%以上にするためには、たった23人が部屋にいればよい。
ことさら偶然の一致を探そうとする人の手にかかれば、ペトワックの総数はおよそ倍になる。
気を緩めれば、いくらでもペトワックは大きくなり制御できなくなる。
世界中のどこかの一読者や誰やらに起こった驚くべき偶然の一致を新聞で呼んだとしても、驚くべき理由などないのだ。
確率の考えかたは難しい舵取りに大いに役立つ。
スキナーボックスと呼ばれる巧妙な装置がある。
それをつかえば人間が雨乞いの踊りを踊るように、ハトがダンスをすることがわかる。
「迷信行動」と呼ぶものが表れるのだ。
迷信行動は、いったん身に付くと、報酬のからくりが止まってからも、長時間にわたって保たれるようだった。
そしてその動作は少しずつ変形し、まるでオルガン奏者によって進められていく即興のようだった。
統計学的な直感が、そこにあった。
自然の世界はさまざまなパターンに満ちており、世界は巨大で複雑なスキナーボックスであるといってもいい。
一見するとパターンに見えるものの中で、どれが本物であり、どれがでたらめで無意味であるかを見分けるにはどうしたらよいのだろうか。
統計学と実験計画に基づく方法を選ぶことである。
迷信行動を行ったスキナーの鳩は、偽陽性の誤謬を犯した。
神にいけにえを捧げれば、待ち焦がれていた雨が降ると考える農夫は、偽陽性の誤謬を犯している。
すべての動物は、程度の差こそあれ、直感的な統計学者のように行動し、偽陽性の誤謬と偽陰性の誤謬のあいだを選びとっているのだ。
どの中間値が最適かは種によってまちまちである。
チョウチンアンコウは、ハゼなどの小魚の騙されやすさを利用している。
ウィリアム・ジェームズの釣りについての見解がある。
「釣り針に突き刺されているミミズより、釣り針のついていないミミズのほうが多いのだ。だから、すべてを考え合わせて、あらゆるミミズに食いつき、運に任せてみよ、と自然は魚の子どもたちに言った。」
私たちの特別なところは、計算を二回にわたって行えるという点である。
一回目は直感的に、そしてもう一度、紙と鉛筆、あるいはコンピューターを使って明確に行う。
そこには「正しい」答えというものは存在しない。
p値の設定によって、つまり私たちがどれだけ危険を厭うかによって、決定するのである。
私たちの祖先が日頃会って話していいたであろう友人や知人は、せいぜい2、30人に満たなかった。
驚くべき偶然の一致に関する話を聞くのは、集団の人口から考えてきわめて稀であったと推測できる。
ものすごい驚きをおぼえ、そこにパターンを見出そうとするように、人間の脳が調整されていたのだ。
その小集落での設定値のままで、私たちは現代社会に生きている。
しかも私たち個人の生活は、先祖の生活よりも時間当たりの経験がずっと豊富なのだ。
それらの影響を考慮し、自分の脳をもう一度セットしなおし、驚きの閾値をより妥当なものに適合させることは理論的には可能である。
直感的な統計学を司る脳の部位は、今なお石器時代のままなのだ。



8. ロマンに満ちた巨大な空虚

科学も、それが極まったとき、詩的なものの入り込む余地がある。
詩的なアナロジーを使って、ロマンある巨大な空虚を仕立てあげる”偽りの詩”は、宗教的慣習の中にもたくさん潜んでいる。
世界中のどんな儀式でも、それは何かのアナロジーなのだ。
科学においても、象徴主義に毒され、意味のない類似点に酔わされる危険性は確かにある。
神秘主義者たちがよく「エネルギー」や「波動」といった言葉を好んで用いるのは、まったく内容のないところに科学的な裏付けがあるかのように錯覚させるために悪用しているのである。
進化論に関しても、偽りの詩は多い。
現代の生物学者は、進化という言葉を、動植物が世代を経るごとに実際どのようになるかという変化の結果をともなった、集団内における遺伝子頻度の系統的な変化過程という、かなり入念に定義された意味で用いる。
ネオダーウィニズムにおける自然淘汰は、種内における淘汰のことであり、種間の淘汰ではない。
大量絶滅などに、それ以上の類似性を言おうとすれば、それは純粋なる詩にすぎない。
「門レベルでの飛躍」についても、そうである。
異なった身体の基本設計をした動物が門である。
ヒトデから昆虫に飛び出すような突然変異はつまり、2つの門に属した2個体の親が交尾し、その親とは異なった門に属する子がうまれたということになるのだ。それは喜劇である。
もし可能だったとして、その子孫は生き残ることができなかっただろう。
グールドの例に見ることができるように、優れた詩人が知らずに及ぼしうる、誤りを呼ぶ力というものがある。
特に本人自身が自分の詩に酔って誤りへと導かれてしまうこともある。
優れた文章表現力は、両刃の剣である。



9. 利己的な協力者
 
『人類を、哲学、つまり、自然のさまざまな現象を結合している隠された関連を解明しようとする科学の、研究に駆り立てる第一原理は、その発見から得られる何らかの利益ではなく、驚異である。』──アダム・スミス天文学史』
自然界に道徳の根源を求めるという伝統は、最も忌まわしいたぐいの悪質な詩的科学の中に息づいている。
二項対立の単純な図式は、自然界には存在しない。それは幻想である。
動物をお手本にしようという、寓話じみたその考えこそが、ひとつの悪質な詩的科学なのだ。
動物は手本となるためにいるのではない。生き延び、子孫を残すためにいるのである。
生物の個体レベルでの利他主義が、個体の基礎である遺伝子の利益を最大にする手段となり得る、ということは今や周知のところだ。
私は『利己的な遺伝子』の中で、ボートレースのアナロジーを使った。
自然淘汰を受ける本当の単位は、それがどれくらいよく現れるか、ということを言えるものでなければならない。
あるタイプのものが成功していれば多く現れるし、失敗すれば現れなくなるということだ。
個体について言うと、どのバッファローも一頭限りで、二度と現れない。
遺伝子の協力が崩れるとどうなるのかは、「分離歪曲遺伝子」と呼ばれるものが見せてくれる。
個々の遺伝子にとっては、遺伝子プールの中の遺伝子たちは一種の気候のようなものだ。
植物をすりつぶす平たい歯、噛み殺すための強いあごと鋭い牙、どちらかが明らかに優れている、ということはない。
長い目で見れば、森林はまるでひとつの調和した統一体のようになるかもしれない。
だが、これは怠惰な、悪質な詩的科学だ。
これよりもずっと真実に近い見方を、詩的は詩的でも、良質な詩的科学が与えてくれる。
良質な詩的科学から見れば、森林は利己的な遺伝子たちのアナーキー連盟である。
「ガイア」仮説の誘惑へは正しい対処をしなければならない。
また「戦闘vs協力」という二分法に重きを置くのは間違いである。
寄生者と寄主の関係が親密な協力関係になるのは、DNAが「縦に」伝わる時だ。
ミトコンドリア不思議の国のアリスのチェシャ猫のように、消えてしまったのかもしれない。
それは葉緑体にも言える。
動植物の個体それぞれが、共同体なのである。
普遍的な共生、「共に生きる」、という考えが遺伝子の最終的な結論なのだ。
共適応と共進化は区別される。
共進化は「軍拡競争」にもなる。捕食者の足の速さは獲物の足の速さと共進化する。
だが共適応とは共進化の特別なケースなのである。
科学における悪質な詩は多い。
だが科学は詩的だ、詩的であるべきだ。
科学は詩から多くを学び、自らのインスピレーションに満ちた営みの中に、良質な詩のイメージやメタファーをしっかりと取り入れなければならない。



10. 遺伝子版死者の書

ある一種の遺伝子がみな先祖の同じ「経験」を共有しているのだろうか。
大部分の遺伝子はそうだろう。
しかし、ある一群の遺伝子は異なる経験を持つ。たとえば、性を決定する遺伝子である。Y染色体は雌だけにある。
X染色体遺伝子は、雌雄両方の経験をしているのだが、全経験のうち3分の2は雌の経験である。
これは鳥類では逆転している。
ある遺伝子が自分を乗せてきた個体の歴史を振り返るとき、それらの個体はすべて成功したものの連続ということになる。
それには「悪い材料からできるだけよい結果を生みだす」ための戦略という例外もある。
種は経験から学び、優れた個体を作りあげることを憶える。
その経験は、遺伝子プールの中の遺伝記号として蓄えられるのだ。
一つの種というのはいわば、経験を蓄積する一つのコンピューターである。
それはその種の世界の世界の統計学的記録からなる。
動物の身体を「読み」、その祖先がどのような環境で暮らしていたのか言い当てることができる。
その動物の歯や腸を読み取ることで、何を食べていたのかについて述べることができる。
どんな動物でも自分自身の世界、自分たちの祖先の遺伝子が自然淘汰されてきた世界のモデルであり、記録であると言うことができる。
寄生者というのは、宿主の鍵穴と合うよう高度に特殊化された鍵であり、その特殊化ぶりは、捕食者の場合より遥かに精密である。
対の一方には水中で生きることを選んで独自に進化してきた種を置き、対の他方に、この種と密接な類縁関係にありながら陸上にとどまって生活してきた動物を置いて、対となる広範なリストを作ることができる。
自然淘汰というのは、経験を蓄積する一つのコンピューターとして機能する。
それは、われわれがコンピューターを使って行う計算とそれほど違わない計算をおこなっているのである。
ひとつの種でも生き方が場所によって異なったり、雄と雌も生き方が異なっていたりする。
托卵する性質を持っているカッコウは、「遺伝子版死者の書」の視点からいって奇妙にして魅力的である。
アリ、シロアリ、そしてその他の社会性を持った昆虫種は、別の意味で奇妙である。
それらは養育条件が異なると、違う種類の遺伝子のスイッチが入るしくみになっている。
いわば小人になることも巨人になることもできるのだ。
あらゆる種は、その生活様式を過去、いろいろな形で変化させてきた。
たとえば、ハツカネズミは、祖先たちが送ってきたかなり幅の広い生き方を通して、生存に役立つ遺伝子を蓄えてきた。
ラクダのDNAには、かつては海中にいたが、海からいなくなってもう3億年は経過している。
遺伝子の記録では、生活環境で頻繁におこったこと、もしくは大きな影響があったことが、より強調され、あるいは「重みをつけて」記載され、稀なこと、些細なことは軽視される。
すべての陸上生物にとって、遠い昔の海における徒弟時代の記憶が、血液の生化学的組成に反映されているという詩的な示唆がある。
DNAのとは、自分たちの祖先たちが生き抜いてきた世界についての暗号化された記述なのだ。



11. 世界の再構成

『五感を前提として作られている脳というものは、しきりに五感で感じたがるのです。世界をひとつのまとまりとして認識するためには、それに色がついている必要があるのです。私に実際の色が見えるかどうかということにかかわりなく、そうなのです。』──ヘレン・ケラー『私の生涯』
種の遺伝子プールが、その祖先たちが行きた世界の記録のようなものであるとするならば、個体の脳とは、その個体から見た世界の記録が納まった容れものである。
過去の出来事の記録という点でこの2つは共通する。
だが、時間的尺度と、その”私的な”度合いにおいては別物である。
遺伝子は、その種全体が共有する相対的な記録であり、脳はその個体固有のものである。
人間は目覚めているとき、たえまなく物体を見てそれを認知しており、その際には、、実は、恐ろしいくらい巧妙なことが行われている。
感覚情報の大きな冗長性を、神経系はうまく利用しているのではないか、といわれている。
情報とは意外性の度合いであり、ある事象の起こる確率の逆数で定量化される。
一方、冗長性は、情報とは反対の概念で、意外性の低さを表す。
われわれのコード化システムは情報を捨てているのではなく、冗長性を捨てているのだ。
脳は変化だけを知らされ、残りの部分は自分で適当に補うようにできているのである。
すなわち、脳は、神経を通して耳から運ばれてくる情報を用いて、ヴァーチャルな音を組み立てているのだ。
意外性が高いほど、感覚器官はその情報を生のまま、逐一信号化するようになっている。
情報の時間的な冗長性と同じように、この世界には、情報の空間的な冗長性というものも存在する。
白と黒の境界(エッジ)である。
そういった節約は「側方抑制」というメカニズムで知られている。
脳にもたらされる情報の大半はエッジについての情報である。哺乳類の脳では、いわゆる「線検出器」といわれる神経細胞が見つかっている。
レトヴィンたちは、カエルから「動き検出細胞」も発見した。
神経系は、予期せぬことが起きた場合により強く反応するように調整されている。
最も低いレベルでは各光受容細胞への照射光すべてが「関心事」である。次のレベルでは、エッジだけが「関心事」となる。さらに上のレベルでは、エッジの端点だけが抽出される。そして、もっと上のレベルに進むと、運動だけが問題となる。さらに高次へいくと運動の速さと方向の変化が「関心事」になる。
脳は階層構造をなしたいくつものフィルターにより、情報の冗長性から守られている。
種の遺伝子は、祖先たちが生き抜いてきた世界についての統計的な記録を保持している。
未来の生物学者は、未知生物の神経系を調べることで、その生物が住んでいた世界の統計的な傾向を知ることができるだろう。
その生物の脳が用いている省略語辞典を調べることで、それを推測するのだ。
頻繁に用いられている用語が略語となっているはずである。
ヒトにとって、顔というのはこの世界にありふれたものでありながら、顔を認知することは特に重要である。
ヒトの視覚系には、顔を見ようとする強い指向性があるので、わずかばかりの手がかりから顔の像を組み立て、びっくりするような錯覚を引き起こすことがある。
あなたと私を含めたすべての人間、哺乳類、動物は、神経系の比較的高次のレベルにおいて、現実の世界をかたどって組み立てられたヴァーチャルの世界に住んでいる。
もちろん、私たちは、自分たちが確固とした現実世界に存在しているかのように感じているが、それは私たちが、現実を比較的精密にかたどってつくられたヴァーチャル世界に置かれているからだ。
そのソフトウェアがうまくはたらかない場合に、われわれは錯覚や幻覚を体験するのだ。
「ネッカー・キューブ」に対する錯視がある。
私たちがものを見ているときに、脳が実際に解釈しているのは、脳内のモデルなのである。
左右の眼は、互いに異なった情報を受けて、モデルを作っている。
脳の中のコンピューターは、通常の眼球運動も計算にいれている。
ぐるぐる回ってめまいを起こしたとき、世界は回って見える。
それはヴァーチャル・リアリティ・ソフトウェアが、モデルのほうを逆まわしにすることで、つじつまをあわせようとしているのだ。
脳内モデルの、補正しようとしたぶんの回転が、そのままあなたに見かけ上知覚されてしまうのだ。
鳥は地上を歩くときに世界の”見え”が揺れるのを防ぐために、頭を前後にひょこひょこと動かすのだ。
私たちは、シミュレーションの世界に住むことに、慣れきってしまっている。そしてその世界は、現実の世界とみごとに同調している。
だから、私たちは、自分たちがシミュレーションの世界にいることに気づかない。
幻覚は、どれだけ印象的であろうとも、また、それを見た人間の人生をいかに変えてしまおうとも、それはシミュレーション/ソフトウェアのエラーにすぎない。
あらゆる種の生物は各々、各自がおかれた状況に応じて、外界についての情報をうまく処理してやらねばならない。
脳は、動物が行動をおこすのに最も役に立つやりかたで、モデルを組み立てる。
脳そのものや、脳のヴァーチャル・リアリティ・ソフトウェアは、究極的には、先祖代々、遺伝子が自然淘汰されてきたという流れのなかで、産み出されてきたものなのだ。
環境の細かな変化にしっかり対応するため、遺伝子は動物たちに神経系というハードウェアと、ヴァーチャル・リアリティ・ソフトウェアを与えた。
遺伝子は、世代を超えて変わらないような、環境についてのおおまかなモデルをつくり、細かくてすばやい変化には脳に役割を任せた。
現代のような複雑で変わりやすい環境の中で生き延びていくには、そのヴァーチャル・リアリティを共有するという作戦をとることによって、もっともむだが少なくなる。



12. 脳のなかの風船

『脳は、わずか1キログラムという、手で支えられる程度の塊でありなgら、はるか1000億光年の大宇宙の果てを、想像の中でつくりだすことができる。』──マリアン・C・ダイヤモンド
生物学者はいつの時代も、生体のメカニズムを解明しようとし、それを同時代の最先端技術になぞらえてきた。
コンピューターと脳は、その役割が似ている。
アウストラロピテクスチンパンジーとの主な違いが見られるのは、決して脳ではない。
違いは、アウストラロピテクスが二足歩行をしていたということである。
人間の脳が風船のように膨らんだとするならば、コンピューターの発達はむしろ原子爆弾に近い。
生物学的進化のタイムスケールでの変化は、死んでゆく個体と繁殖を続ける個体とのせめぎあいの中に偶然に起こるものなので、コンピューターよりもはるかにゆっくりである。
私が思うに、人間の脳の進化を考えるとき、われわれは何か爆発的なものを必要とする。
ある種の「必要」に対する欲求が積もり積もったあと、”閾値を超えた爆発”に相当する何かが起こっているようだ。
ある独創的なソフトウェアが”爆発的”に登場するためには、世界に解き放たれることを待ちわびながら閉じ込められていなければならなかった。
それが待っていたのは、重大な一つのハードウェア、つまりマウスの到来であった。
ソフトウェア/ハードウェアの螺旋上昇(スパイラル)は続き、その最新の産物がインターネットである。
人間の脳の場合、それにあたる最も明確な一例がある。
言語である。
言語の潜在的に無限な拡張性は、単純な構文法の発明によって突然可能となった。
言語が初めて出現した新しい社会的世界では、この新技術を駆使する能力が遺伝的に備わった個体を、圧倒的に優先するような自然淘汰が働いたに違いない。
ソフトウェアの革新は他にもあるだろう。
狩猟生活をするにおいて、指令をするための地図があれば効率化できる。
最初は棒で地面に描いた線だったのかもしれない。
だがそこにも、未来への大きな可能性がある。
あらゆる表象芸術は、何かが他の何かに変わってそれを表現しうることに気づいたとき可能となり、思考やコミュニケーションを支えることになった。
第三のソフトウェア革新について示唆があった。
神経システムはいかにして、腕の動きの速さを調節しながら、正確な瞬間に投射物を放つという離れ業を成し遂げているのだろうか、という点である。
答えは”大数の法則”にあるにちがいない。
言語は正確な順序構成に依存している。音楽や、ダンス、未来に対する計画の立案も同様である。
つまり、投擲行為は、先見的思考そのものの先駆形態ではなかったか、ということだ。
私が挙げる第四の候補は「ミーム」である。
遺伝子の場合と同様に、世界は脳から脳へと複製されてゆく術に長けたミームに満ちていくだろう。
象のDNAとウイルスのDNAには、いずれも「私をコピーせよ」というプログラムが組み込まれている。
一方は「象の身体を作った後に私をコピーせよ」というような異様に大きなまわり道をしている。
しかし、いずれのプログラムも、それぞれ流布に適した別々の方法で流布するのにかわりはない。
ミームは、遺伝子の場合と同じくらい効果的に、生物体の行動を操作する。
彼らはわれわれの心の中で成長し、繁殖し、競合する。
遠い昔バクテリアがわれわれの祖先の細胞に侵入しミトコンドリアになったように、われわれの心はミームによって侵略されているのだ。
スーザン・ブラックモアが示唆している。
誰を模倣すべきかという問いの答えは、最高の模倣者を模倣するべきである。彼らは最良の技能を複数持ち合わせている可能性が高い。
また、誰と交合すべきかという問いでは、最も流行っているミームを真似るのが最も上手い模倣者と、交合すべきである。
生物はまったくの幻想と考えるにはあまりにも具体的である。
生物は二次的な派生現象であり、つぎはぎされてできたものである。
「私がそこにいる」という主観的感覚は、つぎはぎの突発的な半幻想であり、それは、遺伝子の容易ならざる協力によって進化の中に出現した個別的肉体と類似している。
「足跡の地図」と同様、アナロジーがわかる力、他のものを想起させる象徴的な類似性によって意味を表す力こそ、人類の脳の進化を、閾値を越え共進化的上昇へと前進させるのに欠くことのできないソフトウェアの進歩であったのではないか、と私は思っている。
われわれ人類は動物種の中で唯一、ある事物が他の事物と類似していることに気づき、その関係を自らの思考や感覚の支点として用いる、比喩という詩人の才能を有しているのである。
これはヴァーチャル・リアリティへの進歩であったのであろう。
われわれは自分の頭の中で働いているヴァーチャル・リアリティ・ソフトウェアを、ただ単に実利的な現実だけをシミュレートせよという縛めから解き放ってやることができる。
アインシュタインの見事な時空曲線は、ヤハウェの約束の虹の曲線を奪ってそれを測定可能なものに変えた。
人間だけがその生前に起きたことについて知り、その死後に起きることを予見して、自己の行動を導ける。
スポットライトは通り過ぎていく。
われわれは、自分を見出すことができ、何かを理解することができ、終わりを予想することができる唯一の存在である。
そしてまた、こう言うことのできる唯一の存在である。
自分が生まれてきた価値があった、と。
キーツやニュートンのような人物は、お互いに耳を傾けあいながら、銀河が歌うのを聞いたのかもしれない。





【印象的な言葉】


『この天と地のあいだにはな、ホレーシオ、哲学など思いもよらぬことがあるのだ。』 p.10

『この女性は本当なら目の前にかぶせられていた覆いをはずしてもらって感謝してもいいはずなのに、逆にその覆いをより強くかぶることを選んだのである。』 P.11

『実際、雀が入って来たその時には、雀は冬のあらしには打たれませんが、しかも好天の非常に短い期間は一瞬しか続かず、直ちに冬から冬へ移り変わり、あなたの眼から見えなくなります。このように人間の生命は、はかないものに見えます。しかも、何が続き来たり、何が過ぎ去ったかをわたしたちは全く知りません』 P.18

『ひとつぶの砂にも世界を/いちりんの野の花にも天国を見/きみのたなごころに無限を/そしてひとときのうちに永遠をとらえる』 p.35