正論をいう無職

有職になった

3秒でわかる『キャラクターメーカー』




【3秒でわかる】
 
キャラクターとは「私」に対してクリティカルになれるツールだ




【1分でわかる】

序. 「キャラクター」とは「デザイン」するものではない

「キャラクター」のビジュアルは、あくまでも「キャラクターをつくる」ことの一部分です。




1. アバター式キャラクター入門

アバターとはその世界での「外見」「内面」のセットです。

キャラクターは順列組合せです。


ワークショップ1
ダイスを振ってキャラクターをつくり「まんが記号説」を追体験する。



2. トトロもエヴァンゲリオンも「ライナスの毛布」である

自分には本当の親が別にいる、という空想をファミリー・ロマンスといいます。

「自立」の過程で、ファミリー・ロマンスと似た、乳房に代わる「移行対象」が必要になります。


ワークショップ2
「トトロ」や「ライナスの毛布」のような移行対象のキャラクターをつくる。



3. 手塚キャラクターは何故テーマを「属性」としているか

「成長する身体」と「成長できない身体」の矛盾は、手塚治虫の『アトム』のように、戦後まんがを貫くキャラクターの本質の一つでもあります。


ワークショップ3
一人のキャラクターの身体に「内側」「外側」の齟齬や解離があるキャラクターをつくる。



4. 雨宮一彦の左目にバーコードがあるのは何故か

身体のどこかに何らかの痣とか傷があり、そこに何らかの宗教的な意味がある、こういう傷跡を「聖痕」としばしば呼びます。

「物語」というのは主人公の自己実現のプロセスでもあります。


ワークショップ4
ランダムメーカーで「聖痕」つきの主人公をつくる。



5. 自分からは何もしない主人公を冒険に旅立たせるためのいくつかの方法

物語は、「分離移行再統合」という通過儀礼の基本プロセスです。

このプロセスは「幼虫」がいわば「さなぎ」になってその殻の中では成虫へと変化しているイメージです。

ワークショップ5
「旅立ちたくない主人公」と、「主人公を旅立たせるキャラクター」をセットでつくる。



6. 影との戦い

「悪」のキャラクターは主人公の進むべき方向と正反対に向かって、いわば負の自己実現をしていくキャラクターだといえます。

つまり「影」を救済することで主人公は自己実現するわけです。


ワークショップ6
「私」にとっての「影」をつくる



補講. キャラクターは「戦略」になるか?

ぼくがひとまず「物語」に拘るのは、それがつまるところ自己実現のプロセスそのものが物語の中に内包されているからです。

つまり「物語」とは「成長」のためのアルゴリズムのようなものです。

キャラクターとは「私」に対してクリティカルになれるツールだ、ということです。





【10分でわかる】

序. 「キャラクター」とは「デザイン」するものではない

「キャラクター」を視覚的に「デザイン」することはあくまでも「キャラクターをつくる」ことの一部分です。
そして、「キャラクター」と「物語」は不可分です。


1. アバター式キャラクター入門

アバター」という概念があります。
視聴者や観客の代わりに作品世界の住人となって主人公を理解していく登場人物を、ハリウッド映画では「バディ」あるいは「アバター」と言うようです。
ヒンドゥー教圏ではしばしば自分は「マハー・アヴァターラ」と呼ばれる十の化身の一つなのだと主張する人々が出現します。
アバターとはその世界での「外見」と「内面」のセットからなっている、と考えられます。
まんがの世界でキャラクター順列組合せ説を公言したのは手塚治虫です。
これは、戦前のまんが表現から継承した思考の一つです。
興味深いのは、近代以前の形式性と大正後期に日本に流入したロシア・アヴァンギャルドに代表される前衛美術の思考とを接ぎ木する位置にあった、ということです。
構成主義
それは、表現しようとする対象を構成する最小単位に還元して、しかもその最小単位とはそれ単独では意味をなさない、というものです。
昭和の初頭にディズニーやハリウッド産アニメーションにも出会います。
これらはポストモダンなものではなく、極めてモダニズム的なものだと考えます。
アバターの要素の一つめは仮想世界の「私」の「化身」です。それは自分自身を見つめる視点、つまり「私」や「内面」という近代的個人とセットになったものです。
二つめは、アバターは構成要素に還元できて、それはポストモダンではなくモダニズム的なものだということです。

ワークショップ1
ダイスを振ってキャラクターをつくり「まんが記号説」を追体験する。
八面ダイスをふって、その属性を組合せ、そこから着想を得る方法です。
「順列組合せ」的なキャラクターづくりにおいて独創性が制限されるとすれば、問題はそのような考え方にのみあるのではなく、むしろ、その選択の自由度が個々のつくり手に半端に委ねられている点にこそあるのではないでしょうか。



2. トトロもエヴァンゲリオンも「ライナスの毛布」である

キャラクターづくりでは、直接的に「私」をカミングアウトしない技術が必要です。

自分の親は別にいるという空想を、フロイトはファミリー・ロマンスと呼びました。子供の「自立」の過程だと言ったのです。
ファミリー・ロマンスは神話の世界の主人公においても近代小説の主人公においても「私」というキャラクターづくりの基礎にあります。
文芸批評家の松本徹先生の言葉があります。
「読者は君の『私』について知りたいのではない」
それは「私」をキャラクターとして制御し切れていなくては「文学」も「ノベルズ」も書けないよ、ということだと思います。
キャラクターとしての「私」につくり手自身の「私」の反映がないとは少しも思いません。
しかし、商品として受け手に届けられるキャラクターは作者の単純な「告白」ではなく、きちんと加工されていたり、計算されたバイアスがかかっている必要があります。
ファミリー・ロマンスに似たものとして「移行対象」という概念があります。
幼児が母親から分離していく過程で、「乳房」の代わりとして求められるものです。
スヌーピーとチャーリーブラウン』でライナスがいつも手にしている毛布も「移行対象」です。
移行対象という概念はしばしば「ライナスの毛布」に例えられます。
ぼくには少年少女や成人した男女にもある種の「移行対象」的なアイテムが必要とされている気がします。
実を言うと、宮崎駿のアニメーションはこの「移行対象」の宝庫です。
一見してわかるキャラクターのものを「トトロ型」とでも呼びます。
もうひとつは、より「モノ」に近い存在は「ライナスの毛布型」だと言えます。
「姥皮」という昔話があります。
それらは民俗社会における「成年式」の反映だと民俗学は考えます。
獣などの皮を被る衣裳、名前の変更といった、子供から大人への人格転換を象徴する儀式がしばしば行われます。
ライナスの毛布」は、主人公の成長を促し、かつ子供と大人の不安定な時期を庇護するためのものなのです。
ガンダム』のモビルスーツや、『新世紀エヴァンゲリオン』のエヴァ・シリーズも同じ質のものかもしれません。

ワークショップ2
「トトロ」や「ライナスの毛布」のような移行対象のキャラクターをつくる
これは一つには「私」をいかに対象化してキャラクター化するか、というレッスンであるのはいうまでもありません。
言い忘れましたが、主人公は「移行対象」をいつかは捨てなくてはいけません。別れがやってくるのです。
どんなにフィクションをつくろうとしても、どこかでつくり手の「私」がキャラクターとしての「私」に重なります。けれど、その「私」の不安をもう一度キャラクターやアイテムにすることで、「私」とほどよく距離がとれて、しかし、それぞれの「私」に根ざした魅力的なキャラクターが既に物語とともにそこにあることがわかります。
され、あなたの「ライナスの毛布」はどんなキャラクターになるのでしょう。



3. 手塚キャラクターは何故テーマを「属性」としているか
クレショフの映画論の一節があります。
『画面は記号として、文字として作用しなければならない』
人間の感情を形式化された表情に還元するという考えも、クレショフに行き着きます。
ぼくは手塚のまんが表現が、ミッキーマウスなどハリウッド産のアニメーションに出自をもつ、身体性を意図的に欠いた非リアリズム的な作画法によって生身をもった人間を表現する矛盾を抱え込んでいることを指摘し続けてきました。
しかしその矛盾の問題は、それ以前から存在していました。
まんがでありながら、読者は明らかに「もう一つの現実」を見出しています。
「成長する身体」と「成長できない身体」の矛盾は、手塚の手を離れて戦後まんがを貫くキャラクターの本質の一つでもあります。

ワークショップ3
アトムの命題」を属性としてもつキャラクターをつくる。
一人のキャラクターの身体に「内側」と「外側」の齟齬や解離があるのです。
大人になりたいのにそれを禁じられた、あるいはその矛盾を背負わされたというところに、手塚キャラクターの本質があります。
民話は加入儀礼と密接な関係にあって、しかし近代になっても尚そのような物語は「娯楽」つまり小説や映画の形をとって生きのびていて、「重大な責任」をもっているとエリアーデは言います。
「大人になることの厄介さ」は近代の方がずっと過酷だからこそ、むしろ「大人になること」の困難さを主題とする物語が求められていた、と言えます。



4. 雨宮一彦の左目にバーコードがあるのは何故か
身体のどこかに何らかの痣とか傷があり、そこに何らかの宗教的な意味がある、と考えるのはむしろキリスト教圏に根強い考え方です。こういう傷跡を「聖痕」としばしば呼びます。
ギリシア人の言葉を考えると、これは「差別」表現に連なるリスクをはらんでいます。
「欠けている」のは身体上の器官である必要は必ずしもありません。
プロップは民話の最小単位をこう考えました。
アラン・ダンダスというアメリカの民俗学者は、もっとシンプルに、一番基本的なのは〈欠乏〉と〈欠乏の解消〉である、と考えました。この〈欠乏〉は〈過剰〉でもかまいません。
〈不均衡〉〈均衡〉は物語を動かすエンジンの一つなのです。
「聖痕」という形で「徴」がつけられることは、それ以外の者たちという対立を作中に成立させます。ストーリーはそれで動き出します。
ロシア民話では「標(徴)」は主人公が主人公であることを証明するために最後の最後で作用します。
「物語」というのは主人公の自己実現のプロセスでもあります。

ワークショップ4
ランダムメーカーで「聖痕」つきの主人公をつくる。



5. 自分からは何もしない主人公を冒険に旅立たせるためのいくつかの方法
プロップはまず「出立」する主人公を二つの類型にわけました。
探索者型と被害者型です。
主人公が誰かから依頼されないと事を起こさないことを「物語」の本質の一つと考えたのが、A・J・グレマスです。
ジョセフ・キャンベルの単一神話論があります。
「分離→移行→再統合」という通過儀礼の基本プロセスです。
このプロセスは「幼虫」がいわば「さなぎ」になってその殻の中では成虫へと変化しているイメージです。これが「境界の儀式」です。
この時の手続きとしてしばしば使われるのが「象徴的な死」です。
そして参加者は「大人」になって元いた現実に「生まれて」くるのです。
「2 召命の辞退」という要素があります。
やはり人は「大人」になるという道の体験を恐れ、できることなら「今」のまま、このまま、ずっといたいと願うのが常です。これが心理的背景といえます。
キャンベルは、この「拒絶」が行き過ぎると彼らの時間そのものが止められてしまう、と指摘します。
この辞退よって「成長の困難さ」がはっきりします。
主人公はきちんと躊躇することで初めて「出立」の一歩が踏み出せる、というわけです。
そうやって「出立」した主人公は、アイテムを「贈与者」から与えられ、「こちら側の世界」の「端」に行き着きます。
そこには「境界守」がいることもあります。
そしてその「境界守」の居る場所を通り抜けると、「鯨の胎内」に突入して、むこう側の世界、冒険の世界に旅立つため「一度、死ぬ」必要があるとキャンベルは考えるわけです。
主人公の辞退の代わりに、主人公の旅立ちを望まないキャラクターを脇に配置するという形をとることもあります。
ハン・ソロのように「助手」のキャラクターは「境界守」として当初、登場することがよくあります。
「出立」自体に、「通過儀礼」や「帰還」に相当する要素をコンパクトに加えて、一編の映画として構成することができます。

ワークショップ5
「旅立ちたくない主人公」と、「主人公を旅立たせるキャラクター」をセットでつくる。
同じ映画の構造でも、キャラクターが違うだけで全く違う印象のものに仕上がります。



6. 影との戦い
物語とは主人公が対象に向かっていくという運動がまず基本にあって、そこに「援助者」と「敵対者」のニ類型のキャラクターが介入して成立します。
主人公に召命を辞退させるキャラクターの存在が強すぎると主人公は「眠り」についてしまう、とキャンベルは言っています。
「敵対者」とは見せかけ上の「敵」や「悪人」では必ずしもない、ということです。
「悪」のキャラクターは主人公の望む方向、進むべき方向と正反対の方向や価値観に向かって、いわば負の自己実現をしていくキャラクターだといえます。
「影」とは単に自身の負の側面として全否定されるものではありません。
つまり「影」を救済することで主人公は自己実現するわけです。
「影」のキャラクターは、主人公の自己実現を「援助」する最も決定的なキャラクターでもあるのです。
ロシア魔法民話に特徴的な「偽の主人公」も「影」バリエーションでしょう。
こちらは主人公と同時にスタートして負の方向に自己実現の話を始めたキャラクター、ということになります。
また、物語は必ずしも「正の自己実現」で終わる必要はありません。一つ間違えば、それは独善的な物語になります。
単純な「敵」や「悪」、ただ否定され倒されるための「敵」や「悪」ではなく、主人公が歩むのとは違う自己実現を目指し、主人公と何らかの形で統合され、主人公の「私」や「私」の依り処を独善的なものにならないようにするためにも、役割を果たすように設計されることが必要なのです。

ワークショップ6
「私」にとっての「影」をつくる
「仮面」や「影」その他の「元型」がうまく統合されて「自己」が初めて可能になるとユング派は考えます。
課題の解答にペット型の「影」もいて、「影」とは負の方向に肥大した「移行対象」なのかな、とも感じました。



補講. キャラクターは「戦略」になるか?

ぼくがひとまず「物語」に拘るのは、それがつまるところ自己実現のプロセスそのものが物語の中に内包されているからです。
つまり「物語」とは「成長」のためのアルゴリズムのようなものです。
明治以降の文学は、それに無自覚に架空の「私」を入れ込んでしまうというリスクがありました。
人の内側に、もやもやして不確かな何ものがあり、それを一人称の私小説的「私」に代入しても、それはどうにも不安定な「私」をただ投げ出すだけにしかなりません。
だったら、それは最初から「私」ではない別の「キャラクター」に代入した方がいいのではないか、その方がただ「私」と書くことで安易に「私」を出現させてしまうリスクを回避できるのではないか、と最初に考えたのは小林秀雄でした。
キャラクターとは「私」に対してクリティカルになれるツールだ、ということです。
「キャラクター」に「私」を代入することで「私」に距離をとることに成功します。




【60分で理解する】

序. 「キャラクター」とは「デザイン」するものではない

「キャラクター」を視覚的に「デザイン」することはあくまでも「キャラクターをつくる」ことの一部分です。
キャラクターとは「デザインする」ものではなく「つくるもの」だ、と定義します。
「キャラクター」と「物語」は不可分です。
そして、「キャラクターをつくる」というものの根底には「私を表現する」という問題が潜んでいます。
重要なのは、「私小説」と「私」とまんがやゲームの「キャラクター」では、出力するバイアスのかけ方が違う、ということです。


1. アバター式キャラクター入門

アバター」という概念があります。
ハリウッド映画においてキャラクターの類型を説明するのにも用いられる概念です。
これは主人公とイコールではありません。ハリウッドでは、むしろ主人公とは別にその傍らに観客が感情移入し易いキャラクターを配置することが普通です。
視聴者や観客の代わりに作品世界の住人となって主人公を理解していく登場人物を、ハリウッド映画では「バディ」あるいは「アバター」と言うようです。
アバターがバディとしてキャラクター化されていない自問自答のシナリオの場合、これをゴーストアバターと呼ぶことがあるようです。
そう考えると、日本的近代小説としての私小説とは、ゴーストアバター形式を採用した小説ということになります。
ぼくたちはゴーストアバターという見えないアバター、あるいは不在のバディを介して主人公を理解していくことに慣れているので、主人公に読者が直接感情移入しているように思いがちです。
70年代初頭から、少女まんがはゴーストアバター的形式として進化してきました。
ヒンドゥー教圏ではしばしば自分は「マハー・アヴァターラ」と呼ばれる十の化身の一つなのだと主張する人々が出現します。
アバターとはその世界での「外見」と「内面」のセットからなっている、と考えられます。
では、ウェブのアバターのように、キャラクターはパーツの組合せなのでしょうか?
まんがの世界でキャラクター順列組合せ説を公言したのは手塚治虫です。
『じゃあ何かっていうとね、象形文字みたいなものじゃないかと思う。・・・・・・そう、パターンがあるのね。つまり、ひとつの記号なんだと思う。・・・・・・キャラクターっていうのは僕にとって単語なんですね』
これは、戦前のまんが表現から継承した思考の一つです。
田中はつぢは「略画式」と呼ばれる北斎漫画の基礎にもなった「伝統的」作風の延長にあります。
それが興味深いのは、近代以前の形式性と大正後期に日本に流入したロシア・アヴァンギャルドに代表される前衛美術の思考とを接ぎ木する位置にあった、ということです。
構成主義
それは、表現しようとする対象を構成する最小単位に還元して、しかもその最小単位とはそれ単独では意味をなさない、というものです。
その後、昭和の初頭にディズニーやハリウッド産アニメーションにも出会います。
それは複数の人間が大量の同じキャラクターを効率的に描く必要から生まれた書式といえます。
これらはポストモダンなものではなく、極めてモダニズム的なものだと考えます。
アバターの要素の一つめは仮想世界の「私」の「化身」です。それは自分自身を見つめる視点、つまり「私」や「内面」という近代的個人とセットになったものです。
二つめは、アバターは構成要素に還元できて、それはポストモダンではなくモダニズム的なものだということです。
一つめのアバター観は「私」というものの固有性、「私」は「私」以外の何者でもない、という問題に関わってきます。
対して二つめはキャラクターは機械的な順列組合せにすぎない、という考え方を可能にします。
なんだかキャラクターという存在に、人間の主体性をめぐるモダンとポストモダンの考え方が共存しているようです。
「属性」はキャラクターの類型ではなく、キャラクターは「属性」の組合せであると考えられている、といえます。

ワークショップ1
ダイスを振ってキャラクターをつくり「まんが記号説」を追体験する。
八面ダイスをふって、その属性を組合せ、そこから着想を得る方法です。
「順列組合せ」的なキャラクターづくりにおいて独創性が制限されるとすれば、問題はそのような考え方にのみあるのではなく、むしろ、その選択の自由度が個々のつくり手に半端に委ねられている点にこそあるのではないでしょうか。
「馬顔のマスクを被った殺人鬼」
「変身すると、飼っている犬の足になる少女」


2. トトロもエヴァンゲリオンも「ライナスの毛布」である

キャラクターづくりでは、直接的に「私」をカミングアウトしない技術が必要です。
ここで課題をやってもらうことがあります。
『自分の現在の両親が本当のお父さんお母さんではなくて本当の両親が別にいると想像して下さい。そして、その本当の両親について考えた文章をあなたの一人称叙述で短い文章にして下さい』
こういう空想をフロイトはファミリー・ロマンスと呼びました。子供の「自立」の過程だと言ったのです。
「本当の血筋」を求めることは良くも悪くも「ファンタジー世界」という大きな物語と自分を結びつける感情を人にもたらすが、本当の親はどこにもいないのだから自分一人で「私」居場所を現実の中に見出すための物語を紡ぎ出すのか、そのいずれかを人に求めることになります。
ファミリー・ロマンスは神話の世界の主人公においても近代小説の主人公においても「私」というキャラクターづくりの基礎にあります。
つまり、先に示した課題は「ファミリー・ロマンス」をつくってみましょう、ということです。
このワークショップはここで終わりません。つくってもらった「ファミリー・ロマンス」をもとにして、ほかの人がつづきを書くのです。
誰かの「私」を引き継いで「私」の物語をつむいでもらう、というレッスンです。
こういう手間をかけるのも「私」を足場にしてキャラクターを「つくろう」としても、大抵そこで人は自分の「私」を制御できないからです。
文芸批評家の松本徹先生の言葉があります。
「読者は君の『私』について知りたいのではない」
それは「私」をキャラクターとして制御し切れていなくては「文学」も「ノベルズ」も書けないよ、ということだと思います。
キャラクターとしての「私」につくり手自身の「私」の反映がないとは少しも思いません。
しかし、商品として受け手に届けられるキャラクターは作者の単純な「告白」ではなく、きちんと加工されていたり、計算されたバイアスがかかっている必要があります。
ファミリー・ロマンスに似たものとして「移行対象」という概念があります。
幼児が母親から分離していく過程で、「乳房」の代わりとして求められるものです。それは当初、乳児がシーツを口にふくむことであったり、もごもごという意味不明の語の繰り返しだったりします。
クリストファー・ロビンのクマのぬいぐるみです。
スヌーピーとチャーリーブラウン』でライナスがいつも手にしている毛布も「移行対象」です。
移行対象という概念はしばしば「ライナスの毛布」に例えられます。
「移行対象」とは「キャラクター」の一つの本質として理解しうるものだといっていいでしょう。
ぼくには少年少女や成人した男女にもある種の「移行対象」的なアイテムが必要とされている気がします。
ヘンダーソンは西欧の子供たちはテディ・ベアを媒介として「母性的な本能と接触を保ち、従順な自己というよりは、むしろ本能的な自己をしだいに形成しながら、現実の母から独立」していく、と指摘しています。
このように「移行対象」とは幼児から成人に至るまで、精神的な意味で「大人になりきれない」人たちに必要とされます。
実を言うと、宮崎駿のアニメーションはこの「移行対象」の宝庫です。
パンダコパンダ、トトロ。テト、王蟲カオナシ
ただ、そこに「居る」もしくは「在る」だけの存在です。
成長物語の中で「移行対象」として正確にポジショニングされているところが、圧倒的に子供から支持される理由だといえます。
このような一見してわかるものを「トトロ型」とでも呼びます。
もうひとつは、より「モノ」に近い存在は「ライナスの毛布型」だと言えます。
「姥皮」という昔話があります。
それらは民俗社会における「成年式」の反映だと民俗学は考えます。
獣などの皮を被る衣裳、名前の変更といった、子供から大人への人格転換を象徴する儀式がしばしば行われます。
ライナスの毛布」は、主人公の成長を促し、かつ子供と大人の不安定な時期を庇護するためのものなのです。
ガンダム』のモビルスーツや、『新世紀エヴァンゲリオン』のエヴァ・シリーズも同じ質のものかもしれません。

ワークショップ2
「トトロ」や「ライナスの毛布」のような移行対象のキャラクターをつくる
これは一つには「私」をいかに対象化してキャラクター化するか、というレッスンであるのはいうまでもありません。
言い忘れましたが、主人公は「移行対象」をいつかは捨てなくてはいけません。別れがやってくるのです。
どんなにフィクションをつくろうとしても、どこかでつくり手の「私」がキャラクターとしての「私」に重なります。けれど、その「私」の不安をもう一度キャラクターやアイテムにすることで、「私」とほどよく距離がとれて、しかし、それぞれの「私」に根ざした魅力的なキャラクターが既に物語とともにそこにあることがわかります。
され、あなたの「ライナスの毛布」はどんなキャラクターになるのでしょう。



3. 手塚キャラクターは何故テーマを「属性」としているか
クレショフの映画論の一節があります。
『画面は記号として、文字として作用しなければならない』
手塚治虫が、キャラクターをことさら「記号」に喩えてその意味を否定しようとしたのは、その作画レベルのデザインの好き嫌いの水準でキャラクターを論じてしまうまんが評論に「いらだち」を感じていたからだと思います。
人間の感情を形式化された表情に還元するという考えも、クレショフに行き着きます。
『映画における芸術は、身振、表情および運動の芸術である。・・・・・・例えば、資本家はどんな歩き方をするか?・・・・・・どんなものが必要で、どんなものは不必要かと云うことを知らなければならないのは事実である。それ故に、運動を考究し、《設計》し、系統化することも必要である』
いわば彼らは「記号」によって新しいリアリズムを表現しようとしていたのです。
ぼくは手塚のまんが表現が、ミッキーマウスなどハリウッド産のアニメーションに出自をもつ、身体性を意図的に欠いた非リアリズム的な作画法によって生身をもった人間を表現する矛盾を抱え込んでいることを指摘し続けてきました。それは十五年戦争下の芸術理論としてマルクス主義から切り離される形で生き延びたロシア構成主義(つまり「構成」的な作画法やモンタージュ理論)と、もう一つの戦時下のイデオロギーとしての科学主義的リアリズムがまんが表現の中で統合された結果としてある、というのがぼくの考えです。
しかしその矛盾の問題は、それ以前から存在していました。
『東京パック』の例。
『正チャンの冒険』の例。
四コマずつの連載まんがでありながら、読者は明らかに「もう一つの現実」を見出しています。
その「もう一つの現実」はその世界の中では一定の合理性(つまりリアリズム)によって成り立っているべきだ、と読者は感じているといえます。
だから瑣末な不合理を「まんがだから」とスルーできなくなるわけです。
そして重要なのは、このようなそのもう一つの現実の中で「正チャン」は読者と同じ身体を持っていると受け止められるに至ったことです。
さて、こうして見た時、アトムというキャラクターは「成長しない身体」つまり「記号としての身体」と、「成長することを求められる身体」すなわち「生身の身体」の双方をあわせ持つ、手塚キャラクターの矛盾を形にしたキャラクターだとわかります。いわば手塚キャラクターの本質をメタ的なレベルで「属性」化している、ともいえます。ぼくはこれをしばしば「アトムの命題」と呼んできました。
このような「成長する身体」と「成長できない身体」の矛盾は、手塚の手を離れて戦後まんがを貫くキャラクターの本質の一つでもあります。
あしたのジョー』の例。『二十四年組』の例。
それらは皆、成長できないアトムの宿命を再び生き直している、といっていいと思います。

ワークショップ3
アトムの命題」を属性としてもつキャラクターをつくる。
一人のキャラクターの身体に「内側」と「外側」の齟齬や解離があるのです。
大人になりたいのにそれを禁じられた、あるいはその矛盾を背負わされたというところに、手塚キャラクターの本質があります。
民話は加入儀礼と密接な関係にあって、しかし近代になっても尚そのような物語は「娯楽」つまり小説や映画の形をとって生きのびていて、「重大な責任」をもっているとエリアーデは言います。
近代以前においてこういう通過儀礼が可能だったのは、要するに社会が単純だったからです。人がどうやって大人になるか、という答えはシンプルでした。
けれど近代という時代は極めて複雑です。しかも人が社会で生きていくスキルはあまりに多様で、更には社会もまたそれぞれの人たちの間で一致しません。
「大人になることの厄介さ」は近代の方がずっと過酷だからこそ、むしろ「大人になること」の困難さを主題とする物語が求められていた、と言えます。
「男の子だけど女の子の姿」
「テレビ型のきぐるみの中に素のおやじが入っている」


4. 雨宮一彦の左目にバーコードがあるのは何故か
この章では、「物語」とキャラクターの結びつきに議論を移してみましょう。
柳田國男は言います。
『一目小僧は多くの「おばけ」と同じく、・・・・・・昔の小さい神である。・・・・・神様の眷属にするつもりで、・・・・・・人を殺す風習があった。おそらくは最初は逃げてもすぐ捉まるように、その候補者の固めを潰し足を一本折っておいた。そうして非常にその人を優遇しかつ尊敬した。犠牲者の方でも、死んだら神になるという確信がその心を高尚にし、よく信託予言を宣明することを得た・・・・・・ただ目を潰す式だけがのこり・・・・・・目を一つにする手続きもおいおい無用とする時代は来たが、人以外の動物に向かっては大分後代までなお行われ・・・・・・その神が主神の統御を離れてしまって、山野道路を漂白することになると、恐ろしいことこの上なし・・・・・・』
身体のどこかに何らかの痣とか傷があり、そこに何らかの宗教的な意味がある、と考えるのはむしろキリスト教圏に根強い考え方です。こういう傷跡を「聖痕」としばしば呼びます。
ギリシア人の言葉を考えると、これは「差別」表現に連なるリスクをはらんでいます。
しかしその上で何らかの「聖痕」をもった主人公はやはり物語と親和性が高い、ということをキャラクター論としてはやはり主張せざるを得ないのです。
シェル・シルヴァスタイン『ぼくを探しに』の例。アーシュラ・K・ル=グウィンの『ゲド戦記Ⅰ 影との闘い』の例。
「欠けている」のは身体上の器官である必要は必ずしもありません。
プロップは民話の最小単位をこう考えました。
何かが「欠如」」した状態から民話のストーリーは動き始めます。
アラン・ダンダスというアメリカの民俗学者は、もっとシンプルに、一番基本的なのは〈欠乏〉と〈欠乏の解消〉である、と考えました。この〈欠乏〉は〈過剰〉でもかまいません。
〈不均衡〉〈均衡〉は物語を動かすエンジンの一つなのです。
「聖痕」という形で「徴」がつけられることは、それ以外の者たちという対立を作中に成立させます。ストーリーはそれで動き出します。
石ノ森章太郎の『仮面ライダー』の例。
この「徴」はキリスト教的には「聖痕」であり、ギリシャの昔では「差別」と結びつきもします。
ロシア民話では「標(徴)」は主人公が主人公であることを証明するために最後の最後で作用します。
「物語」というのは主人公の自己実現のプロセスでもあります。
「近代」は、「私」は「私」という固有なものである、ということが前提となっています。「大人」の基準が見えない一方で、人は「私が私であること」の証明をずっと求められ続ける気がします。

ワークショップ4
ランダムメーカーで「聖痕」つきの主人公をつくる。



5. 自分からは何もしない主人公を冒険に旅立たせるためのいくつかの方法
どうしても主人公は最初から主体的でなくてはいけない、という思い込みが一部にあるように思えてなりません。
プロップの考えでは、主人公が物語の上で自ら果たす役割は極めて少ないのです。
しかし、その一方で、主人公は作中で「自分探し」をします。この「受け身」なのに自分探しをするという他力本願っぷりは、主人公の最大の属性と言えます。
ではどうやって動かせばいいのでしょう?
プロップはまず「出立」する主人公を二つの類型にわけました。
探索者型と被害者型です。
主人公が誰かから依頼されないと事を起こさないことを「物語」の本質の一つと考えたのが、A・J・グレマスです。
ジョセフ・キャンベルの単一神話論があります。
「分離→移行→再統合」という通過儀礼の基本プロセスです。
このプロセスは「幼虫」がいわば「さなぎ」になってその殻の中では成虫へと変化しているイメージです。これが「境界の儀式」です。
この時の手続きとしてしばしば使われるのが「象徴的な死」です。
そして参加者は「大人」になって元いた現実に「生まれて」くるのです。
ディズニーランドに関しても、「アトラクション」という名の小さな通過儀礼を繰り返し体験する場所です。しかし戻って来た「現実」がディズニーランドという非日常的空間ですから「現実」には着地できない、というなかなかに興味深い構成になっています。
「2 召命の辞退」という要素があります。
主人公が出立するということは、彼に「大人」になる日がとうとうやってきた、という意味でもあります。
しかし、やはり人は「大人」になるという道の体験を恐れ、できることなら「今」のまま、このまま、ずっといたいと願うのが常です。これが心理的背景といえます。
キャンベルは、この「拒絶」が行き過ぎると彼らの時間そのものが止められてしまう、と指摘します。
この辞退よって「成長の困難さ」がはっきりします。
主人公はきちんと躊躇することで初めて「出立」の一歩が踏み出せる、というわけです。
そうやって「出立」した主人公は、アイテムを「贈与者」から与えられ、「こちら側の世界」の「端」に行き着きます。
そこには「境界守」がいることもあります。
そしてその「境界守」の居る場所を通り抜けると、「鯨の胎内」に突入して、むこう側の世界、冒険の世界に旅立つため「一度、死ぬ」必要があるとキャンベルは考えるわけです。
このようなキャンベルのパッチワーク的単一神話論は、実際に作品を作る際に使い勝手がいいものです。
「召喚」とは「自己の覚醒」、つまりは「目覚めよ」、「大人としての旅立ちをせよ」という内なる声の囁きです。
一度、冒険が始まったらぐいぐいと前に出て行くタイプの場合、ここでの「ぐだぐだ」が過ぎるとキャラクターとして動かしづらいので、主人公の旅立ちを望まないキャラクターを脇に配置するという形をとることが多いようです。
ハン・ソロのように「助手」のキャラクターは「境界守」として当初、登場することがよくあります。主人公と最初に戦って「親友」となってパーティに合流する美形のキャラクターというのもあります。
「出立」自体に、「通過儀礼」や「帰還」に相当する要素をコンパクトに加えて、一編の映画として構成することもあります。
キャンベルの単一神話論は、第二幕以降はプロップやランクなどいくつかの物語論をミックスしないと汎用性はやや低いかな、と思います。
ボグラーのキャラクター分けは、
ヒーロー、賢者、門番、使者、変化するもの、シャドウ、トリックスターです。

「ヒーロー」の訳語はギリシャ語で「守り仕えること」の意味であり、つまり主人公とは「他の人々の代わり」に「自己犠牲」となる存在だと、ボグラーは指摘します。
もう一つは主人公は「学び成長する存在」だということです。
「変化するもの」は峰不二子のような「魔性の女」がそうだともいいます。

ワークショップ5
「旅立ちたくない主人公」と、「主人公を旅立たせるキャラクター」をセットでつくる。
同じ映画の構造でも、キャラクターが違うだけで全く違う印象のものに仕上がります。


6. 影との戦い
物語とは主人公が対象に向かっていくという運動がまず基本にあって、そこに「援助者」と「敵対者」のニ類型のキャラクターが介入して成立します。
「敵対者」というキャラクターを「つくる」のはなかなか、厄介なのです。
主人公に召命を辞退させるキャラクターの存在が強すぎると主人公は「眠り」についてしまう、とキャンベルは言っています。
「敵対者」とは見せかけ上の「敵」や「悪人」では必ずしもない、ということです。
「キャラクター」の定義はあくまでも物語の進行を果たす機能に基づくものです。従って一人のキャラクターが複数の機能をもっていてもかまいません。
「悪」のキャラクターは主人公の望む方向、進むべき方向と正反対の方向や価値観に向かって、いわば負の自己実現をしていくキャラクターだといえます。
ダース・ベイダーも主人公たちの望む形とは正反対の方向で先んじて「自己実現」をしてしまった存在なのです。
羊たちの沈黙』では、「無理」をして生じたクラリスの中の「影」をレクター博士は体現しています。
「影」とは単に自身の負の側面として全否定されるものではありません。
つまり「影」を救済することで主人公は自己実現するわけです。
「影」のキャラクターは、主人公の自己実現を「援助」する最も決定的なキャラクターでもあるのです。
ロシア魔法民話に特徴的な「偽の主人公」も「影」バリエーションでしょう。
こちらは主人公と同時にスタートして負の方向に自己実現の話を始めたキャラクター、ということになります。
また、物語は必ずしも「正の自己実現」で終わる必要はありません。一つ間違えば、それは独善的な物語になります。
現実に戻ると、「正」か「負」かは立ち位置の違いでしかないこともあります。
眼の前にいる「影」は否定されるべき「敵」なのか、むしろ自己実現のプロセスとして不可避なものか判断するのは実際のところ、そう簡単なものではありません。
単純な「敵」や「悪」、ただ否定され倒されるための「敵」や「悪」ではなく、主人公が歩むのとは違う自己実現を目指し、主人公と何らかの形で統合され、主人公の「私」や「私」の依り処を独善的なものにならないようにするためにも、役割を果たすように設計されることが必要なのです。

ワークショップ6
「私」にとっての「影」をつくる
「仮面」や「影」その他の「元型」がうまく統合されて「自己」が初めて可能になるとユング派は考えます。
課題の解答にペット型の「影」もいて、「影」とは負の方向に肥大した「移行対象」なのかな、とも感じました。



補講. キャラクターは「戦略」になるか?

ぼくがひとまず「物語」に拘るのは、それがつまるところ自己実現のプロセスそのものが物語の中に内包されているからです。
つまり「物語」とは「成長」のためのアルゴリズムのようなものです。
明治以降の文学は、それに無自覚に架空の「私」を入れ込んでしまうというリスクがありました。
人の内側に、もやもやして不確かな何ものがあり、それを一人称の私小説的「私」に代入しても、それはどうにも不安定な「私」をただ投げ出すだけにしかなりません。
だったら、それは最初から「私」ではない別の「キャラクター」に代入した方がいいのではないか、その方がただ「私」と書くことで安易に「私」を出現させてしまうリスクを回避できるのではないか、と最初に考えたのは小林秀雄でした。
キャラクターという全くリアルではない「類型」に「私」を代入したことで「自己をなし崩し的に語る」ことから逃れている、と小林は義弟の仕事を評価します。
キャラクターとは「私」に対してクリティカルになれるツールだ、ということです。
「キャラクター」に「私」を代入することで「私」に距離をとることに成功します。
「私」がただ概念的に思弁したり、「私」について告白するのではなく、「私」をキャラクターに入れて「物語」の中で成長させる(あるいは頓挫してもいいのですが)という形で手塚は定型化しました。
少女まんがの〈キャラ〉の基本形式は、明治時代、与謝野晶子の『乱れ髪』の挿画にフランスのアールヌーボーの装飾画家のミュシャの絵を借用した絵が採用されたことに始まります。
この装飾的な絵と生々しい身体性や内面さをカップリングした藤島の工夫がいわば「少女まんが」の起源といえます。晶子とミュシャから始まり、夢二を挟みつつ、24年組からBLに至る少女まんがの通史です。
「私」を相対化したり距離をとってクリティカルに書くのはけっこう難しいことです。
〈キャラ〉にひどく不安定な自我を代入し、まんがを使って物語ることで、ささやかな安定を自力で手に入れられる可能性もあります。
書き込み式絵本の例。
アイデンティティの不安と「キャラ」は結びつきやすいということも確かなことです。



【印象に残った言葉】

『若者たちは自分たちに独占的な新しいことばを新しいメディアの中で表現したがります』 P.58

『「私」の末裔たちが書いた小説は「文学」、「妹」たちの書いたものは「ライトノベルズ」と何となく今も区別されているのは、ばかげていると思います』 P.63

『プロの描き手にとっては「キャラクターとしての私」を描くことはそう難しいものではない』 P.66

『近代小説の大半が「みなし子」が本当の親をさがす、という物語としてある』 P.70

『丁野抜作・・・・・・金輪梨郎・・・・・・甘郎・・・・・・灰殻木戸郎』 P106

『「ミッキーの書式」型のまんが表現において特徴的で、それは戦争における「死」を隠蔽するのに都合のよい書式でもありました』 P.116

『その「身体性」への過敏さ故に、ぼくたちのまんがは時には「性描写」や「暴力描写」においても過剰になります。ぼくもまたそのような過剰な身体性への志向をまんがのつくり手としての自分が否応なく持っていることに自覚的です』 P.118

『その固有の内容は、象徴的死と再生によって無知と未成熟から精神年齢に移行する加入儀礼という、恐ろしく厳粛な現実に言及する』 P.124

『とても身も蓋もないことを言えば、「国民」とは何か、と論議するより「非国民」と誰かを罵ったほ方が、「日本人」とは何かを考えるより「中国人」や「韓国人」に当たり散らした方が簡単だ、ということです』 P.150

『「大人になること」や「私であること」をめぐって答えのない状態を生きなくてはいけない近代という時代では、「標」というライナスの毛布によって「私」をかりそめに証明していく必要がある、と考えれば何となく辻褄は合いますね』 P.156

『なるほど、ぼくたちは学校や社会で自分の意思をもって行動せよ、主体的にあれ、と教えられます。そのわりには大人も子供も「空気」を読むことに長けてしまうところは、この国の社会システムには実際には「主体性」も「意思」も育む仕組みがない、という証拠でもある』 P.173

『家にとどまりなさいというメッセージを発する理解の深い母親はそのような主人公の内的欲求を阻害する要素といえないでしょうか』 P.221

『問題なのはそのような「矛盾」につくり手が気づいていない点です』 P.222

『むしろ、より深い意味においてクラリスの「敵対者」だと言えます・・・・・・クラリスが望むのとは違う方向に彼女を導く存在でもあります』 P224

『彼は追う者でも追われる者でもなかったのだ』ゲド戦記 P.237

『すべてをひっくるめて、自分自身の本当の姿を知る者は自分以外のどんな力にも利用されたり支配されたりすることはない。彼はそのような人間になったのである』ゲド戦記 P.239

『「文学」は数ある小説の中でも「私が特別であること」を立証するために書かれているところがあって、本当はそういうものを諦念しないと「文学」とか「小説」は書けないのに、とも思うのですが、この国の近代では作者の自己実現のツールとして「文学」は特権化していき、今も全く変わりません』 P.251

『「物語」をまるで村上春樹のように最後は「脱構築」して、「文学」のように「のらくろ」は終わるのです』 P.261

『つまり「物語」とは「成長」のためのアルゴリズムのようなものです。』


【書評】

 
「キャラ」に「私」を入れ込むことで、「私」を外側から見つめなおすことができる。
そういう可能性が、物語にはある。
それはマインドセットを再設定するためのツールという、とても大きな希望がそこに横たわっている気がする。
物語は原始的で、普遍的なものだ。
それゆえ、世界中の人間に伝えることができる。
とても稀有なツールなのだ。
では人間が幸せに生きるためのマインドセットを、そのツールによって伝えることができれば、世界の幸せの総量をとても大きくすることができるのではないか。
物語のしくみを理解し、それを使いこなすことは、人間の幸せに直結することかもしれない。