正論をいう無職

有職になった

1分でわかる『利己的な遺伝子』



【1分でわかる】
1. 人はなぜいるのか
淘汰の基本単位は、種でも、集団でも、厳密には個体でもなく、遺伝の単位、遺伝子である。

2. 自己複製子
われわれ生物は「生存機械」である。それを操る彼らは「遺伝子」という名でよばれている。

3. 不滅のコイル
遺伝子は、コピーの形ではほぼ不滅である。

4.遺伝子機械
遺伝子はマスター・プログラマーであり、自分の生命のためにプログラムを組む。

5. 攻撃 安定性と利己的機械
周りをもっともうまく利用する遺伝子が、自然淘汰で選ばれる。

6.  遺伝子道
遺伝子は、自分のコピーが多く含まれる個体を助けることがある。

7. 家族計画
個体は、現在の環境から判断して、自分の子どもの数も最適化する。

8. 世代間の争い
子は親をだまして自己を生存させる。兄弟の遺伝子割合の限度ぎりぎりまで。

9. 雄と雌の争い
性差はすべて、卵子のほうが精子より大きいという事実から派生したものである。

10. ぼくの背中を掻いておくれ、お返しに背中をふみつけてやろう
共生という状態は、利己的に他を利用する場面においておこったものである。

11. ミーム 新登場の自己複製子
この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できる

12. 気のいい奴が一番になる
利己的な世界においてさえ、協力や相互扶助は栄うる。

13. 遺伝子の長い腕
宇宙のどんな場所であれ、進化の最初に来るのは、不滅の自己複製子である。


【10分でわかる】
1. 人はなぜいるのか
進化の過程で重要なのは、個体の利益でなく、種の利益だというのは誤っている。
ドーキンス氏が述べるのは、単に、ものごとがどう進化してききたかだけだ。進化を眺める最良の方法は、もっとも低いレベルにおこる淘汰の点からみることだ。淘汰の基本単位は、種でも、集団でも、厳密には個体でもなく、遺伝の単位、遺伝子である。

2. 自己複製子
生命発生前の原始のスープにもアミノ酸があり、そこに自己複製できる分子が誕生した、やがてそれは変化しながら増え続け、いっぱいになると競争しはじめた。あるときその自己複製分子は保護膜をつくり、自分のいれものをつくった。それが後に、われわれ「生存機械」となり、彼らは今「遺伝子」という名でよばれている。

3. 不滅のコイル
個体は安定したものではない。はかない存在である。染色体もまた、配られてまもないトランプの手のように、まもなくまぜられて忘れ去られる。しかし、カード自体はまぜられても生き残る。このカードが遺伝子である。遺伝子は、その定義上、コピーの形ではほぼ不滅である。

4.遺伝子機械
生存機械は遺伝子のいれものである。遺伝子はタンパク質の合成しかできないので、俊敏な「行動」というのは制御出来ない。だから遺伝子は、生きるための一般戦略や一般的方便を生存機械に教え、予言不能な環境への対応として、学習の能力も組み込んでおいた。遺伝子は方針決定者であり、脳は実施者である。
遺伝子はマスター・プログラマーであり、自分の生命のためにプログラムを組む。その成功不成功の判事は、生存という法定の情け容赦のない判事である。プログラムが不成功であれば、ただちに淘汰という死が待っている。

5. 攻撃 安定性と利己的機械
ある生存機械にとってみれば、近縁個体でない他の生存機械は、単なる環境の一部である。異種同種とわず、自然淘汰によって選ばれるのは、環境をもっともうまく利用する遺伝子である。
よく統合された体が存在するのは、それが利己的な遺伝子の進化的に安定したセットの産物だからである。

6.  遺伝子道
個々の遺伝子の目的はいったい何なのか。遺伝子プール内にさらに数をふやそうとすること、というのがその答えである。そして近しい身内(血縁者)が遺伝子をわけあう確立が平均より高いことを示すのはやさしい。親による世話という利他的行動は血縁淘汰の作用の例なのである。

7. 家族計画
子どもを産む数を制限するような行動は、なんのためのものだろうか?それは、集団のための利他的行動ではなく、現在の環境から判断した、自分の子どもの数の最適化である。

8. 世代間の争い
子は親をだます。彼は実際以上に空腹なふりをしたり、あるいは実際より幼いふうを装ったり、さらには、実際以上の危険にさらされているようにみせかけたりする。それらの行動によって血縁者がこうむる不利益が、遺伝的近縁度の許容しうる限度をこえるぎりぎりのところまで、彼はそれらあらゆる心理的武器を駆使するのだ。一方親たちは、詐欺やぺてんに対する油断をおこたってはならず、それにだまされぬように努めねばならない。

9. 雄と雌の争い
性とはなんなのか。オスの性細胞は低コストで大量生産できることが特徴だ。メスは一定限度のコストの高い性細胞をつくる。他のすべての性差は、この一つの基本的差異から派生したと解釈できる。
それはどう進化してきたのか。まず同じ大きさの性細胞があった。つぎにそれが大きくなっていった。ある点を超えるとそれを利用する性細胞が発生する。大きい性細胞はより大きく、それを利用する性細胞はより小さく機敏に変わっていった。そして最終的に卵子精子になった。
メス性とは搾取される性であり、卵子のほうが精子より大きいという事実が、この搾取をうみだした基本的な進化的根拠なのである。
雌雄のいずれの個体も、その生涯における繁殖上の総合成績を最大化することを「望んでいる」。精子卵子の大きさおよび数にみられる根本的な相違が原因で、雄には一般に、乱婚と子の保護の欠如の傾向がみられる。これに対抗する対策として、雌には二つの代表的な戦略がみられる。一つは私がたくましい雄を選ぶ戦略と呼んだもの、もう一つは、家庭第一の雄を選ぶ戦略と呼んだものである。どちらを選ぶかは、生態学的な状況が決定することになる。人間の場合は、これが文化によって大幅に決定されている。

10. ぼくの背中を掻いておくれ、お返しに背中をふみつけてやろう
群れという生活の傾向はなんなのだろうか。
端にいると捕食者に一番狙われやすいため、集団の外縁から中心方向に向かってたえず個体が移動する。それが密集した塊になって群れとなる。そこに利他主義はなく、個々の個体が他のすべての個体を利己的に利用することがあるだけである。
神風的な行動をするミツバチはどうなのだろうか。かれらを例えていえば、繁殖能力をもつ少数の個体は、精巣や卵巣中に収まっているわれわれの生殖細胞と同じようなものなのである。一方不妊のワーカーたちは、われわれの肝臓や筋肉、そして神経の細胞なのである。そう考えるとびっくりするような事柄ではなくなる。
さらに社会性昆虫は、農業のように菌類も栽培し、アブラムシを「飼った」りもする。それは相利共生と呼ばれている。これは動・植物界に広く見受けられる。われわれ自身の体もその相利共生かもしれない。

11. ミーム 新登場の自己複製子
人間の文化というスープから、ミームという自己複製子が新しく登場した。それらは脳から脳へと広がって自己複製するのだ。人間の脳は、ミームの住み着くコンピュータである。
つつましい希望がある。それは、その進化がミームによってもたらされたのかどうか定かではないが、人間には、意識的な先見能力という一つの独自な特性がある。遺伝子にも、ミームにも先見能力はない。
われわれがたとえ暗いほうの側面に目を向けて、個々の人間は基本的には利己的な存在なのだと仮定したとしても、われわれの意識的な先見能力、想像力を駆使して、将来の事態をシミュレートする能力には盲目の自己複製子たちの引き起こす最悪の利己的暴挙から、われわれを救い出す能力があるはずだということである。
われわれは遺伝子機械として組み立てられ、ミーム機械として教化されてきた。しかしわれわれには、これらの創造者にはむかう力がある。この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである。

12. 気のいい奴が一番になる
反復する「囚人のジレンマ」ゲームでは、やられたらやり返すという寛容な戦略が優位になる。自然がしばしば「胴元」の役割を果たす場合、個々人はお互いの成功から利益を得ることができる。基本的に利己的な世界においてさえ、協力や相互扶助がいかにして栄うるかを、われわれは理解することができる。


13. 遺伝子の長い腕
遺伝子の表現型効果は体にとどまる。これが従来の定義である。しかしそれを今、さらに延長して考える必要があると思う。ロブスターのその硬い殻と同じように、ビーバーのダムや、鳥の巣や、トビケラの幼虫の巣といった造作(構築物)も、遺伝子の表現型効果なのである。
そして、われわれのような「単一の」生物個体は、数多くの表現型効果が吸収合併された、究極的な統合体である。それは、性細胞を公平な唯一の退出経路とする遺伝子共同体の、精密なヴィークルである。
いつでも生命が存在するときは自己複製子が最初に来る。宇宙のどんな場所であれ、生命が生じるために存在シなければならなかった唯一の実体は、不滅の自己複製子なのである。


 【60分で理解する】
1. 人はなぜいるのか
進化の過程で重要なのは、個体の利益でなく、種の利益だというのは誤っている。
ドーキンス氏が述べるのは、単に、ものごとがどう進化してききたかだけだ。進化を眺める最良の方法は、もっとも低いレベルにおこる淘汰の点からみることだ。淘汰の基本単位は、種でも、集団でも、厳密には個体でもなく、遺伝の単位、遺伝子である。
以降、それらを理解していくにおいて、ひとつ警告がある。それは、「ここから道徳を生み出すものではない」ということだ。われわれは利己的な遺伝子を理解することで、他の生物にはできなかった、遺伝子の意図をくつがえすというチャンスを手に入れることができるのだ。


2. 自己複製子
自然淘汰による進化というダーウィンの説は、単純なものが複雑なものに変わりうる過程をを示してくれる。ダーウィンの「最適者生存」は、じつは安定なものの生存という一般的な法則からみちびき出されている。どんなものも、多かれ少なかれ原子の安定したパターンなのだ。安定した状態になるのに、設計とか目的とかの指示を考える必要はない。
最初の型の自然淘汰は、単に安定したものを選択し、不安定なものを排除することであった。だが、これだけではもちろん人間という複雑な個体の説明にはならない。生命の起源の話は推論に頼らざるを得ないが、シンプルにした形で説明する。
生命の誕生以前の地球上の状態をフラスコの中で再現すると、アミノ酸が自然と現れた。この原子のスープのなかで濃縮され、大型の有機分子ができた。あるとき偶然にきわだった分子ができた。それは驚くべき特性として、自らの複製をつくることができた。それは億という単位の長い年月の間に発生したのである。しかも一回だけでよかった。それはコピーをつくることで急速に海洋中に増えていった。このコピーはときに「誤り」を含んだ。この「誤り」が、進化を可能にしたのだ。原子のスープの中は、祖先が同じ、変種の自己複製分子で占められていった。増えていく自己複製分子にはどんな特徴があるだろうか。それは三つあった。長生きするか、複製が速いか、複製が正確か、これらが優れた分子が増えていった。しかし、自己複製子が増えてくると、もちろんその資源も少なくなってくる。そこで競争がおきてくる。資源を取り合うのだ。自分を守るために、最初の「生存機械」が生まれた。それは最初は保護膜のようなものだっただろう。それはさらに手のこんだものになっていった。その過程は累積的、かつ前進的なものであった。ここまでくればわかると思うが、われわれはこの「生存機械」であり、いまや彼らは遺伝子という名でよばれている。

3. 不滅のコイル
生物すべては生存機械である。姿形はどれも全く違うけれども、遺伝子は、バクテリアからゾウにいたるまで基本的に同一種類の分子なのだ。そしてミステリーは、DNAという遺伝子は、前述までの原子のスープの中の自己複製子とは違ったものである。現代の生存機械には、それらは跡かたもない。
個体は安定したものではない。はかない存在である。染色体もまた、配られてまもないトランプの手のように、まもなくまぜられて忘れ去られる。しかし、カード自体はまぜられても生き残る。このカードが遺伝子である。遺伝子は、その定義上、コピーの形ではほぼ不滅である。われわれは「遺伝子」を、長命、多産性、複製の正確さという特性を潜在的にもっている最大の単位と定義する。対立遺伝子の犠牲のうえに、遺伝子プール内で自己の整然のチャンスをふやすようにふるまう遺伝子は、どれも、その定義からして、生きのびる傾向がある。遺伝子は利己主義の基本単位なのだ。
遺伝子が有性生殖を選ぶ理由はなにか?
遺伝子は、ボート競争で最良のチームをつくるように、自分の生存機械を次々につくっていくために仲間の遺伝子と協力して生活をたてている。最良のチームには最良のクルーが必要だ。遺伝子は、その最良のクルーである他の遺伝子を探し求めながら、日々の生活をたてていく必要があるのだ。

4.遺伝子機械
生存機械は遺伝子の受動的な避難所として生まれたものである。体はドーキンス氏によれば、遺伝子のコロニーである。生存機械の行動のもっともいちじるしい特性の一つは、そのまぎれもない合目的性である。遺伝子は、直接自らの指であやつり人形の糸のように生存機械を操るのではなく、コンピューターのプログラム作成者のように間接的にその行動を制御している。遺伝子はあくまでタンパク質合成の制御しかしない。だがそれでは捕食者に食べまいとする数秒あるいは数分の一秒という行動はできない。だから遺伝子は生きるための一般戦略や一般的方便を生存機械に教えこんだのだ。平均してうまくいくような決定を下すように、脳にあらかじめプログラムしておくのが、遺伝子の仕事である。そして予言不能な環境への対応として、学習の能力も組み込んでおく。遺伝子は方針決定者であり、脳は実施者である。究極的には、われわれを生かしておくのにもっともよいと思うことをなんでもやれ、という命令を、遺伝子は下すことになるだろう。
遺伝子はマスター・プログラマーであり、自分の生命のためにプログラムを組む。その成功不成功の判事は、生存という法定の情け容赦のない判事である。プログラムが不成功であれば、ただちに淘汰という死が待っている。一見利他的とみえる生物の行動も、この原理の例外ではない。

5. 攻撃 安定性と利己的機械
ある生存機械にとってみれば、近縁個体でない他の生存機械は、単なる環境の一部である。自然淘汰によって選ばれるのは、異種同種とわず、環境をもっともうまく利用する遺伝子である。
進化とは、たえまない上昇ではなくて、むしろ安定した水準から安定した水準へ、不連続な前進のくりかえしであるらしい。遺伝子は、現在の遺伝子プールの中でのふるまいの「成績」で判定される。草食動物の歯も、肉食動物の牙も、その環境によって良くも悪くも作用する。
よく統合された体が存在するのは、それが利己的な遺伝子の進化的に安定したセットの産物だからである。

6.  遺伝子道
個々の遺伝子の目的はいったい何なのか。遺伝子プール内にさらに数をふやそうとすること、というのがその答えである。そして近しい身内(血縁者)が遺伝子をわけあう確立が平均より高いことを示すのはやさしい。これが、親の子に対する利他主義がこれほど多い理由だろうということは、以前からわかっていた。それは複雑な計算を生物がおこなっているということではない。投げたボールを受けることに微分方程式が必要ないのと同じように、その計算式は生物にとって必要ないのだ。加えて、利他主義の進化においては、「真」の近縁度がどれくらいかということは、動物がどれくらいよく近縁度の見積もりができるかということほど重要ではない。そしてその進化においてはもうひとつ、近縁度に加えて、「確実度」指数といったものを考えるべきである。それらを材料に考えると、親による世話というのは血縁淘汰の作用の例なのである。

7. 家族計画
遺伝子の利己性の観点からみれば、たとえばあなたが幼い兄弟を育てることと、幼い息子を育てることの間に原理的な差異はまったくない。
では、動物の産児制限は集団全体の利益のために実行される利他的なものなのか。それとも、それは、繁殖をおこなう当の個体の利益のために実行される利己的なものであるのか。答えとしては、以下である。個々の親動物は家族計画を実行するが、しかしそれは公共の利益のための自制ということではなく、むしろ自己の産子数の最適化なのである。

8. 世代間の争い
母親はひいきの子どもを作るべきか、それともすべての子どもに等しく利他的にふるまうべきか。母親のひいきづくりについては、なんら遺伝的根拠はないというのが、この問いへの解答である。だがそこには親と子の世代間の争いが存在する。
子は親をだます機会を逃しはしない。彼は実際以上に空腹なふりをしたり、あるいは実際より幼いふうを装ったり、さらには、実際以上の危険にさらされているようにみせかけたりするだろう。親を物理的におどすには、彼は小さすぎるし弱すぎる。しかし彼にはうそ、詐欺、ぺてん、利己的利用など、自由に使える心理的な武器がある。それらによって血縁者がこうむる不利益が、遺伝的近縁度の許容しうる限度をこえるぎりぎりのところまで、彼はそれらあらゆる心理的武器を駆使するのだ。一方親たちは、詐欺やぺてんに対する油断をおこたってはならず、それにだまされぬように努めねばならない。

9. 雄と雌の争い
性的なパートナーシップは相互不信と相互搾取の関係として把握できる。性とはなんなのか。オスの性細胞すなわち「配偶子」はメスの配偶子にくらべてはるかに小型で、しかも数が多いというのがその特徴だ。他のすべての性差は、この一つの基本的差異から派生したと解釈できる。
オスは低コストで大量の配偶子をつくれ、メスは一定限度のコストの高い配偶子をつくる。この非対称性はどのように進化しえたのだろうか。まず同じ大きさの性細胞の時代があった。そこに偶然少し大型の性細胞があったに違いない。進化はその大型の配偶子の方向へ傾いただろう。しかし必要以上に大型に進化してきた時点で、それを利己的に利用する道が開かれたと考えられる。いいかえれば、まず「実直な」戦略があった。それが搾取的な戦略の進化を自ずから開くことになったのだ。この進化がさらに先へ進み、かくして、
実直な配偶子が卵子になり、搾取的な配偶子が精子となったという次第である。
メス性とは搾取される性であり、卵子のほうが精子より大きいという事実が、この搾取をうみだした基本的な進化的根拠なのである。
だがメスは搾取されるだけではない。切り札が一枚ある。交尾を拒否できることだ。交尾前のメスは、取引にあたって難題をふきかけることのできる立場にある。
動物界にみられる各種の多様な繁殖システム、たとえば一夫一妻制、乱婚、ハーレム制などは、いずれも雄雌間の利害対立の産物として理解することができる。雌雄のいずれの個体も、その生涯における繁殖上の総合成績を最大化することを「望んでいる」。精子卵子の大きさおよび数にみられる根本的な相違が原因で、雄には一般に、乱婚と子の保護の欠如の傾向がみられる。これに対抗する対策として、雌には二つの代表的な戦略がみられる。一つは私がたくましい雄を選ぶ戦略と呼んだもの、もう一つは、家庭第一の雄を選ぶ戦略と呼んだものである。どちらを選ぶかは、生態学的な状況が決定することになる。人間の場合は、これが文化によって大幅に決定されている。
捕食者から見つからないように、なおかつメスを惹きつけるように色彩を派手にしてきたオスは、ギャンブラー的存在になる。一方、異種との交配や近親相姦をさけるためにメスはさらに慎重になる。ここにおいて、オスとメスは対象的な存在となるのである。

10. ぼくの背中を掻いておくれ、お返しに背中をふみつけてやろう
群れという生活の傾向はなんなのだろうか。
端にいると捕食者に一番狙われやすいため、集団の外縁から中心方向に向かってたえず個体が移動する。それが密集した塊になって群れとなる。そこに利他主義はなく、個々の個体が他のすべての個体を利己的に利用することがあるだけである。
神風的な行動をするミツバチはどうなのだろうか。かれら社会性昆虫のコロニー内のほとんどの個体は不妊のワーカーである。繁殖能力をもつ少数の個体は、精巣や卵巣中に収まっているわれわれの生殖細胞の相似物なのである。一方不妊のワーカーたちは、われわれの肝臓や筋肉、そして神経の細胞にたとえることで、びっくりするような事柄ではなくなる。自分たちの遺伝子のコピーの生産をめざすワーカーたちは、自らその役を引き受けるよりも遺伝子生産の効率がよいという理由から、母親を彼らの遺伝子コピーの生産者として利用しているのだ。
さらに社会性昆虫は、農業のように菌類も栽培し、アブラムシを「飼った」りもする。それは相利共生と呼ばれている。これは動・植物界に広く見受けられる。われわれの細胞の一つ一つの中にあるミトコンドリアの役割を考えると、もしかすると私たち自身もその一つかもしれないとの可能性がでてくる。そしてウイルスと呼ばれるものは、その構造から、私たちの体のような「遺伝子コロニー」から逃亡した反逆遺伝子から進化したものかもしれないとの説がうかびあがってくる。
互恵的利他主義の進化は、互いを個体として識別し、かつ記憶できる種において、可能である。それはゲーム理論の「囚人のジレンマ」と似ている。だがそれらも、最終的には、進化的に安定な戦略に落ち着くこととなる。

11. ミーム 新登場の自己複製子
人間をめぐる特異性は、「文化」という一つのことばにほぼ要約できる。基本的には保守的でありながら、ある種の進化を生じうる点で、文化的伝達は遺伝的伝達と類似している。言語は、非遺伝的な手段によって「進化」するように思われ、しかも、その速度は、遺伝的進化より格段に速い。そもそも遺伝子の特性とは何なのだろうか。自己複製子だということがその答えである。すべての生物は、自己複製をおこなう実体の生存率の差にもとづいて進化する、というのがその原理である。
人間の文化というスープから、ミームという自己複製子が新しく登場した。それらは脳から脳へと広がって自己複製するのだ。人間の脳は、ミームの住み着くコンピュータである。
つつましい希望がある。それは、その進化がミームによってもたらされたのかどうか定かではないが、人間には、意識的な先見能力という一つの独自な特性がある。遺伝子にも、ミームにも先見能力はない。
われわれがたとえ暗いほうの側面に目を向けて、個々の人間は基本的には利己的な存在なのだと仮定したとしても、われわれの意識的な先見能力、想像力を駆使して、将来の事態をシミュレートする能力には盲目の自己複製子たちの引き起こす最悪の利己的暴挙から、われわれを救い出す能力があるはずだということである。
われわれは遺伝子機械として組み立てられ、ミーム機械として教化されてきた。しかしわれわれには、これらの創造者にはむかう力がある。この地上で、唯一われわれだけが、利己的な自己複製子たちの専制支配に反逆できるのである。

12. 気のいい奴が一番になる
反復する「囚人のジレンマ」ゲームでは、やられたらやり返すという寛容な戦略が優位になる。自然がしばしば「胴元」の役割を果たす場合、個々人はお互いの成功から利益を得ることができる。利己的遺伝子の基本法則から逸脱することなく、基本的に利己的な世界においてさえ、協力や相互扶助がいかにして栄うるかを、われわれは理解することができる。「われも生きる、他も生かせ」方式は、現実の戦争においてもあらわれたのだ。
その唯一の条件は、「囚人のジレンマ」ゲームが設定される、未来の影が長い、そのゲームがノンゼロサム・ゲームであること。このような条件は生物界のいたるところで確実に満たされている

13. 遺伝子の長い腕
一つの遺伝子の表現型効果は、通常、それが属する生物体に及ぼす効果のすべてとみなされる。これが従来の定義である。しかしわれわれは今や、一つの遺伝子の表現型効果はそれが世界に及ぼすあらゆる効果として考える必要があると思う。ロブスターのその硬い殻と同じように、ビーバーのダムや、鳥の巣や、トビケラの幼虫の巣といった造作(構築物)も、遺伝子の表現型効果なのである。それが体の一部なのか、外部なのかという点で見ることは、間違いである。
延長された表現型の中心定理とは、動物の行動は、それらの遺伝子がその行動をおこなっている当の動物の体の内部にたまたまあってもなくても、その行動の『ための』遺伝子の生存を最大にする傾向をもつ」ということである。
われわれのような「単一の」生物個体は、数多くの吸収合併の究極的な統合体である。それは、性細胞を公平な唯一の退出経路とする遺伝子共同体の、精密なヴィークルである。
ではなぜ退出経路をひとつに絞る必要があるのだろうか。それは、そのボトルネックをもつことで三つのことが可能になるからである。「製図板に戻ること」、「秩序正しく時間の決まった周期を提示すること」、「細胞を均一にすること」である。
いつでも生命が存在するときは自己複製子が最初に来る。宇宙のどんな場所であれ、生命が生じるために存在シなければならなかった唯一の実体は、不滅の自己複製子なのである。
 

【書評】

とても論理的で筋の通った説明を、ドーキンス氏はしてくれる。自分であれやこれやと試行錯誤するというよりは、ドーキンス氏の頭のなかをパカっと見せてもらい、ああなるほどこうなっているのか、と理解させてくれるようなかんじだ。まるでリバースエンジニアリング。最初の書評のとおりである。
その語り口にはドーキンス氏のとてもやさしい人柄が見えてくるようだ。ところどころにあるユーモアも、吹き出しそうになった。実際吹き出した。ニコニコしたおじいさんが眼前に思い浮かんだ。本人がどうなのかは知らないが。
内容は深く鋭い。人間そのものに対してもそのナイフは尖っていて、どうも指を切ってしまった人もいる模様だ。だが、われわれはこのナイフをつかいこなさなければならない。つかいこなす義務がある。それはドーキンス氏も11章の締めくくりの言葉で伝えている。この動物的な、いや生物すべてにおける業を理解し、そして何を取るべきで何を捨てるべきなのか、それを選択する必要が、われわれにはあるのだ。そしてそれは、われわれにしかできないことなのだ。
あなたはまずそこにあるものを認識し、事実として理解し、あらゆる方向からながめたうえで、私はこれをこう見る、と宣言しなければならない。事実はただそこにあるものだ。紙に書いた線も、三次元の箱に見える。立ち位置次第でいろいろな見え方があるのだ。
本を読み終えて、その裏表紙をぱたんと閉じたその時から、われわれの未来はもう始まっている。
この暴れ馬をなんとかのりこなし、自分の使命に向かってまっしぐらに駆けていかなければならない。その使命の道のスタート地点が、この『利己的な遺伝子』である。




【印象に残った言葉】
『雌は、雛が示すのと同様なしぐさをして、雄に餌をねだる。この種のしぐさは、女性のたどたどしい幼児的なしゃべり方や口をとがらせるしぐさを男性が愛らしく感ずるのと同様、雄鳥には抗しがたい魅力があるのだと考えられてきた』

『雌が雄の欺臓を見抜く上で役だつ一つの手は、雄の最初の求愛の際には特別気むずかしくふるまっておいて、その後繁殖期を重ねるたびに、同じ雄の求愛に対しては次第に速やかに応じるようにしてゆくことだ』

『不誠実によって利益を得る度合は、雄のほうが雌より上である』

『雌の採用しうるもう一つの主要な戦略である、たくましい雄を選ぶ戦略をとりあげることにしよう。この方策を採用している種では、雌は彼女の子どもたちの父親から援助を受けることを結果的にはあきらめてしまっており、その代り、よい遺伝子を得ることに全力を傾けている』
 
『不死身の遺伝子を絶やしてしまうことになるなら、たとえ世界を手に入れたところで、雄にはいったいなんの益があろうか』

『雄にとって過剰ということばは意味をもたないのである』