正論をいう無職

有職になった

3秒でわかる『神は妄想である』




【3秒でわかる】

庭が美しいことさえわかれば十分じゃないのか?花の下に妖精がいるなんて信じなくても。



【1分でわかる】

はじめに. 

本書を読めば、「そんなことができるとは知らなかった」とは、誰も言えなくなることを期待したい。



1. すこぶる宗教的な不信心者

アインシュタインの言葉は、理神論的ではなく汎神論的であり、まちがっても有神論ではない。



2. 神がいるという仮説


集団としてまとめるのは世俗主義という一事なのである。

いかなる形の証拠も見つからないような場合、不可知論を採るのにはどこにもまちがったところはない。

宇宙創成にかかわる超知性の存在または不在は、明白に科学的な問いである。



3. 神の存在を支持する論証

神の存在あるいは非存在は、「弁証法的手品」で決定するにはあまりにも大きすぎる問題である。

芸術作品は神がいても荘厳だし、神がいなくても荘厳である。それは論証にならない。




4. ほとんど確実に神が存在しない理由

ありえなさからの論証は、正しく展開されれば、神が存在しないことの証明に近づいていく。

自然淘汰は同じように、「小さなものをつくるためには、大きくて高級で巧妙なものが必要だ」という最古の通念をくつがえした。

意識の高揚は、私たちの虚栄心を縮小させ、分相応の場所に位置づけてくれる。



5. 宗教の起源

宗教的な行動は、誤作動の不幸な副産物ではないだろうか。

生まれつきの二元論と生まれつきの目的論があいまって、適切な条件が与えられれば、私たちはたやすく宗教へ走ってしまう。




6. 道徳の根源──なぜ私たちは善良なのか?

「道徳的」になる理由としてダーウィン主義としては四つ確認できた。
遺伝的な血縁互恵性評判の獲得、広告効果

欲情を感じるのと同じように、憐れみを感じるのはメカニズムの誤作動である。だが、これは悦ばしく、貴重な誤りである。

私たちはそれぞれが善についての自分の判断をつくり、それに従って行動することができるのだ。




7. 「よい」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神

「宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教があってもなくても、善いことをする善人はいるし、悪いことをする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である」。

内集団を好み、外集団を避けるという人間の自然の傾向に、意図的かつ洗練された形でつけ込むのが宗教の方法である。

この数十年間に何かが移り変わった。それは私たちすべての中で移り変わったのであり、宗教とはなんの関係もない。



8. 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?

その他の点ではまともな人間を、ロンドンの自爆テロのような狂気に駆りたてることができるほど強い力は、宗教的な信念以外にない。

私たちの宿題は、宗教上の過激主義を責めるのではなく、宗教そのものを非難すべきだということなのである。



9. 子供の虐待と、宗教からの逃走

子供には何について考えるかよりもむしろ、どのように考えるかについて教えるべきだ。子どもたちはそうすることによって、自分で判断するだろう。

かけがえのない文化的遺産とのを失うことなしに、神への信仰を放棄することは可能なことなのである。




10. 大いに必要とされる断絶?

私たちの人生が、意味があり、充実した、すばらしいものであるのは、そうするように自分が選んだからである。これが真の大人の見方である。

科学が私たちのためにしてくれるのは、ブルカのをひろげることだ。

私たちは、計算理性によって、かつては立ち入り禁止ないしはドラゴンのすむ場所と思われていた、蓋然性の世界を自由に訪れることができるようになったのだ。

人類が理解の限界を押し広げようとしている時代に生きていることに、私は興奮を覚える。もっとうまくいけば、そこには限界などないのだと、いつかは知ることができるのかもしれない。







【30分でわかる】

はじめに. 

「私は、そんなことができるとは知らなかった」
この本は、無神論者になりたいというのが現実的な願いであり、勇敢ですばらしい願いでもあるという事実を、読者に気づかせることを意図したものである。
無神論者であるというのは、弁解しなければならないようなことではけっしてない。
本書が「カミングアウト」を後押しする。
本書を読めば、「そんなことができるとは知らなかった」とは、誰も言えなくなることを期待したい。



1. すこぶる宗教的な不信心者

『私は人格神を想像しようとは思わない。世界の構造が私たちの不完全な五感で察知することを許してくれる範囲で、その前に立ち、畏怖の念に打たれるだけで十分だ』──アルバート・アインシュタイン
私たちが虹を解体したとしても、虹はなお、すばらしさを失うことはないだろう。
アインシュタインは言う、『私が自然のなかに見ているものは一つの壮大な構造』である。
有神論者(theist)の神は、宇宙を創造し、運命も監視し、影響を及ぼしている超自然的知性である。
理神論者(deist)の神は、最初に宇宙を支配する法則を設定しただけであり、それ以後は一切干渉しないというものだ。
汎神論者(pantheist)は、神という単語を「事物の仕組みを支配する法則性」の同義語として使う。
汎神論は潤色された無神論であり、理神論は薄めた有神論なのである。
アインシュタインの言葉は、理神論的ではなく汎神論的であり、まちがっても有神論ではない。純粋に比喩的、詩的な意味で使っていたのである。
天の川のために命を捧げようとする人間がどこにいるだろうか。
有神論と汎神論を意図的に混同するのは、私に言わせれば、知的な大逆罪である。
Macかウィンドウズか、いずれを支持することも完全に正当化されるのに、宇宙がどのように始まり、誰が宇宙のつくったかについて意見をもつことが、なぜ正当化されないだろう。
私たちが、宗教的な観念には異論を差し挟まないことにしているのはなぜだろう。



2. 神がいるという仮説

『一つの時代の宗教は、次の時代の大衆文学である』──ラルフ・ウォルド・エマーソン
本書でその代案として提唱される考えかたは、何かを設計できるだけの十分な複雑さを備えたいかなる創造的知性も、長期にわたる漸進的進化の単なる最終産物にすぎないというものである。
以降は多神教であろうと一神教であろうと、あらゆる神さまを一神(God)と呼ぶことにする。
私は特定の神や女神を攻撃しようとしているのではない。超自然的なものすべてを攻撃しているのである。

三つのアブラハム宗教を、一体不可分なものとして扱う。仏教儒教のような他の宗教についてはいっさい気にしないつもりである。
人格神の特質は、理神論的な神となんのかかわりもない。
強固な信仰があった時代には、理神論は無神論と区別不能なものとして罵倒を浴びた。

アメリカ共和国の建国の父たちは理神論者であったとみなすのが慣例になっている。
集団としてまとめるのは世俗主義者という一事なのである。

いかなる形の証拠も見つからないような場合、不可知論を採るのにはどこにもまちがったところはない。
二種類の不可知論を区別しよう。
TAP(Temporary Agnosticism in Practice)は、証拠がはっきりしていないための正当な日和見主義である。
PAP(Permanent Agnosticism in Principle)は、原理的に永遠の不可知論である。
このPAPの一例は、あなたが見ている赤が私の見ている赤と同じかどうかという言い古された哲学的問いである。神の存在もこのPAPだと言うのは早合点である。
神の存在については断固としてTAPに属するのだ。
私は神の存在が、他のあらゆる仮説と同じ科学的な仮説だと言うつもりである。
蓋然性のスペクトラムに沿って考えるという原則から神だけを除外するべき理由はどこにもない。

スティーブン・ジェイ・グールドは言う。
彼は、「重複することのない教導権(nonoverlapping magisteria)」としてNOMA(ノーマ)という言葉をつくった。
宗教は栄えある賓客であり、科学は敬意を表してそっと立ち去らなければならないというのだ。
私は、グールドが『千歳の岩』で書いたことの大半を本気で言っていたという可能性を断じて信じない。
あらんかぎりの手を尽くして、「いい顔」をしようとしたという点で有罪なのだ。
宇宙創成にかかわる超知性の存在または不在は、明白に科学的な問いである。

「お祈り大実験」というものがある。
病人のために祈ることがその健康を改善するという命題を実験的に厳密にテストしたのだ。
驚いたことに、自分が祈られていることを何らかの方法で知っていた人間と知らなかった人間のあいだでは差があった。
自分が祈りの受益者であると知っていた人間のほうが、知らなかった人間よりも厄介な事態により多く苦しめられたのである。
研究者の一人、チャールズ・ベテア博士は、「お祈りチームを呼ばなければならないほど私は重い病気なのだろうかと、不安がらせてしまったのかもしれない」と述べている。

宗教的問題についての科学者の公表された発言を理解しようとする人間は誰も、政治的な文脈を忘れないほうがいいだろう。

アーサー・C・クラークが言う。「十分に発達したテクノロジーは魔法と区別がつかない」。

この場合、もっとも進んだ異星人はいかなる意味で神ではないのか?
その違いは、性質ではなくその来歴のなかにある。
その異星人は進化的な過程の産物なのである。これは自然淘汰という「クレーン」によって理解することができる。




3. 神の存在を支持する論証

『神学の教授が、われわれの憲法に占めるべき場所はない』──トマス・ジェファーソン
13世紀にトマス・アクィナスによってなされた五つの「証明」は何も証明しておらず、空虚なものであることがたやすく暴露される。

アキレスと亀の話であるゼノンの「証明」を見破るのに、われわれはたいへん苦労しなければならなかった。
しかし、ギリシア人たちはアキレスが本当に亀を捕まえることができないだろうという結論をくださないだけの分別があった。その代わりに、それをパラドックスと呼び、のちの世代の数学者たちが説明してくれるようになるのを待ったのだ。
私自身の考えを言えば、現実の世界からたった一片のデータも見つけることなしに、重大な結論に到達するような論法には、深い疑いを抱く。
神の存在あるいは非存在は、「弁証法的手品」で決定するにはあまりにも大きすぎる問題である。

ベートーヴェンの晩期の四重奏曲は荘厳である。シェイクスピアソネットもそうである。しかし、そうした作品は神がいても荘厳だし、神がいなくても荘厳である。それは論証にならない。

人間の脳は第一級のシミュレーション・ソフトウェアを走らせている。
いわゆる「錯視」こそ、このことをあざやかに例証する現象である。

ロバート・シールリーは、東方の星、処女懐胎、王による赤子への拝跪、奇蹟、復活と昇天を含めて、イエス伝説の本質的な特徴のすべてが、地中海および近東地域にすでに存在した他の宗教から借用されているという経緯を示した。

「知的な意味著名な人々の圧倒的多数はキリスト教を信じていないが、大衆に対してそのことを隠している。なぜなら、彼らは自らの収入が減ることを怖れているからだ」とバートランド・ラッセルは言う。
そして、英国の子供を研究している社会学者たちの研究結果からは、両親の宗教的信念から離脱できるのは12人に1人しかいないことがわかっている。

なぜ私たちは、「神を喜ばせたいならば、しなければならないのは彼を信じることだ」という考えを、そんなに簡単に受け入れてしまうのだろう?
私たちは聖書を信じると宣誓するという決定をすることができるが、信じるということを自分の意思で決定することはできないのだ。



4. ほとんど確実に神が存在しない理由

『さまざまな宗派の聖職者たちは、・・・・・・科学の進歩を、魔女が陽の光の到来を怖れるように怖れ、自分たちの生業を成りたたせている詐術の一部を手放さなければならないことを告げる致命的な予兆に顔をしかめる』──トマス・ジェファーソン
ありえなさからの論証は、正しく展開されれば、神が存在しないことの証明に近づいていく。
自然淘汰は同じように、「小さなものをつくるためには、大きくて高級で巧妙なものが必要だ」という最古の通念をくつがえした。
意識の高揚は、私たちの虚栄心を縮小させ、分相応の場所に位置づけてくれる。
地質学もそうである。

「設計は偶然に対する唯一の代案ではない。自然淘汰のほうがよりすぐれた代案である」。
自然淘汰が累積的な過程であり、これが、ありえなさという問題を小さな断片に分割するのである。

還元不能な複雑さを体現する特定の実例を探すというのは、根本的に非科学的な話の進め方だ。それは「現在の無知からの論証」の特別な一例でしかない。
私が問題にしたいのは、創造論者が科学の不確実な部分を衝く戦略をとってくることだ。一時的な不確実さを当然のように喜ぶというのは科学にとって当たり前なことにもかかわらずだ。
研究テーマとするために自分たちが無知である領域を探すという科学者たちの方法論的な必要と、欠席裁判による勝利を主張するために無知の領域を探すというID(インテリジェントデザイン説)の必要が、不幸にも一致してしまうのである。
神を何かについての説明とすることは、「ワカンナイ」という言葉を儀礼的なスピリチュアリズムで粉飾しているにすぎない。

隙間神学者たちは最後の希望を生命の起源に託す。
宇宙に関しては多くの説がある。
本当の意味で法外である「神がいる」という仮説と、見かけ上法外なように見える多宇宙仮説のあいだの決定的な相違は、統計学的なありえなさの相違である。

神はほぼ間違いなく存在しない。これが、本書のこれまでのところの結論である。



5. 宗教の起源

『時間・痛み・困窮というコストをともなうにもかかわらず、普遍的に見られる過剰な宗教的儀礼は、進化心理学者にとって、マンドリルの赤いお尻のように鮮やかに、宗教が適応的なものであることを示すものであるにちがいない』──マレク・コーン
ダーウィン主義の論理は、たとえそうなる正確な道筋がわかっていなくとも、もしその生物がそうしなければ、できるだけ多くの子孫を残すという意味で彼らが遺伝的成功を収める統計学的な見通しが損なわれるだろうと考えるべき特別な理由をもっている。
私たちはどうして生きのびる術にこんなにも賢明であると同時に、明らかに役に立たないような宗教行為をするほど愚かでいることができるのだろうか。
宗教的な行動は、異性愛的な行動がそうであるというのと同じ意味で、人類に普遍的なものと呼べる。

宗教的な信念がストレス性の病気から人間を守るという証拠が少数ながらある。
だがそれは、酔っぱらいのほうが素面の人間よりも幸せだという以上の意味はない。

ダーウィン主義的な生存価について憶測をめぐらすときには「副産物を考える」必要があると私は思っている。
宗教的な行動は、誤作動の不幸な副産物ではないだろうか。
そう考えると、私たちの祖先の時代に自然淘汰によって選ばれた性向は、宗教そのものではなかったことになる。
控え目に言っても、「大人が言うことは、疑問をもつことなく信じよ。親に従え。部族の長老に従え、とくに厳粛で威圧的な口調で言うときには」という経験則をもっている子供の脳に淘汰上の利益があるはずだ。
そこから導かれる結果として、信じやすい人間は、正しい忠告と悪い忠告を区別する方法をもたないということになる。「ワニの潜むリンポポ川に足を踏み入れるな」と「満月の夜には仔羊を生け贄にしろ」の違いがわからない者が出てくるのだ。
私はむしろ、宗教はそういった傾向の多岐にわたる、いくつもの副産物と言いたい。なぜなら世界の宗教は共通性をもちながら、実に絢爛たる多様性を誇るものだからである。

進化心理学者たちは、脳は、一連の専門的なデータ処理の必要性に対処するための器官の集合ではないかと言っている。
生まれつきの二元論と生まれつきの目的論があいまって、適切な条件が与えられれば、私たちはたやすく宗教へ走ってしまう。それはガが火の中へ飛び込むのと同じである。
ではガの光コンパスの効能に当たるものは何なのか?
私たちが実体の行動を理解し、予測しようと試みるときに採用する「姿勢(スタンス)」としての効能である。
志向姿勢が、危険な状況や重大な社会的状況における意思決定を迅速化する脳のメカニズムとして生存価をもつということだ。
デザイン姿勢と志向姿勢は、脳の有益なメカニズムであり、捕食者や潜在的な配偶者といった、本当に生き残りにかかわる実体の行動の先取りを迅速におこなうためには重要である。
だがこれは無生物に対して憤りを抱くといった、「誤作動」をしてしまうことがよくある。
恋に落ちることと宗教にはまることを比較した場合、多くの部分で共通点が見いだせる。
脳のメカニズムの誤作動の副産物は、神との恋に落ち、そのような愛に動機づけられた不合理な行為をおこなうことである。
生物学者のルイス・ウォルバートの言う論点は、人が不合理なほど強い確信を抱くのは、移ろいやすい心に対する防衛策なのだということである。

宗教に関してのことなら、真実とは、単に生きのびてきた意見のことにすぎない。──オスカー・ワイルド



6. 道徳の根源──なぜ私たちは善良なのか?

『奇妙なのは、ここ地球上における私たちの状況である。私たち一人一人は、わけも知らないまま、束の間この星に滞在するだけだが、ときには、目的を察知しているかのように思える。けれども、日常生活の観点からすれば、私たちにわかっていることが一つだけある。すなわち、人間はほかの人々のためにここにいるということである。──とりわけ、その人たちの笑みと安寧に、私たち自身の幸福がかかっている人々のためにである』──アルバート・アインシュタイン

宗教がなければ人は善良でいられない、あるいはそれを望めないのだろうか。
私の元には悪意に満ちた手紙も来ることがある。そのような(キリスト教徒にはあるまじき)野蛮な嫌がらせは、キリスト教の敵とみなされた人間がごくふつうに体験することである。
数冊の本は、私たちがもつ正邪の感覚は、ダーウィン主義的な人類の過去に由来するものであった可能性があると主張している。
「道徳的」になる理由としてダーウィン主義としては四つ確認できた。
遺伝的な血縁、互恵性、評判の獲得、広告効果。
先史時代のほとんどを通じて、人類は四種類の利他行動すべての進化を強く助長したと思われる条件のもとで暮らしていた。
欲情を感じるのと同じように、憐れみを感じるのを抑えることができないのではないだろうか。これはメカニズムの誤作動である。だが、これは悦ばしく、貴重な誤りである。
道徳が宗教に先行する根源にあるのならば、何らかの普遍的性質があるだろう。

私はかならずしも、無神論が道徳性を高めると主張しているわけではないが、無神論にともなう倫理体系であるヒューマニズムは、たぶん高まるだろう。
私たちはそれぞれが善についての自分の判断をつくり、それに従って行動することができるのだ。
倫理学者は、善悪について考えることのプロだが、
「道徳的な教えは、かならずしも理性によって構築されているわけではないが、理性によって弁護できる」ということで意見は一致している。



7. 「よい」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神

『政治は何千人も殺してきたが、宗教はその何十倍もの人間を殺してきた。』──ショーン・オケーシー
自らの道徳の根拠を文字通り聖書におきたいと願う人々は、聖書を読んだことがないか、理解していないかのどちらかだと言わざるをえない。
「宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教があってもなくても、善いことをする善人はいるし、悪いことをする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である」。
ノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者スティーヴン・ワインバーグは言う。
宗教が、聖なるシンボルとして、拷問と処刑の道具である十字架を借用しなければならないというのは、よくよく考えてみれば、驚くべきことである。
すべての子供に、生まれてくる前にさえ、はるかに遠い祖先の罪を受けつぐように強要するというのは、いったいどいういう種類の倫理哲学なのだろうか?
聖書には、とりわけ嫌な側面がある。
旧約聖書』と『新約聖書』の両方で一見推奨されているように見える、他者に対する道徳的配慮の多くが、もともとは非常に限定されたもので、そこに属する個人が帰属意識をもちやすい、いわゆる内集団に対してのみ適用されるべく意図されたものであったことを、キリスト教徒はほとんど認識していない。
内集団を好み、外集団を避けるという人間の自然の傾向に、意図的かつ洗練された形でつけ込むのが宗教の方法である。

哲学者のジョン・ロールズはこう言う。
「つねに、自分が順位序列の最上位にくるか最下位にくるかまったくわかっていないものとしてルールを考案せよ」。食物を切り分けた人間が最後の一切れを取るというものである。
どんな社会にもどことなく謎めいた見解の一致が存在し、それが数十年単位で変化する。それに、時代精神ツァイトガイスト)という言葉をあてようと思う。
道徳的に許容できることに関する基準には、着実な移行があるように思われる。
この数十年間に何かが移り変わった。それは私たちすべての中で移り変わったのであり、宗教とはなんの関係もない。

無神論は、一貫して人々を邪悪な行ないに向かわせるのであろうか?
個々の無神論者は悪事をなすかもしれないが、彼らは無神論の名において悪事をなすわけではない。無神論の名のもとで戦われたいかなる戦争も、私は思い浮かべることができない。



8. 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?

『宗教は実際に、毎日毎秒あなたのするすべてのことを観察している目に見えない──天空で暮らしている──人間が存在すると人々に信じこませてきた。そして、その目に見えない人間は、あなたにしてほしくない10の事例の特別なリストをもっている。そしてもしあなたがその10のうちのどれかをおこなえば、彼は火や煙、灼熱、拷問、苦悩などに満ち溢れた特別な部屋をもっていて、あなたをそこへ生きたまま送り込み、時の終わりがくるまで永久に苦しめ、焼き焦がし、息を詰まらせ、泣き叫ばせる・・・・・・だが、彼はあなたを愛しているのだ!』──ジョージ・カーリン
科学では、科学書がまちがっているときは、最後には誰かがそのまちがいを発見し、その後の書物によって訂正される。
そこで、科学者のそういう”証拠信仰”こそ、原理主義的な信仰の同じ類の事柄だと言い出す者がでてくる。
「真実」によって何を意味するかといことを何らかの抽象的な方法で定義するという話になれば、ひょっとしたら、科学者は原理主義者かもしれない。しかし、ほかの誰もがそうである。

アラン・チューリングが同性愛行為が犯罪的不法行為であると有罪宣告されたあと、自殺を遂げた例。
同性愛に対する態度は、宗教的な信念によって吹きこまれた道徳心がどのようなものであるかについて、多くのことを明らかにしてくれる。

ある種の宗教的精神にとっては、顕微鏡でしか見えない細胞の塊を殺すことと、れっきとした大人の医師を殺すことのあいだにある道徳上のちがいというものが、どうにも理解しがたいものであるらしい。

その他の点ではまともな人間を、ロンドンの自爆テロのような狂気に駆りたてることができるほど強い力は、宗教的な信念以外にない。ビン・ラディンを「悪」と呼ぶだけでは、そのような重要な問いに対して適切な答を与えるという責任から逃げだすことにしかならない。
どれほど誤って導かれていようとも、彼らは中絶医を殺すキリスト教徒の殺人犯と同じように、自分たちが正義であり、彼らの宗教が語りかけることを忠実に追求しているのだと感じることによって、衝き動かされているのである。
私たちの宿題は、宗教上の過激主義を責めるのではなく、宗教そのものを非難すべきだということなのである。
宗教上の信念であるというだけの理由で尊重されなければならないという原則を受け入れているかぎり、私たちは自爆テロビン・ラディンの信念を尊重しないわけにはいかない。その原則は、放棄しなければならないのだ。



9. 子供の虐待と、宗教からの逃走

『どの村にも、灯りをともす教師と、灯りを消していく聖職者がいる。』──ヴィクトル・ユーゴー
宗教上の事柄について自分の意見をもつにはあまりにも幼すぎる子供に「~教の子供」というラベルを貼るのは、やはり一種の児童虐待ではないだろうか?

私に手紙をくれた女性はカトリック教徒として育てられた。
彼女は、成熟した大人になって教会のことを思い返してみると、一方は身体的、一方は精神的な児童虐待と言える二つの例では、後者のほうがはるかに悪辣だった、と書いてある。

私は自分の両親が、子供には何について考えるかよりもむしろ、どのように考えるかについて教えるべきだという主義の持ち主出会ったことに感謝する。子どもたちはそうすることによって、自分で判断するだろう。
ハンフリーは、子供がまだ幼く、傷つきやすく、保護が必要な状態にあるかぎり、真に道徳的な後見者とは、子供が判断できるだけ十分に大きくなったとき何を選択するだろうかと率直に推し量ろうとする人のことではないかと述べている。

小さな子供がいずれかの特定の宗教に属しているというラベルを貼られているのを耳にしたときに、私たちの誰もが顔をしかめるようであるべきだと、私は思うのだ。
われわれの社会は、「プロテスタントの子供」「ユダヤ教徒の子供」「イスラム教徒の子供」は当たり前だと言うのに、保守主義の子供、リベラルな子供、民主主義的な子供といった表現をするのは許されないという途方も無い考え方なのだ。

英文学の教師たちは、聖書の教養が英文学を理解するうえで不可欠だという点で圧倒的な意見の一致を見ている。
だが、かけがえのない文化的遺産との絆を失うことなしに、神への信仰を放棄することは可能なことなのである。



10. 大いに必要とされる断絶?

『100インチの望遠鏡を通してはるか彼方の銀河をのぞきこむ。一億年前の化石や50万年前の石器を手にもつ。グランドキャニオンのはてしない空間と時間の深淵の前に佇む。あるいは宇宙創造の様相をじっと凝視して瞬きもしない科学者の言葉に耳を傾ける。そういったこと以上に、魂を揺さぶることができるものが何かあるだろうか?これこそ深く聖なる科学なのだ。』──マイケル・シャーマー
宗教の慰めと霊感について、この最終章で述べる。
予行演習として子供に見られる「想像上の友達」という現象から始めたいと思う。この現象には宗教上の信念と似たところがあるというのが私の考えである。
神が「想像上の友達」の祖先であるとか、あるいはその逆だとかいうふうに扱ったりせず、むしろ、どちらも同じ心理学的性向の副産物だとみなすほうがいいのかもしれない。
この考察から、神が慰めを与えるというのを認めたとして、その宗教が正しいということにはならない。
私は、控え目に言っても、超自然的な宗教などなくとも幸福で充実した人生を送ることができるという主張をもって、本書を締めくくるつもりである。
バートランド・ラッセルのエッセイにはこう書いてある。
「昔ながらの人を導く神話のぬくぬくした世界に、科学によって開けられた窓から冷たい風が吹きこんで、たとえ私たちを震え上がらせたとしても、最終的には、新鮮な空気が活力をもたらし、広大な空間はそれ自体のすばらしい輝きをもつようになる」。
私たちの人生が、意味があり、充実した、すばらしいものであるのは、そうするように自分が選んだからである。これが真の大人の見方である。

私たち一人一人は、自分の頭のなかに、自分がいる世界のモデルを築き上げる。世界の最小モデルは、私たちの祖先が慣れ親しんでいた世界、すなわち、中くらいの大きさの物体が、互いに中くらいの相対速度で動いている三次元の世界に、もっとも熟達したものである。予想外のおまけ(ボーナス)として、私たちの脳は実は、祖先が生き残るために必要とした凡庸な功利主義的モデルよりも、はるかに豊かな世界モデルを収容できるほど強力なものであった。芸術と科学は、このおまけの暴走がもたらす現れである。

私たちはブルカのようにとても細いスリットを通して世界を見ている。
科学が私たちのためにしてくれるのは、この窓をひろげることだ。あまりにも大きくひろげたため、私たちの体を閉じこめていた黒の衣裳はほとんどすっかり脱げ落ち、私たちの感覚はひろびろとしてワクワクするような自由にさらされるのである。

ダグラス・アダムズは、科学の奇妙さをコメディの地点まで推し進めた。
「私たちが、9000万マイル彼方の核融合の火の玉のまわりを巡る、気体でおおわれた一惑星の表面にある、深い重力の井戸の底で暮らしていて、それが正常だと考えているという事実は、明らかに、私たちの視野がどれほど歪んだものになりがちであるかを示す兆候であります」。
ダーウィンはブルカの窓をつかんでこじあけ、洪水のように理解が流れこむようにしたのであり、その眼も眩むような新しさ、人間の精神を高める力は、ひょっとしたら前例のないものであったかもしれないコペルニクスを例外とすれば。
私たちが現実世界に見ているものは、ありのままの現実世界などではなく、感覚データによって制御され、調節された現実世界のモデルである。
盲目の時計職人』ではコウモリが耳で色を「見て」いるのではないかという推測をしてきた。
脳の内的なラベルは、脳が外部の実在性についてのモデルを構築するときに、当該の動物にとってとりわけ重要な区別をするために使うことができるラベルなのである。
確率を計算する能力は、人間精神の解放のために科学が授けてくれる恩恵の、もう一つの例である。
私たちは、計算と理性によって、かつては立ち入り禁止ないしはドラゴンのすむ場所と思われていた、蓋然性の世界を自由に訪れることができるようになったのだ。
人類が理解の限界を押し広げようとしている時代に生きていることに、私は興奮を覚える。もっとうまくいけば、そこには限界などないのだと、いつかは知ることができるのかもしれない。






【60分で理解する】

はじめに. 

「私は、そんなことができるとは知らなかった」
この本は、無神論者になりたいというのが現実的な願いであり、勇敢ですばらしい願いでもあるという事実を、読者に気づかせることを意図したものである。
自然淘汰の概念は、「クレーン」として、私たちの意識を高めてくれる。
現実世界の壮大さへの正しい理解は、宗教に傾くことなく、「人の霊感の源となる」ことができる。
無神論者であるというのは、弁解しなければならないようなことではけっしてない。
「世界にもっとも輝かしい光彩を添えている人々のうちの、英知と徳という通俗的な評価においてさえももっとも傑出した人々のうちの、どれほど大きな比率が、宗教への完璧な懐疑論者であるかを知れば、世間は驚愕するだろう」
本書が「カミングアウト」を後押しする。
無神論者を組織するというのは、いってみればネコの群れをつくろうとするようなものだ。彼らはそれぞれ独自に考える傾向があり、権威に従おうとしないからである。だが、十分なネコが集まれば大きな声をい立てることができ、社会は無視できなくなるだろう。
神とは「矛盾する強力な証拠があるにもかかわらず誤った信念をずっともちつづけること」につながる。
本書を読めば、「そんなことができるとは知らなかった」とは、誰も言えなくなることを期待したい。




1. すこぶる宗教的な不信心者

『私は人格神を想像しようとは思わない。世界の構造が私たちの不完全な五感で察知することを許してくれる範囲で、その前に立ち、畏怖の念に打たれるだけで十分だ』──アルバート・アインシュタイン
自然や宇宙に対する擬似神秘的な反応は、科学者や合理主義者のあいだでよく見られるものだ。それは、超自然的な信仰とは何のかかわりもない。『種の起源』の掉尾を飾る有名な「絡まり合った土手」という文章がある。
それに対して「宗教」というのは正しい言葉だとは思わない。
アインシュタイン的宗教と、超自然的宗教は別のものだ。だが、よく誤解されてきた。ホーキングも同じである。
人間の思考と感情は、脳の内部にある物理的実体のすこぶる複雑な配線から立ち現れる。その考えかたと同じように、私たちが虹を解体したとしても、虹はなお、すばらしさを失うことはないだろう。
私は超自然的な神だけを妄想と呼んでいることは心に留めておいてほしい。
アインシュタインは言う、『私が自然のなかに見ているものは一つの壮大な構造』である。
アインシュタインのこれらの発言を非難する手紙には、知的、道徳的臆病さにどっぷり染まったものが多かった。
アインシュタインは繰り返し、有神論者ではないかと言われることに腹を立てた。
『私が信じるのは、存在するものの整然たる調和のなかに自らを現している神であり、人間の運命や所業に関心をもつ神ではない』
有神論者(theist)の神は、宇宙を創造し、運命も監視し、影響を及ぼしている超自然的知性である。
理神論者(deist)の神は、最初に宇宙を支配する法則を設定しただけであり、それ以後は一切干渉しないというものだ。
汎神論者(pantheist)は、神という単語を「事物の仕組みを支配する法則性」の同義語として使う。
汎神論は潤色された無神論であり、理神論は薄めた有神論なのである。
アインシュタインの言葉は、理神論的ではなく汎神論的であり、まちがっても有神論ではない。純粋に比喩的、詩的な意味で使っていたのである。
カール・セーガンは『もし〈神〉という言葉によって、宇宙を支配する一連の物理法則を意味するのであれば、そのような神は明らかに存在する。この神は情緒的な満足感を与えてくれるものではない。・・・・・・重力の法則に祈ってもあまり意味がない』と述べている。
天の川のために命を捧げようとする人間がどこにいるだろうか。
有神論と汎神論を意図的に混同するのは、私に言わせれば、知的な大逆罪である。
「ここに、悪く言うことをいっさい許されない一つの考え、ないし概念がある。けっして許されないのだ。なにゆえに?──許されていないから許されないのだ!」・・・・・・
Macかウィンドウズか、いずれを支持することも完全に正当化されるのに、宇宙がどのように始まり、誰が宇宙のつくったかについて意見をもつことが、なぜ正当化されないだろう。
私たちが、宗教的な観念には異論を差し挟まないことにしているのはなぜだろう。
理性的に考えると、私たちは、なぜかそれをお互いに同意しあっているだけで、理由は他に存在しないのだ。
これは宗教に対する過剰な敬意だ。それこそが問題なのである。
私は以前に公的な議論において、宗教が特権的な扱いをされていることに注意を喚起したことがある。
H・L・メンケンはこう言っている。「われわれは他人の宗教を尊重しなければならないが、あくまでそれはその人の奥さんが美人だとか子供が賢いという言い分を尊重するのと同じ意味と程度においてのことである」。
私は要らぬ侮辱をするつもりはないが、宗教を扱うのに、ほかの事柄よりも手控えた扱いをして甘やかすつもりもない。




2. 神がいるという仮説

『一つの時代の宗教は、次の時代の大衆文学である』──ラルフ・ウォルド・エマーソン
旧約聖書」の神は、おそらくまちがいなく、あらゆるフィクションのなかでももっとも不愉快な登場人物である。
キリスト教の神は恐ろしい性格をしている──残忍で、執念深く、気まぐれで、不誠実だ」。トマス・ジェファーソンは言う。
私は、ヤハウェの、あるいはイエスやアラー、あるいはゼウス、オーディンなどの他の特別な神の特定の性質を攻撃しているわけではない。むしろ私は、神仮説をもっと弁護のしようがある形で定義したいと思う。
すなわち、宇宙と人間を含めてその内部にあるすべてのものを意識的に設計し、想像した超人間的、超自然的な知性が存在するという仮説である。
本書でその代案として提唱される考えかたは、何かを設計できるだけの十分な複雑さを備えたいかなる創造的知性も、長期にわたる漸進的進化の単なる最終産物にすぎないというものである。
多神教から一神教への変化を進歩的改善として扱う明確な理由はない。
四世紀にアリウスは、イエスが神と同質である(すなわち同じ実体ないし本質をもつ)ことを否定した。だが、これは一体全体どういう意味なのだ?
「ほとんど何も意味していない」というのが唯一の筋の通った答えであるように思われる。
「理解不能な提案に対抗する唯一の武器は冷笑である。観念に理性がはたらきかけることができるためには、まずそれが明確なものでなければならない。しかし三位一体については、明確な観念をもつ者は誰もいない。それは、自分をイエスの司祭だと称するペテン師たちの単なるアブラカダブラなのだ」。トマス・ジェファーソンの言葉である。
なぜ宗教はいかなる証拠ももたずに、ああも傲慢な口ぶりで断言できるのだろうか。カトリックの人々のあっけらかんとした無頓着な聖人や天使のでっちあげは、まさに厚顔無恥である。
教皇ヨハネ・パウロ二世を救ったファティマの聖母マリアは、秋田の聖母や、ルルドの聖母ではいけなかったのか。
以降は多神教であろうと一神教であろうと、あらゆる神さまを一神(God)と呼ぶことにする。
私は特定の神や女神を攻撃しようとしているのではない。超自然的なものすべてを攻撃しているのである。

ユダヤ教はもともとは一部族のカルトにすぎなかった。キリスト教ユダヤ教ほど無慈悲ではなく、排他性も薄い、外の世界に向けた宗派として興された。ムハンマドとその弟子たちはもとのユダヤ教の断固とした一神教に回帰し、新しい聖典コーラン」にもとづき、信仰を広めるために軍事的に征服するという強力なイデオロギーをそれに付け加えた。
これら三つのアブラハム宗教を、一体不可分なものとして扱う。仏教儒教のような他の宗教についてはいっさい気にしないつもりである。
人格神の特質は、理神論的な神となんのかかわりもない。
理神論の神は、すべての物理学に決着をつける物理学者であり、数学者にとってはアルファにしてオメガであり、神格化された設計者であり、宇宙の法則と定数を設定したあと、絶妙の正確さと先見をもってそれらを微調整し、現在ホット・ビッグバンと呼ばれているものを爆発させてから引退し、そのあと二度とその声を耳にしたものがいないハイパーエンジニアである。
強固な信仰があった時代には、理神論は無神論と区別不能なものとして罵倒を浴びた。

アメリカ共和国の建国の父たちは理神論者であったとみなすのが慣例になっている。
集団としてまとめるのは世俗主義者という一事なのである。
合衆国がキリスト教国家として建設されたわけではないという事実は、トリポリ条約のなかに明言されている。
アメリカでの宗教熱と、宗教を愛すべき社会的気晴らしととらえる英国の認識とは対照的である。
キリスト教はこれまで人類に投げかけられたもっとも倒錯した体系である」というトーマス・ジェファーソンの意見は、理神論とも合致するが、無神論とも合致する。
ジョージ・ブッシュ父は「私は無神論者を市民として認めるべきだとは思わないし、彼らを愛国者とみなすべきでもない。わが国は神のもとにある一つの国家なのだ」と答えている。
この「無神論者」を「ユダヤ人」あるいは「イスラム教徒」あるいは「黒人」に置きかえると、現代のアメリカの無神論者が耐え忍ばなければならない偏見と差別がどれほどものであるかの目安が得られるだろう。
ガンジーは言う、「私はヒンドゥー教徒である、イスラム教徒であり、ユダヤ教徒であり、キリスト教徒であり、仏教徒である!」。ガンジーは世俗的インドを夢見ていた。それを引き継いだネルーが述べている。「多くの信仰と宗教をもつインドのような国では、真の国民意識ナショナリズム)は、世俗性を基盤にする以外に築きあげることができない」。

いかなる形の証拠も見つからないような場合、不可知論を採るのにはどこにもまちがったところはない。
二種類の不可知論を区別しよう。
TAP(Temporary Agnosticism in Practice)は、証拠がはっきりしていないための正当な日和見主義である。
PAP(Permanent Agnosticism in Principle)は、原理的に永遠の不可知論である。
このPAPの一例は、あなたが見ている赤が私の見ている赤と同じかどうかという言い古された哲学的問いである。神の存在もこのPAPだと言うのは早合点である。
神の存在については断固としてTAPに属するのだ。
現在、分光器によって星の科学的組成がわかる。これは19世紀には永久に化学の射程外にあると判断されていたことだ。
私は神の存在が、他のあらゆる仮説と同じ科学的な仮説だと言うつもりである。
蓋然性のスペクトラムがある。
・100%─強力な有神論者。「私は信じているのではなく、知っているのだ」。
・非常に高いが100%ではない──事実上の有神論者。「正確に知ることはできないが、強く信じており、神がそこにいるという想定のもとで日々を暮らしている。
・50%より高いが、非常に高くはない──厳密には不可知論者だが、有神論に傾いている。「非常に確信は乏しいのだが、私は神を信じたいと思う」。
・ちょうど50%──完全に工兵な不可知論者。「神の存在と非存在はどちらもなったく同等にありうる」。
・50%以下だが、それほど低くはない──厳密には不可知論者だが、無神論に傾いている。「神が存在するかどうかはわからないが、私はどちらかといえば懐疑的である。
・非常に低い蓋然性だが、ゼロではない──事実上の無神論者。「正確に知ることはできないが、神は非常にありえないことだと考えており、神が存在しないという想定のもとで日々を暮らしている。
・強力な無神論者──「私は、ユングが神の存在を”知っている”のと同じほどの確信をもって、神がいないことを知っている」
ユングのように、信じるべき適切な理由がなくとも信念をもちつづけれることができるのが、信仰の本質である。
私は、花の下にいる妖精たちが不可知であるというのと同じ程度でのみ、不可知論的なだけである。
PAPはこのスペクトラムには分類できないだろう。
懐疑論者が立証責任をもたなければならないという理由はどこにもない。
空飛ぶスパゲッティ・モンスター福音書』の例。
反証不能だがそうしたものが実在するという仮説が、実在しないという仮説と同列に扱えるなどとは、誰もが思っていない。
蓋然性のスペクトラムに沿って考えるという原則から神だけを除外するべき理由はどこにもない。

スティーブン・ジェイ・グールドは言う。
「化学は(その正当な方法によっては)、神が自然を監督している可能性があるかという問題のついて判決を下すことはけっしてできないのだ。私たちはそれを確認することも否定することもしない。端的に言って、科学者としてこの問題にはコメントすることができないのだ」。
ほとんど威張っているような、グールドの断言の口ぶりにみられる確信にもかかわらず、これはいったい何を正当化しようとしているのか?
グールドは、彼の本のなかでは評判がいいとはいえない『千歳の岩』において、あらんかぎりの努力をして、犬のように仰向けにひっくり返ってご機嫌をとるという芸当を見せている。
そこで彼は、「重複することのない教導権(nonoverlapping magisteria)」としてNOMA(ノーマ)という言葉をつくった。
宗教は栄えある賓客であり、科学は敬意を表してそっと立ち去らなければならないというのだ。
科学者が答えられない深淵な宇宙論上の疑問に対して、神学者はいかなる専門的知識をもたらすことができるのだろう。
科学は「いかに」という問いにのみかかわるが、神学のみが「なぜ」という問いに対処することができるというのは、うんざりするような陳腐な決まり文句である。
たしかに、量子論はすでに、科学の手がおよばない底知れぬ深淵の扉を叩いているのかもしれない。しかし宗教になぜそれができるのか。
私は、グールドが『千歳の岩』で書いたことの大半を本気で言っていたという可能性を断じて信じない。
あらんかぎりの手を尽くして、「いい顔」をしようとしたという点で有罪なのだ。
宇宙創成にかかわる超知性の存在または不在は、明白に科学的な問いである。
NOMAの全体的な要点は、それが双方向的な取り決めなのだということだ。

「お祈り大実験」というものがある。
病人のために祈ることがその健康を改善するという命題を実験的に厳密にテストしたのだ。
驚いたことに、自分が祈られていることを何らかの方法で知っていた人間と知らなかった人間のあいだでは差があった。
自分が祈りの受益者であると知っていた人間のほうが、知らなかった人間よりも厄介な事態により多く苦しめられたのである。
研究者の一人、チャールズ・ベテア博士は、「お祈りチームを呼ばなければならないほど私は重い病気なのだろうかと、不安がらせてしまったのかもしれない」と述べている。
この研究を認めないと言った神学者リチャード・スウィンバーンは、また、「苦しみは私に、勇気と忍耐を示す機会を提供してくれる」と言う。
スウィンバーンは、テレビ番組で、ホロコーストを、ユダヤ人に勇敢で高貴な人間になるすばらしい機会を与えたという理由で正当化しようと試みたことがあったのだ。
ボブ・バース神父はこう言っている。「信仰をもつ人なら、この研究は興味深いが、私たちは長いあいだずっと祈ってきたのであり、それが効くことを知っていると言うでしょう。祈りと霊性についての研究はまだ始まったばかりなのです」。私たちは頑張り続けるというだけのことなのだ。

ヒトラーと闘うためにソ連と協力しあったチャーチルローズヴェルトのように、進化論者は主義主張の違いを超えて、創造論と闘うために協力しなければならない」とマイケル・ルースは言う。
だが、本当の戦いは合理主義と迷信のあいだで繰り広げられているのだ。科学は合理主義の一形式に過ぎず、一方で宗教はもっともありふれた迷信の形式である。創造論は宗教の一症状にすぎない。
私はなにも、宥和的なロビー活動をしている同僚たちがかならず不正直だと言っているわけではない。
当面その問題を追求する必要はないが、宗教的問題についての科学者の公表された発言を理解しようとする人間は誰も、政治的な文脈を忘れないほうがいいだろう。

ドレイクの方程式では、宇宙でそれぞれ独立に進化した文明の数を推定するためには、七つの項目を掛け合わせなければならない。
それは不可知論の立場に立つことをきわめて妥当なものにする。
だが、現在ではいくつかの項目はより解明されている。分光器によって、項目の推計が、少なくとも定量的には改善された。
科学は不可知論の領土に、少なくとも確率論を武器にして切り込むことができるのである。
「地球外の聞き手に私たちの存在を宣伝するためには、どのようなことをなすのが賢明だろうか?」
周期的なパルスは、多くの現象によってつくりださるから、目的は果たせない。
私たちが地球外生命について知ることができるようになろうと、そうでなかろうと、神学者のあらゆる想像すら超えるほどに進んでいるため、神にも似たもののように思えるような、超人類的な異星文明が存在する、というのは大いにありえることである。
アーサー・C・クラークが言う。「十分に発達したテクノロジーは魔法と区別がつかない」。
この場合、もっとも進んだ異星人はいかなる意味で神ではないのか?
その違いは、性質ではなくその来歴のなかにある。
その異星人は進化的な過程の産物なのである。これは自然淘汰という「クレーン」によって理解することができる。




3. 神の存在を支持する論証

『神学の教授が、われわれの憲法に占めるべき場所はない』──トマス・ジェファーソン
13世紀にトマス・アクィナスによってなされた五つの「証明」は何も証明しておらず、空虚なものであることがたやすく暴露される。
最初の三つの論証はすべて、退行というアイデアに依拠しており、それに終止符を打つために神を引っぱりだしてくるが、神はその退行を免れるというまったく根拠のない仮定をしている。ついでながら、全知と全能が両立しえないことは、論理学者に気づかれずにすみはしなかった。
神を引っぱりだすよりも、物理的概念を引っぱりだしたほうが最節約的(もっとも少い仮定ですむ)である。
可能なかぎり最小の金の破片は、79個の電子の群れを付き従えた、きっかり79個の陽子とそれよりほんのわずかに多い数の中性子からなる一個の原子核である。
度合いからの論証に関しては、同じ論理で言うと、
「人間はうさん臭さの度合いが異なる。しかし私たちはうさん臭さと認められるものの完全な最大者とつき合わせることによってのみ比較をおこなうことができる。したがって、卓越して比類なくうさん臭い人間が存在するにちがいなく、私たちは彼を神とよぼう」
目的論的論証については、ダーウィンのおかげで、「私たちの知っているもので、目的をもって設計されないで設計されたように見えるものはない」というのは、もはや事実ではない。

「きっとぼくは神様がいることを証明できるよ」
「絶対、できないよ」
「だったら、できるかぎり、もっとも完全で、完全で、完全なものを想像してみてよ」
「オーケー、それからどうするの?」
「ところで、完全で、完全で、完全なものなんて実際にあるものなの?本当にあるの?」
「いいや、ぼくの頭のなかにしかないさ」
「でも、もしそれが実際にあったとしたら、それはもっと完全なものということになるだろう。だって、完全で、完全で、完全なものは、くだらないただの想像だけのものよりもずっといいにきまってるじゃん。これで、ぼくは神様がいることを証明したよ。ブッ、ブッ。無神論者なんてみんなバカヤロウだね」
アキレスと亀の話であるゼノンの「証明」を見破るのに、われわれはたいへん苦労しなければならなかった。
しかし、ギリシア人たちはアキレスが本当に亀を捕まえることができないだろうという結論をくださないだけの分別があった。その代わりに、それをパラドックスと呼び、のちの世代の数学者たちが説明してくれるようになるのを待ったのだ。
私自身の考えを言えば、現実の世界からたった一片のデータも見つけることなしに、重大な結論に到達するような論法には、深い疑いを抱く。
神の存在あるいは非存在は、「弁証法的手品」で決定するにはあまりにも大きすぎる問題である。

ベートーヴェンの晩期の四重奏曲は荘厳である。シェイクスピアソネットもそうである。しかし、そうした作品は神がいても荘厳だし、神がいなくても荘厳である。それは論証にならない。
モーツァルトを聴くことができるのに、なぜ神が必要なのか?」
ミケランジェロが巨大な科学博物館の天井画を描くように委託されていたとしたら、彼は少なくともシスティナ礼拝堂と同じくらい感動的な作品をつくりはしなかっただろうか。

人間の脳は第一級のシミュレーション・ソフトウェアを走らせている。
いわゆる「錯視」こそ、このことをあざやかに例証する現象である。
ネッカー・キューブもその一つである。
私は子供のころ一度、幽霊の声を聞いたことがある。鍵穴を吹き抜ける風のたてる音を素材にして、私の脳内シミュレーション・ソフトウェアが、厳粛に詠唱する男の言葉というモデルを構築してしまったのだ。
もでる構築というのは、人間の脳が非常に得意なことである。
奇蹟に関するデイヴィッド・ヒュームの簡潔なテスト法がある。
「立証しようとしている事実よりも、その証言がまちがっているほうがより奇跡的であるような種類の証言でないかぎり、いかなる証言も奇蹟を立証するには十分ではない」。

ロバート・シールリーは、東方の星、処女懐胎、王による赤子への拝跪、奇蹟、復活と昇天を含めて、イエス伝説の本質的な特徴のすべてが、地中海および近東地域にすでに存在した他の宗教から借用されているという経緯を示した。
ダ・ヴィンチ・コード』と福音書の唯一のちがいは、福音書が大昔のフィクションで、『ダ・ヴィンチ・コード』が現代のフィクションであることだけだ。

「知的な意味著名な人々の圧倒的多数はキリスト教を信じていないが、大衆に対してそのことを隠している。なぜなら、彼らは自らの収入が減ることを怖れているからだ」とバートランド・ラッセルは言う。
心理学者のベンジャミン・ベイト=ハラーミによると「科学におけるノーベル賞受賞者のあいだには、文学賞における受賞者の場合と同じく、彼らの出自集団に比べて、著しい度合いの不信心が見られる」そうだ。
アメリカの大衆全体の信心深さと、知的エリートの無神論の両極端ともいうべき対立がある。
信心深さはまた、科学への関心と負の相関を示し、政治的なリベラリズムと(強い)相関がある。
そして、英国の子供を研究している社会学者たちの研究結果からは、両親の宗教的信念から離脱できるのは12人に1人しかいないことがわかっている。

なぜ私たちは、「神を喜ばせたいならば、しなければならないのは彼を信じることだ」という考えを、そんなに簡単に受け入れてしまうのだろう?
私たちは聖書を信じると宣誓するという決定をすることができるが、信じるということを自分の意思で決定することはできないのだ。

スティーヴン・アンウィンの『神の蓋然性』でのベイズ流の論証がある。
この本は、神の存在を冗談半分の事例研究として使った「ハウツー」マニュアル、一種の「サルでもわかるベイズの定理」といった類と見るほうがいいだろう。




4. ほとんど確実に神が存在しない理由

『さまざまな宗派の聖職者たちは、・・・・・・科学の進歩を、魔女が陽の光の到来を怖れるように怖れ、自分たちの生業を成りたたせている詐術の一部を手放さなければならないことを告げる致命的な予兆に顔をしかめる』──トマス・ジェファーソン
ありえなさからの論証は、正しく展開されれば、神が存在しないことの証明に近づいていく。
「考えてもみろよ、地球に戻ればいまはちょうど春なんだ!」。
このどこがまちがっているのか、あなたはただちにはわからないかもしれない。私たちには自分が暮らしている北半球優越主義が無意識のうちにあまりにも深く染み込んでいるのだ。場合によっては北半球在住でない人g念にさえ、それはいきわたっている。
南極が上になった世界地図を北半球の学校の壁に貼れば、どれほどすばらしい意識高揚の道具になるだろう。
自然淘汰は同じように、「小さなものをつくるためには、大きくて高級で巧妙なものが必要だ」という最古の通念をくつがえした。
意識の高揚は、私たちの虚栄心を縮小させ、分相応の場所に位置づけてくれる。
地質学もそうである。
自然淘汰を有神論と結びつける有神論者たちは、私の変わらぬ驚きの種だ。
アトキンスは一歩ずつ神の仕事の量を減らしていき、最後にはなすべきことがまったくなくなる。ということは、わざわざ存在する必要はないのではなかろうか。
「もし神が存在していることがわかったとしたら、きっとそれは邪悪な存在じゃないだろう。悪くとも、せいぜい、劣等生というところか」。

「設計は偶然に対する唯一の代案ではない。自然淘汰のほうがよりすぐれた代案である」。
自然淘汰が累積的な過程であり、これが、ありえなさという問題を小さな断片に分割するのである。

還元不能な複雑さを体現する特定の実例を探すというのは、根本的に非科学的な話の進め方だ。それは「現在の無知からの論証」の特別な一例でしかない。
創造論者たちは必死に現在の知識や理解のすきま(ギャップ)を探し、見つかるとそれは神が満たすものと決めつける。
逆に、科学にとって無知を認めることは科学的営みの本質的な一部で、将来克服されるべき難題として、無知を歓迎しさえする。
「ほとんどの科学者は、すでに発見してしまったことには退屈してしまう。彼らを駆りたてるのは無知なのである」。
宗教の本当の意味で悪い影響の一つは、理解しないままで満足するのが美徳だと教えることなのである。
私が問題にしたいのは、創造論者が科学の不確実な部分を衝く戦略をとってくることだ。一時的な不確実さを当然のように喜ぶというのは科学にとって当たり前なことにもかかわらずだ。
研究テーマとするために自分たちが無知である領域を探すという科学者たちの方法論的な必要と、欠席裁判による勝利を主張するために無知の領域を探すというID(インテリジェントデザイン説)の必要が、不幸にも一致してしまうのである。
それは科学的知識にあいだに空いた隙間に雑草のようにはびこるのだ。
それは化石記録における「隙間」に関しても同じことだ。
自然現象を見て抱いた個人的な困惑から、性急に超自然を引き合いに出すところまで一直線に飛躍するのは、手品師がスプーンを曲げるのを見て「超常現象」だという結論に飛びつくのと、愚かさにおいて変わるところがない。
大型の動物に車輪があれば、還元不能な複雑さの本物の例になるだろうと私は思うし、おそらくは、だからこそそんなものが存在しないのだろう。車輪はでこぼこの土地では役にたたない。
還元不能な複雑さを実証するための鍵は、その部分のどれ一つとして、それ独自では何の用もなさないと証明することである。
アウグスティヌスは率直にこう言っていた。
「好奇心という病である。それは、私たちを自然の秘密に挑み、発見させるように駆りたてる。そうした秘密は私たちの理解を超えたものであり、私たちにとって何の役にも立たないのだから、知りたいと願うべきではないものなのだ」。
神を何かについての説明とすることは、「ワカンナイ」という言葉を儀礼的なスピリチュアリズムで粉飾しているにすぎない。

隙間神学者たちは最後の希望を生命の起源に託す。
人間原理というものがある。
宇宙論において、宇宙の構造の理由を人間の存在に求める考え方である。
生命が自然発生的に生じるかもしれない蓋然性について、もっとも悲観的に計算しても、統計学的な論証によって、創造論は完璧に粉砕される。
また、生命の進化については、生命の起源とはまったく異なった事例である。
それは自然淘汰によって説明できる。

私たちは自分に好都合な惑星にすんでいるだけでなく、自分に好都合な宇宙にすんでもいる。
物理法則や物理定数がほんのわずかに変わっただけで、宇宙は生命が存在できないような形にできあがってしまうのだ。
宇宙に関しては多くの説がある。
本当の意味で法外である「神がいる」という仮説と、見かけ上法外なように見える多宇宙仮説のあいだの決定的な相違は、統計学的なありえなさの相違である。

19世紀とは、学識のある人間にとって、処女懐胎のような奇蹟を困惑を感じることなしに信じるという態度を受け入れることができた、最後の時代だった。


神はほぼ間違いなく存在しない。これが、本書のこれまでのところの結論である。




5. 宗教の起源

『時間・痛み・困窮というコストをともなうにもかかわらず、普遍的に見られる過剰な宗教的儀礼は、進化心理学者にとって、マンドリルの赤いお尻のように鮮やかに、宗教が適応的なものであることを示すものであるにちがいない』──マレク・コーン

ダーウィン主義の論理は、たとえそうなる正確な道筋がわかっていなくとも、もしその生物がそうしなければ、できるだけ多くの子孫を残すという意味で彼らが遺伝的成功を収める統計学的な見通しが損なわれるだろうと考えるべき特別な理由をもっている。
宗教的行為は、大がかりな、蟻浴や東屋づくりの人間版に等しい。
宗教を信じることで得られる利益とは何なのだろうか?
「動物の行動は、その行動の『ための』遺伝子が、その行動をおこなう当の動物の体内にたまたまあるかどうかかかわりなく、その遺伝子の生き残る可能性を最大化する傾向がある」。
宗教的観念がいくぶんとも遺伝子に似たやり方、つまり自己複製子として振る舞うかぎりにおいて、それは宗教的観念そのものの利益のためだけに働いているのかもしれない。
私たちはどうして生きのびる術にこんなにも賢明であると同時に、明らかに役に立たないような宗教行為をするほど愚かでいることができるのだろうか。
宗教的な行動は、異性愛的な行動がそうであるというのと同じ意味で、人類に普遍的なものと呼べる。

宗教的な信念がストレス性の病気から人間を守るという証拠が少数ながらある。
だがそれは、酔っぱらいのほうが素面の人間よりも幸せだという以上の意味はない。
プラシーボ効果としての可能性もある。だがローマ・カトリック教徒が半永久的な病的罪悪感によってさいなまれることで健康が改善されるというのは信じがたい。
宗教は大きな現象であり、それを説明するためには大きな理論が必要である。
至近因と究極因との区別がある。
内燃機関でいうと、至近因とは点火プラグであり、究極因とは何のために爆発させるのかということである。
私の最大の関心事は、ダーウィン主義にもとづく究極因的説明である。
ダーウィン主義者は、「宗教は支配階級が社会の底辺層を隷属させるための道具である」といった政治的な説明にも満足しない。なぜ人々は宗教の魅力に弱く、意のままにされるのか、そのわけが知りたいのだ。

前提として郡淘汰について述べておく。
ダーウィンのモデルは、英国においてハイイロリスがキタリスを駆逐して広がったのに似ている。つまり、真の群淘汰ではなく、生態学的な種の置換と呼ぶべきものである。

ダーウィン主義的な生存価について憶測をめぐらすときには「副産物を考える」必要があると私は思っている。
ガには「焼身自殺行動」という名前を付けられた行動がある。だが実はこの行動は自殺ではない。問いの設定が間違っていたのである。
ガは人工的な光を想定していないため、それを月の明かりと誤認して、そういった行動を導いてしまうのだ。
この「誤作動」の副産物によって私たちは法則の存在に気づくのだ。
では、人間でいうとどうなるだろうか。
宗教的な行動は、このような誤作動の不幸な副産物ではないだろうか。
そう考えると、私たちの祖先の時代に自然淘汰によって選ばれた性向は、宗教そのものではなかったことになる。
私のもっている仮説は、子供に関するものである。
人間は先行する世代の蓄積された敬虔によって生きのびる強い傾向をもっており、その経験は子供に伝えられる必要がある。
控え目に言っても、「大人が言うことは、疑問をもつことなく信じよ。親に従え。部族の長老に従え、とくに厳粛で威圧的な口調で言うときには」という経験則をもっている子供の脳に淘汰上の利益があるはずだ。
だがしかし、それは裏を返せば、「奴隷のように騙される」ことにつながる。そのような姿勢の逃れられない副産物として、その人物は心のウイルスに感染しやすくなる。
そこから導かれる結果として、信じやすい人間は、正しい忠告と悪い忠告を区別する方法をもたないということになる。「ワニの潜むリンポポ川に足を踏み入れるな」と「満月の夜には仔羊を生け贄にしろ」の違いがわからない者が出てくるのだ。
「この子の最初の七年間を私に与えてくれれば、一人前の聖職者にしてみせましょうと豪語するイエズス会士の言葉は、言い古された文句ではあるが、いまも変わらず真実である。
私はむしろ、宗教はそういった傾向の多岐にわたる、いくつもの副産物と言いたい。なぜなら世界の宗教は共通性をもちながら、実に絢爛たる多様性を誇るものだからである。

進化心理学者たちは、脳は、一連の専門的なデータ処理の必要性に対処するための器官の集合ではないかと言っている。
ポール・ブルームは、「私たち人類、ことに子供は、生まれながらの二元論者ではないだろうか」と言う。
「私の眼の背後のどこかに腰掛けている私がいて、少なくともフィクションでは、誰か他の人間の頭に移ることができる」という考えは、一元論者であることについていかに知的自負を覚えていようと、私や他のすべての人間に深く染みこんでいるのである。
このことは、二元論への性向が脳につくりつけられたものであることを示唆しており、宗教的な観念を受け入れるための、生まれながらの素地を提供していると、彼は言うのである。
子供はとくに、あらゆるものに目的を付与する。それは目的論と呼ばれる。子供はうまれつきの目的論者であり、多くの人間は成長しても、そこから完全に抜け出すことはできない。
生まれつきの二元論と生まれつきの目的論があいまって、適切な条件が与えられれば、私たちはたやすく宗教へ走ってしまう。それはガが火の中へ飛び込むのと同じである。
ではガの光コンパスの効能に当たるものは何なのか?
私たちが実体の行動を理解し、予測しようと試みるときに採用する「姿勢(スタンス)」としての効能である。
志向姿勢が、危険な状況や重大な社会的状況における意思決定を迅速化する脳のメカニズムとして生存価をもつということだ。
デザイン姿勢と志向姿勢は、脳の有益なメカニズムであり、捕食者や潜在的な配偶者といった、本当に生き残りにかかわる実体の行動の先取りを迅速におこなうためには重要である。
だがこれは無生物に対して憤りを抱くといった、「誤作動」をしてしまうことがよくある。
これ以外にも副産物であるという案は多く提案されている。
デネットは、「私たちの恋に落ちるという傾向の副産物だ」と言っている。
恋に落ちることに、その状態に高度に特異的で特徴的な神経活性物質(実際には自然の麻薬)の存在を含めて、独特な脳の状態がともなうことを示した。
恋に落ちることと宗教にはまることを比較した場合、多くの部分で共通点が見いだせる。
脳のメカニズムの誤作動の副産物は、神との恋に落ち、そのような愛に動機づけられた不合理な行為をおこなうことである。
生物学者のルイス・ウォルバートの言う論点は、人が不合理なほど強い確信を抱くのは、移ろいやすい心に対する防衛策なのだということである。
狩りや道具製作の手順が変わりやすければ、進化において不利益になっただろう。動揺するよりは不合理な信念をもちつづけることがいいということである。
私は、宗教も言語と同じように、十分に恣意的な発端から十分なランダム性をともなって進化し、いま私たちの眼の前にある、あきれるほどの豊かな多様性がもたらされたのだと推測している。

宗教に関してのことなら、真実とは、単に生きのびてきた意見のことにすぎない。──オスカー・ワイルド
ミーム説が宗教という特別な事例でうまく機能するか問うてみる。
細部は奇妙な具合に横道にそれることがあるかもしれないが、本質は変異することなく伝え渡されていくのであり、それが、遺伝子のアナロジーとしてミームが作用するのに必要なすべてなのである。
折り紙の伝言ゲームの例。ここには自己正常化機能があり、それは「言葉」にも同じように存在する。
ミーム複合体は、それぞれは単独ではかならずしもすぐれた生き残り能力をもたないが、ともに複合体を形づくる他のメンバーの存在下ではうまく生き残れるようなミームのセットである。
宗教的観念のなかには、一部の遺伝子と同じように、絶対的なメリットをもつがゆえに生き残るものがあるかもしれない。
肉体が死んでも生きのびる。殉教はすばらしい。異端は死刑だ。神を信じるのは史上の美徳だ。信仰は美徳だ。宗教は尊重しなければならない。理解するのではなく、神秘と呼んで充実感を得る術を学べ。芸術は自己複製する宗教的観念の徴である。
これらのいくつかはどんなミーム複合体のなかでも繁栄するだろう。
ひょっとしたら、イスラム教を肉食獣の遺伝子複合体に、仏教徒を草食獣の遺伝子複合体に喩えられるかもしれない。「よい」「わるい」ではないのだ。

カーゴカルト(積荷信仰)の例。
太平洋のメラネシア諸島およびニューギニアのカルトとキリスト教の共通点。
どのカルトもパターンとしては同じである。
よく似たカルトが互いに無関係に一斉に咲きほこるというのは、人間の心理一般に何か統一的な特徴があることをうかがわせる。
カーゴカルトは、宗教がほとんど何もないところから生まれてくる道筋についてのモデルを提供してくれる。
カーゴカルトは互いに似ているだけでなく、歴史の古い宗教とも似ている。




6. 道徳の根源──なぜ私たちは善良なのか?

『奇妙なのは、ここ地球上における私たちの状況である。私たち一人一人は、わけも知らないまま、束の間この星に滞在するだけだが、ときには、目的を察知しているかのように思える。けれども、日常生活の観点からすれば、私たちにわかっていることが一つだけある。すなわち、人間はほかの人々のためにここにいるということである。──とりわけ、その人たちの笑みと安寧に、私たち自身の幸福がかかっている人々のためにである』──アルバート・アインシュタイン

宗教がなければ人は善良でいられない、あるいはそれを望めないのだろうか。
私の元には悪意に満ちた手紙も来ることがある。そのような(キリスト教徒にはあるまじき)野蛮な嫌がらせは、キリスト教の敵とみなされた人間がごくふつうに体験することである。
数冊の本は、私たちがもつ正邪の感覚は、ダーウィン主義的な人類の過去に由来するものであった可能性があると主張している。
ダーウィン主義でいう自然淘汰の単位(つまり利己主義の単位)は、個体でも、集団でも、種でも、生態系でもなく、利己的な遺伝子である。
その遺伝子は個体が利己的になるようにプログラムする。
血縁に対する利他的行動や、互恵的利他行動。
この二本の柱の上に載る二次的な構造としての噂話のよる「評判」、というもの。
単にきちんとお返しをするだけでなく、あの人はきちんとお返しをしてくれる人だという評判を育成することにもダーウィン主義的な生存価がある。
ポトラッチ効果という、どっちがより破滅的に気前のいい饗宴をするかで競いあう風習もある。これはアラビアヤブチメドリにも見られる。
「道徳的」になる理由としてダーウィン主義としては四つ確認できた。
遺伝的な血縁、互恵性、評判の獲得、広告効果。
先史時代のほとんどを通じて、人類は四種類の利他行動すべての進化を強く助長したと思われる条件のもとで暮らしていた。
欲情を感じるのと同じように、憐れみを感じるのを抑えることができないのではないだろうか。これはメカニズムの誤作動である。だが、これは悦ばしく、貴重な誤りである。
どうか早合点して、ダーウィン主義による説明が同情や寛大さといった高貴な感情の意義を失わせたり、貶めたりするものだと思わないでほしい。
性欲は、言語文化というチャンネルを通じて発揮された場合、偉大な詩や演劇として姿を現す。
性的な熱情(情欲)は、人間の野心や闘争の相当大きな部分の背後にある原動力であり、その発露の多くは人間のメカニズムの誤作動の結果である。
性的情熱という原始的な脳の規則が、文明のフィルターを通過して『ロミオとジュリエット』に描かれたラヴ・シーンとして具現化するのとまったく同じように、身内かよそものかを区別する原始的な脳の規則は、キャピュレット家とモンタギュー家の長年にわたる争いというかたちをとって現れる。やがて、利他主義と思いやり(共感)の規則が最後に誤作動して、いさかいの罰を受けた両家の者たちが和解するというラストシーンとなって、私たちを感動させるのだ。
道徳が宗教に先行する根源にあるのならば、何らかの普遍的性質があるだろう。
ハウザーによる暴走する路面電車のジレンマの例。
これはきちんとした宗教をもたないパナマの小さな部族でもその道徳的判断は同じだった。
また無神論者と信仰者の間にも統計的に有意な差は存在しなかった。

私はかならずしも、無神論が道徳性を高めると主張しているわけではないが、無神論にともなう倫理体系であるヒューマニズムは、たぶん高まるだろう。

私たちはそれぞれが善についての自分の判断をつくり、それに従って行動することができるのだ。
倫理学者は、善悪について考えることのプロだが、
「道徳的な教えは、かならずしも理性によって構築されているわけではないが、理性によって弁護できる」ということで意見は一致している。




7. 「よい」聖書と移り変わる「道徳に関する時代精神

『政治は何千人も殺してきたが、宗教はその何十倍もの人間を殺してきた。』──ショーン・オケーシー
自らの道徳の根拠を文字通り聖書におきたいと願う人々は、聖書を読んだことがないか、理解していないかのどちらかだと言わざるをえない。
ロトとソドムの人々との物語や「士師記」第19章では、女性蔑視が声高に表明されている。
自分の選んだ民がライヴァルの神に気を引かれたときにつねに見せる、神の途方もない激怒は、恋愛における最悪な種類の嫉妬とこれ以上はないというほどよく似ており、現代の道徳家に、これは到底役割モデルにはできないなという印象を与えるにちがいない。
ヤハウェのライヴァルであるバール神は、浮気な崇拝へと誘う永遠の誘惑者であったように思われる。
聖書の、ヨシュアによるエリコの破壊や約束の地全般への侵略の物語は、道徳的には、ヒトラーポーランド侵略やサダム・フセインによるクルド族やマーシュ・アラブ族の大虐殺と区別しがたいものである。
安息日に働いたということのみによって、石打ちによる死刑になった男もいた。
「宗教は人間の尊厳に対する侮辱である。宗教があってもなくても、善いことをする善人はいるし、悪いことをする悪人もいるだろう。しかし、善人が悪事をなすには宗教が必要である」。
ノーベル賞を受賞したアメリカの物理学者スティーヴン・ワインバーグは言う。
私が、「イエスに味方する無神論者」と題する論文を書いたのは、理由のないことではない。
安息日は人間のためにつくられたのであり、安息日のために人間がつくられたわけではない」というイエスの言葉は、賢明な格言として一般化されている。
ここではとくに、キリスト教の中心的な教義である「原罪」についての「贖罪」についてお話しよう。
原罪そのものは、『旧約聖書」のアダムとエバ(イヴ)の神話から直接に由来するものである。
宗教が、聖なるシンボルとして、拷問と処刑の道具である十字架を借用しなければならないというのは、よくよく考えてみれば、驚くべきことである。
すべての子供に、生まれてくる前にさえ、はるかに遠い祖先の罪を受けつぐように強要するというのは、いったいどいういう種類の倫理哲学なのだろうか?
もしイエスが私たちすべてを救うために、裏切られ、そしてその後殺されることを望んでいたのなら、自分たちは救われたと考えている人々が、長きにわたってユダやユダヤ人に八つ当たりしてきたのは、かなり不当なことではないだろうか?
「贖罪」とは、悪質で、サドマゾヒズム的で、不快なものなのである。
聖書には、とりわけ嫌な側面がある。
旧約聖書』と『新約聖書』の両方で一見推奨されているように見える、他者に対する道徳的配慮の多くが、もともとは非常に限定されたもので、そこに属する個人が帰属意識をもちやすい、いわゆる内集団に対してのみ適用されるべく意図されたものであったことを、キリスト教徒はほとんど認識していない。
「汝の隣人を愛せよ」は「ほかのユダヤ人を愛せよ」という意味でしかなかったのである。
「汝殺すべからず」もユダヤ人のことであって、異教徒に対してではない。

ヨシュアの大虐殺が古代の中国の王国のことと置換えられれば、不同意になるのだ。
ケン・スミスによれば、もし「ヨハネの手紙」がマリファナをやっているときのものなら、「黙示録」はLSDをやっているときのものだと言えよう。
宗教は疑いの余地なく、不和を生みだす力であり、これが宗教に対して向けられる主要な非難の一つである。
宗教は、内集団/外集団の対立を巡る敵意と確執を物語るラベルであり、肌の色、言語、あるいは好きなサッカー・チームといった他のラベルよりもかならずしも悪いとはいえないが、ほかのラベルが使われないときに、しばしば使われる。
宗教は、誰を抑圧し、誰に復讐するかと判断するかを判断するラベルになるのである。
内集団を好み、外集団を避けるという人間の自然の傾向に、意図的かつ洗練された形でつけ込むのが宗教の方法である。

哲学者のジョン・ロールズはこう言う。
「つねに、自分が順位序列の最上位にくるか最下位にくるかまったくわかっていないものとしてルールを考案せよ」。食物を切り分けた人間が最後の一切れを取るというものである。
私たちほとんどすべてが、聖書の時代以来、大きな道のりを歩んできた。奴隷制の消滅。女性参政権。何が正しくて何が悪いかという態度において大きな変化をとげてきたのだ。
どんな社会にもどことなく謎めいた見解の一致が存在し、それが数十年単位で変化する。それに、時代精神ツァイトガイスト)という言葉をあてようと思う。
道徳的に許容できることに関する基準には、着実な移行があるように思われる。
この数十年間に何かが移り変わった。それは私たちすべての中で移り変わったのであり、宗教とはなんの関係もない。
侮辱的な蔑称にもその移行はある。
偏見は実際に、書かれた文章の年代を暴露する証拠となるのだ。
なぜそれほど多くの人々のあいだで同調が見られるのだろう?
それはおそらく重力のような単一の力ではなく、ムーアの法則のように、さまざまな力の複雑な相互作用なのであろう。
そう考えると、何が善であるかを判断するのに神が必要だという主張は突き崩されるはずだ。

無神論は、一貫して人々を邪悪な行ないに向かわせるのであろうか?
個々の無神論者は悪事をなすかもしれないが、彼らは無神論の名において悪事をなすわけではない。無神論の名のもとで戦われたいかなる戦争も、私は思い浮かべることができない。
戦争をおこなう動機としてより妥当な候補と言えるのは、自分たちの宗教が唯一本物の宗教であるという不動の信念なのである。
宗教的信念が危険なのは、その他の点では正常な人間を狂った果実に飛びつかせ、その果実が聖なるものだと思い込ませるところにある。
逆の言い方をするなら、信仰のない世界をつくるために戦争に行く者がどこにいるか、ということだ。




8. 宗教のどこが悪いのか? なぜそんなに敵愾心を燃やすのか?

『宗教は実際に、毎日毎秒あなたのするすべてのことを観察している目に見えない──天空で暮らしている──人間が存在すると人々に信じこませてきた。そして、その目に見えない人間は、あなたにしてほしくない10の事例の特別なリストをもっている。そしてもしあなたがその10のうちのどれかをおこなえば、彼は火や煙、灼熱、拷問、苦悩などに満ち溢れた特別な部屋をもっていて、あなたをそこへ生きたまま送り込み、時の終わりがくるまで永久に苦しめ、焼き焦がし、息を詰まらせ、泣き叫ばせる・・・・・・だが、彼はあなたを愛しているのだ!』──ジョージ・カーリン
宗教上の原理主義者たちは、自分は聖典を読んだのだから自分の考えは正しいという考え方をする人たちで、何をもってしても自分たちの信仰が変わることがないと、あらかじめ知っている。聖典の真理はいわば論理学でいう公理であって、推論の過程によって生みだされる最終産物ではないのだ。
対して、科学では、科学書がまちがっているときは、最後には誰かがそのまちがいを発見し、その後の書物によって訂正される。
そこで、科学者のそういう”証拠信仰”こそ、原理主義的な信仰の同じ類の事柄だと言い出す者がでてくる。
「真実」によって何を意味するかといことを何らかの抽象的な方法で定義するという話になれば、ひょっとしたら、科学者は原理主義者かもしれない。しかし、ほかの誰もがそうである。
科学者として、私が原理主義的な宗教を敵視するのは、それが科学的な営為を積極的に堕落させるからである。
私は宗教がカート・ワイズになしたことのゆえに、宗教に反対するのだ。原理主義的な宗教は、おびただしい数の、無辜の、善意で熱意のある若者の心を荒廃させることに専心している。

アラン・チューリングが同性愛行為が犯罪的不法行為であると有罪宣告されたあと、自殺を遂げた例。
同性愛に対する態度は、宗教的な信念によって吹きこまれた道徳心がどのようなものであるかについて、多くのことを明らかにしてくれる。

ある種の宗教的精神にとっては、顕微鏡でしか見えない細胞の塊を殺すことと、れっきとした大人の医師を殺すことのあいだにある道徳上のちがいというものが、どうにも理解しがたいものであるらしい。
強硬な中絶反対論者のほとんどすべてが、きわめて宗教色の強い人間である。
神経系をもつ後期杯が中絶されて苦しむとすれば、彼らが苦しむのは人間だからという理由によってではない。いかなる齢のものであれ、ヒトの胚が同じ発生段階にあるウシやヒツジの胚よりも苦しむと想定すべき一般的な理由は何もない。そして、ヒトであろうとなかろうと、あらゆる胚が、屠畜場にいる成体のウシやヒツジよりはるかに少い苦しみしか感じないと想定すべき、正当な理由がある。

ベートーベンの中絶についての都市伝説の例。

その他の点ではまともな人間を、ロンドンの自爆テロのような狂気に駆りたてることができるほど強い力は、宗教的な信念以外にない。ビン・ラディンを「悪」と呼ぶだけでは、そのような重要な問いに対して適切な答を与えるという責任から逃げだすことにしかならない。
どれほど誤って導かれていようとも、彼らは中絶医を殺すキリスト教徒の殺人犯と同じように、自分たちが正義であり、彼らの宗教が語りかけることを忠実に追求しているのだと感じることによって、衝き動かされているのである。
しかし、私たちにとってもっとも理解がむずかしいのは、「これらの人々は、自分たちが信じているということを、実際に信じている」ということである。
私たちの宿題は、宗教上の過激主義を責めるのではなく、宗教そのものを非難すべきだということなのである。
ヴォルテールは言う。
「不条理なことをあなたに信じさせることができる人間は、あなたに残虐行為にかかわるようにさせることができる」。
宗教上の信念であるというだけの理由で尊重されなければならないという原則を受け入れているかぎり、私たちは自爆テロビン・ラディンの信念を尊重しないわけにはいかない。その原則は、放棄しなければならないのだ。
本当の意味で有害なのは、子供に信仰そのものが美徳であると教えることである。
彼らは子どもたちを宗教学校に並ばせ、列をつくって座らせ、聖典のあらゆる言葉を教え込まれるあいだ、頭のおかしくなったオウムのように、その無垢な小さな頭をリズミカルに上下に振るようにさせるのである。信仰とはきわめて危険なものになる可能性を秘めたものであり、罪もない子供の抵抗心のない心に、意図的にそれを植えつけるのは重大な間違いである。




9. 子供の虐待と、宗教からの逃走

『どの村にも、灯りをともす教師と、灯りを消していく聖職者がいる。』──ヴィクトル・ユーゴー
19世紀イタリアでは、洗礼を受けたという一事の理由のみによる、聖職者の子供の誘拐は珍しいものではなかった。
カトリック教会は、どんな人間がどんな人間に洗礼をほどこすことも許していたのだ。それは今でも同じである。
彼らは保護者気取りだったのだ。
宗教上の信念に乗っ取られた精神は、往々にして、人間がもつ当たり前の感情に対する感受性が鈍くなりがちである。
宗教上の事柄について自分の意見をもつにはあまりにも幼すぎる子供に「~教の子供」というラベルを貼るのは、やはり一種の児童虐待ではないだろうか?

私に手紙をくれた女性はカトリック教徒として育てられた。
彼女は、成熟した大人になって教会のことを思い返してみると、一方は身体的、一方は精神的な児童虐待と言える二つの例では、後者のほうがはるかに悪辣だった、と書いてある。さらに、
「司祭に猥褻行為をされたことは、単に(七歳の少女の心から見て)「気持ちが悪い」という印象を残しただけでしたが、プロテスタントである友達が地獄へ行ったのだという記憶は、ゾッとする、計り知れないほど怖いものでした。
この女性の例は、子供の心理的な虐待が身体的な虐待よりも強い影響をもつことがありうることを示している。
地獄の再現は、それが本当にある可能性があまりにも小さいことを考えるからこそ、その説得力のなさとつり合いをとるために、まったくじつに、ふるえ上がるほど怖いところだと宣伝し、何らかの抑止効果をもたせなければならないのだろう。
グループからの離脱について、他の女性が答えている。
「離脱の過程は、なみたいていではなくむずかしいのです。だって、自分が築き上げた社会的なつながりを丸ごと、じぶんを 育っててくれた社会システムをすべて捨てようというんですから。長年にわたってもちつづけた信念体系を置き去りにしていこうというんですよ。家族や友人を捨てなければならないこともめずらしくありません。・・・・・・そうすればもはや自分は、その人たちにとって本当に存在しなくなってしまうのです」。

私は自分の両親が、子供には何について考えるかよりもむしろ、どのように考えるかについて教えるべきだという主義の持ち主出会ったことに感謝する。子どもたちはそうすることによって、自分で判断するだろう。
ハンフリーは、子供がまだ幼く、傷つきやすく、保護が必要な状態にあるかぎり、真に道徳的な後見者とは、子供が判断できるだけ十分に大きくなったとき何を選択するだろうかと率直に推し量ろうとする人のことではないかと述べている。
それを判断するには幼すぎる子供に対して、自分たちの信念を押しつけることは、非難されることである。
子育てに関して、多様性という観点から親の教育権を留保するのに、宗教が理由となるのなら、同じような資格をあたえられるべき世俗的な信念はないのだろうか?
「多様性」という祭壇に、宗教的電燈の多様性を保存するという名目で子供を生け贄に捧げることについては、なにかしら愕然とするほどに尊大であると同時に、非人間的なものがある。
多様性は美徳かもしれないが、ゆきすぎて狂った多様性も存在するのだ。

小さな子供がいずれかの特定の宗教に属しているというラベルを貼られているのを耳にしたときに、私たちの誰もが顔をしかめるようであるべきだと、私は思うのだ。
われわれの社会は、「プロテスタントの子供」「ユダヤ教徒の子供」「イスラム教徒の子供」は当たり前だと言うのに、保守主義の子供、リベラルな子供、民主主義的な子供といった表現をするのは許されないという途方も無い考え方なのだ。

英文学の教師たちは、聖書の教養が英文学を理解するうえで不可欠だという点で圧倒的な意見の一致を見ている。
だが、かけがえのない文化的遺産との絆を失うことなしに、神への信仰を放棄することは可能なことなのである。




10. 大いに必要とされる断絶?

『100インチの望遠鏡を通してはるか彼方の銀河をのぞきこむ。一億年前の化石や50万年前の石器を手にもつ。グランドキャニオンのはてしない空間と時間の深淵の前に佇む。あるいは宇宙創造の様相をじっと凝視して瞬きもしない科学者の言葉に耳を傾ける。そういったこと以上に、魂を揺さぶることができるものが何かあるだろうか?これこそ深く聖なる科学なのだ。』──マイケル・シャーマー
宗教の慰めと霊感について、この最終章で述べる。
予行演習として子供に見られる「想像上の友達」という現象から始めたいと思う。この現象には宗教上の信念と似たところがあるというのが私の考えである。
宗教はそもそも、人生において子供が「想像上の友達」を諦める瞬間を何世代をもかけて徐々に引き伸ばしていくことによって進化したのだということはありえるのだろうか?
完璧を期すために、まったく逆の可能性も考察しておくべきだと思う。
二分心の崩壊が歴史上突然に起きたのではなく、幻覚の声と亡霊が現実のものではないと気づく瞬間が、徐々に子供時代に向かって押し下げられていったとは考えられないだろうか。
神が「想像上の友達」の祖先であるとか、あるいはその逆だとかいうふうに扱ったりせず、むしろ、どちらも同じ心理学的性向の副産物だとみなすほうがいいのかもしれない。
この考察から、神が慰めを与えるというのを認めたとして、その宗教が正しいということにはならない。
「Xは真実である」と「人々がXが真実であると信じるのが望ましい」のあいだのちがいがわからないらしい人があまりにも多いのは驚くべきことである。
私は、控え目に言っても、超自然的な宗教などなくとも幸福で充実した人生を送ることができるという主張をもって、本書を締めくくるつもりである。
バートランド・ラッセルのエッセイにはこう書いてある。
「昔ながらの人を導く神話のぬくぬくした世界に、科学によって開けられた窓から冷たい風が吹きこんで、たとえ私たちを震え上がらせたとしても、最終的には、新鮮な空気が活力をもたらし、広大な空間はそれ自体のすばらしい輝きをもつようになる」。
私のラッセルへの無意識の賛辞である。
「無知という”安心毛布”くるまれて見れば、荒れ果てて寒々とした光景に思えるかもしれないが、この生命の見方には、たんなる壮大さ以上のものがある」。
偽りの信念は、その幻想が崩壊する瀬戸際まで、あらゆる点で真の信念に比べて遜色ない慰めを与えることができる。
老人ホームの運営に生涯にわたってかかわってきた看護師は、長年にわたる観察の結果、死をもっとも怖れるのが、信仰をもった人間であることに気づいた。
私たちの人生が、意味があり、充実した、すばらしいものであるのは、そうするように自分が選んだからである。これが真の大人の見方である。

多くの無神論者が私よりももっとうまく言ってきたように、私たちがたった一つの命しかもたないという知識は、命をいっそう貴重なものにするはずだ。
もし神の消滅が隙間を残すのであれば、それぞれの人がちがったやり方でそこを埋めるだろう。
私たち一人一人は、自分の頭のなかに、自分がいる世界のモデルを築き上げる。世界の最小モデルは、私たちの祖先が慣れ親しんでいた世界、すなわち、中くらいの大きさの物体が、互いに中くらいの相対速度で動いている三次元の世界に、もっとも熟達したものである。予想外のおまけ(ボーナス)として、私たちの脳は実は、祖先が生き残るために必要とした凡庸な功利主義的モデルよりも、はるかに豊かな世界モデルを収容できるほど強力なものであった。芸術と科学は、このおまけの暴走がもたらす現れである。

私たちはブルカのようにとても細いスリットを通して世界を見ている。
可視光線は、長波側の電波から短波側のガンマ線までの広大な暗やみのなかで、明るく輝く隙間(スリット)である。それに対するブルカはとてつもなく巨大なものになる。
科学が私たちのためにしてくれるのは、この窓をひろげることだ。あまりにも大きくひろげたため、私たちの体を閉じこめていた黒の衣裳はほとんどすっかり脱げ落ち、私たちの感覚はひろびろとしてワクワクするような自由にさらされるのである。
昆虫の眼は、私たちと同じような幅のスペクトルの窓をもっているが、ブルカのほんのわずか高い位置についている。昆虫は赤は見えないが、紫外線は私たちよりも広い範囲を見ることができる。
私たちの想像力は、祖先が慣れ親しんでいた狭い中間領域の外にある距離に対処するには、わびしいほどに備えを欠いている。私たちの想像力はkまだ、量子の近くに侵入できるだけの武器をもっていないのだ。
常識は私たちの期待を裏切る。
なぜなら、常識は、極端に速く動くものも、極端に小さなものも、極端に大きなものも存在しない世界で進化したからである。
ダグラス・アダムズは、科学の奇妙さをコメディの地点まで推し進めた。
「私たちが、9000万マイル彼方の核融合の火の玉のまわりを巡る、気体でおおわれた一惑星の表面にある、深い重力の井戸の底で暮らしていて、それが正常だと考えているという事実は、明らかに、私たちの視野がどれほど歪んだものになりがちであるかを示す兆候であります」。
現代物理学の奇妙なパラドクスに対する最良の反応は、おそらく笑うことなのだろう。それに代わる方策として、私がときどき考えるのは、叫ぶことだ。
結局、私たちは、「現実に」起こっていることについて、何らかの種類の視覚化というものがともなわなければどうにもならないらしい。
科学は一般に、工学技術とはちがって、常識を侵害するものである。
カール・セーガンは『悪霊にさいなまれる世界』でこう言っている。
「科学を説明しないのは私には邪なことに思える。もしあなたが恋に落ちれば、世界について語りたいと思うだろう。本書は、私の生涯をかけた科学との恋愛を振り返った、個人的な発言である」。
ダーウィンはブルカの窓をつかんでこじあけ、洪水のように理解が流れこむようにしたのであり、その眼も眩むような新しさ、人間の精神を高める力は、ひょっとしたら前例のないものであったかもしれない。コペルニクスを例外とすれば。
私たちの進化によって生じた脳は、前景にある山や樹木よりも、天体のほうが動いているという幻影をつくりだすのである。
ミドル世界で進化した私たちは、「一人の人間が、人間や他のミドル世界の物体が動く中程度の速度で動いていくとき、壁のような別のミドル世界の固い物体と衝突すれば、彼の前進は、苦痛をともなって阻まれる」といった事柄なら、直感的に、容易に理解できる。
もし私たちが、分子の熱運動によってたえまなく打ちのめされる細菌であれば、話はちがっていただろう。
「リアルな」物質が私たちの理解にしっくりくるのは、私たちの祖先が生き残るべく進化したミドル世界いおいて、「物質」がものの構築に有用であるからにすぎない。
私たちが現実世界に見ているものは、ありのままの現実世界などではなく、感覚データによって制御され、調節された現実世界のモデルである。
盲目の時計職人』ではコウモリが耳で色を「見て」いるのではないかという推測をしてきた。
モデルの性質は、そこにかかわる感覚の様式よりも使われ方によって決まるということである。
イヌ、あるいはサイが、混じり合ったにおいを調和のとれた和音のように扱っているかもしれないと推測するのは、私にはまったく理に適ったことのように思える。イヌやサイは、色を嗅いでいるかもしれない。
脳の内的なラベルは、脳が外部の実在性についてのモデルを構築するときに、当該の動物にとってとりわけ重要な区別をするために使うことができるラベルなのである。
確立を計算する能力は、人間精神の解放のために科学が授けてくれる恩恵の、もう一つの例である。
科学は、「ありえなさ」というスペクトラムに開いていた、私たちが見なれてきた狭い窓を大きく引き開けてくれる。私たちは、計算と理性によって、かつては立ち入り禁止ないしはドラゴンのすむ場所と思われていた、蓋然性の世界を自由に訪れることができるようになったのだ。
人類が理解の限界を押し広げようとしている時代に生きていることに、私は興奮を覚える。もっとうまくいけば、そこには限界などないのだと、いつかは知ることができるのかもしれない。





【印象に残った言葉】

『もし私が、地球と火星のあいだに楕円軌道を描いて公転している陶磁器製のティーポットが存在するという説を唱え、用心深く、そのティーポットはあまりにも小さいのでもっとも強力な望遠鏡をもってしても見ることができないと付け加えておきさえすれば、私の主張に誰も反証を加えることはできないだろう。しかしもし私がさらにつづけて、自分の主張は反証できないのだから、人間の理性がそれを疑うのは許されざる偏見であると言うならば、当然のことながら私はナンセンスなことを言っていると考えられてしかるべきである。しかし、もし、そのようなティーポットの存在が大昔の本に断言されており、日曜日ごとに神聖な真理として教えられ、学校で子供の心に吹きまれていれば、その存在を信じることをためらうのは、異端の印となり、疑いをもつ人間は、文明の時代には精神分析医の、昔なら宗教裁判官の注意を引く羽目におちいっただろう』 P. 82

『私がおこなっている批判は結局、これらの神にもう一つ、別の神を付け加えているだけのことなのである』 P. 84

『気が付くとページの余白に「ティーポット」と書き込んでいた』 P.86

『「あれがそもそも一つの学科なのか、大いに疑問だね」』 P.88

『学識あるという名に値するサークルが教会内にとどまっている理由は、少なくとも、神学者たちがもっている謎と同じくらい深い謎である』 P. 93

『神が自分のために駐車スペースをとっておいてくれると信じているドライバーがいる』 P.94

『もし政府が地球と火星のあいだの軌道を周回するティーポットを見つけるという目的だけのために高価な望遠鏡に資金を投入したとすれば、私たちは憤激したことだろう』 P.108

『ドレイクの方程式におけるように、まずは私たちが無知である事柄をリストアップしていくしかないのかもしれない』 P.108

『英国のナンセンス詩人、エドワード・リアは、「ボロボロに壊れやすいカツレツのナンセンス・レシピ」の中で、「牛肉を一切れ入手し、できるだけ細かく刻み、それをさらに細かく刻む手順を、八回、ほっとしたら九回はつづける」ように勧めているが、それと同じように何回かの退行を繰り返せば、「自然界の終始者(ターミネーター)」に実際たどりついてしまう』 P. 119

『私はかつて、ブタが空を飛ぶことができると証明するために、存在論的論証を翻案して、神学者と哲学者の集会で不興を買ったことがある。彼らは彼らで、私がまちがっていることを証明するためには、様相論理まで繰り出さねばならないと考えたようだ』 P.128

オイラーは、「科学(この場合は数学)を利用した目眩ましによる論証」とでも呼べるようなものを使っていたのだ』 P.129

『イエスが処女から生まれたのであれば、ヨセフの先祖などどうでもよく、イエスのために、救世主はダビデの子孫であるにちがいないという『旧約聖書』の預言をかなえたくとも何の役にも立たない』 P.144

『もっとも有名な誤訳は、イザヤ書が、乙女をさすヘブライ語(almah)を処女を意味するギリシア語(parthenos)に変えてしまったことである。簡単におかしてしまうまちがいだが、(どうしてそんなことになるかを理解するためには、英語の単語maidとmaidenを考えてみればいい)、この一人の翻訳者の誤りが大きく膨らんで、イエスの母親が処女だったというまるっきり馬鹿げた伝説を生むことになるのだ・・・・・・イブン・ワラクは、一人のイスラム教殉教者につき七十二人の処女を与えるという有名な約束において、「処女」は「水晶のように透明な白い干しぶどう」が誤訳されたものであると、愉快そうに主張している』 P.147

『ワトソンはこう反論した。「いや、私はわれわれが何かのために存在するとは思わないよ。われわれは進化の産物にすぎない。”うわあ、生きる目的がないなんて、あなたの人生はかなり寒々としたものにちがいない”と言いたいなら言わせておくさ。しかし私にだって、もうすぐおいしいランチが食べられるのを期待するという楽しみならあるけどね」』 P.152

『「最初の数値」は通常主観的に判断されるので、・・・・・・GIGO(Garbage In Garbage Out)、つまりゴミを入れればゴミしか出てこない、という原理がここでは適用できる』 P.161

『生徒に両親を驚かせるようなことを与えてやるというのは、教師が授けることのできるもっとも偉大な贈り物の一つである』 P.172

『どんなときでも私は、無知ゆえに畏怖することよりは、理解ゆえに畏怖することを選択してきました』 P.175

『一方で、私たち科学の側にいるものは、あまりにドグマ的に確信をもちすぎてはならない』 P.187

『バッタ類のような昆虫は翅の一打ちごとに神経から指令が送られる(鳥類と同じように)のに対して、ハチ類は、振動モーターにスイッチを入れる(あるいはスイッチを切る)という指令を出す。細菌は、単純な収縮機構(鳥類の飛翔筋のような)もレシプロ機構(ハチ類の飛翔筋のような)ももっていないが、真の意味の回転子をもっている。その点では、電動モーターないしロータリーエンジンに似ている』 P.197

『自分たちの無知に「神」というラベルを貼ることでは、何の得るところもないということだ』 P.200

『もうあと1000万年まてば、いまとはすっかりちがった顔ぶれの種が、現在の種がその生活様式によく適応しているのと同じように、自分たちの生活様式に適応しているだろうと預言してもまちがいないだろう』 P.209

『これまでに発見されているなかで、もっとも巧妙で強力なクレーンは、自然淘汰によるダーウィン流の進化である。・・・・・・物理学では、これに匹敵するクレーンはまだ見つかっていない。・・・・・・物理学においてももっと有効な生物学におけるダーウィン主義と同じほど強力なクレーンが生まれてくる望みを捨てるべきではない』 P. 236

『ライオンに面と向かっている人間は、それがウサギだと確信したところで安心できるわけではない』 P.249

ケンブリッジのフィッツウィリアム美術館で、ほどけた靴ひもにつまずいて階段を転げ落ち、値段がつかないほど高価な清王朝の三つの花瓶を打ち砕いてしまった男の痛切な記事が最近報じられた。「男は三つの花瓶にもろにぶつかってしまい、花瓶は無数の破片となって砕け散った。館員が現れたとき、彼はまだそこに呆然として座っていた。すべての人間がまわりで、ショックを受けたように、押し黙って立ちすくんでいた。男は自分の靴ひもを指さして、「こいつだ。こいつが犯人なんだ」と言い続けていた』 P.272

『性欲は性欲であり、個人の心理におけるその強さは、それを衝き動かす究極的なダーウィン主義的な圧力とは独立したものである。この強い衝動は、究極的な合理的根拠とは独立して存在するものなのだ』 P.323

帰結主義者の推論は、戦争に向かう政治的決断には影響を与えるかもしれないが、ひとたび戦争が宣言されると、絶対論的な愛国心が、宗教以外では見られないような暴力と権力とをもって、すべてを支配する』 P.340

『子供を教化しない。子供には自分で考える方法、証拠評価する方法、あなたに意義を唱える方法を教えよ』 P.386

『未来を自分のもつ時間のスケールよりも大きなスケールで評価せよ』 P.386

『野生動物の保護と環境の保護は、かつての安息日を守り、偶像崇拝を忌避することと同じ、道徳上の禁忌事項として認められるようになったのだ』 P.391

『「宗教は、大衆を静かにさせておくにはすばらしい代物だ」と言ったナポレオンや、「宗教は大衆からは真実と、賢者からは偽りと、そして支配者からは便利なものとみなされる」と言った小セネカ』 P.403

『それはあなたの履歴書では立派に見えるかもしれないが、私の履歴書にとってはあまりいいものではない』 P.413

『現代のイスラム教徒の圧倒的多数は、暴力に頼ることなく生活を送っており、コーランは方々から寄せ集めた選集のようなものである。もしあなたが平和を求めるなら、平和的な詩句を見つけることができる。もしあなたが戦争を求めるなら、好戦的な詩句を見つけることができる』 P.450

『オーケー、落ち着きましょう。ちょっとのあいだ、ほんの一秒だけ、神を信じないという眼鏡をかけてみることにしましょう。神を信じない眼鏡をかけて、ちょっとあたりを見わたすだけで、すぐにはずしましょう』 P.475

シェイクスピアの言う七つの年代(「お気に召すまま」で帰属のジェイキスが、すべての人間は役者にすぎず、赤ん坊から老人まで七つの年代ごとの役割を演じていくのだと語る台詞によっている)のそれぞれは、次の年代へと変身していくことで死ぬ。この視点からすれば、老人が最終的に息を引き取る瞬間は、その生涯を通じてあった、ゆっくりとした「死」の数々と異なるところはない』 P.520

『実際にこの話は、若い女性が真っ裸で「戦争する代わりに愛しあおう」という旗印を掲げ、その横にいる人間が「これこそ、私が誠実と呼ぶものだ」と叫んでいる漫画を思い起こさせる』 P.523






【書評】


後ほど