正論をいう無職

有職になった

3秒でわかる『盲目の時計職人』




【3秒でわかる】


「累積的自然淘汰による進化論こそが、生物の複雑さを説明できる唯一の理論だ」




【1分でわかる】

まえがき
われわれ自身が存在しているのはなぜか?それはもう解かれてしまっている。ダーウィンとウォレスがその謎をといたのだ。


複雑なデザインがどうやってつくられたのか。


1. とても起こりそうもないことを説明する
われわれ動物は既知の宇宙のなかでもっとも複雑なものである。

より単純なものから、一歩一歩段階を踏んでそれらが変形してきた結果として説明するつもりである。


2. すばらしいデザイン
自然淘汰は盲目の時計職人である。めざす目的はない

そのデザインの複雑さと美しさには感銘をうけるだろう。


3. 小さな変化を累積する
累積淘汰は非ランダムな、つまりでたらめではない過程である。

それには力(パワー)がある。


4. 動物空間を駆け抜ける
たとえば眼というものにしても、それはささやかなはじまりから一歩一歩段階を踏んで変化を重ねることによって生じてきた。

それぞれのテクノロジーは、独立に開発されきた。


6. 起源と奇蹟
累積淘汰はランダムな突然変異をランダムではない順序に配置するので、それはまったく途方も無い幸運であるかのような幻想をもたらす。

利己的な遺伝子』で選んだ「原始スープ」説ではなく、「無機鉱物」説がある。


7. 建設的な進化

自然淘汰は取り除くだけかもしれないが、突然変異は付け加えることができる。

第一は「共適応した遺伝子型」で、第二は「軍拡競争」で進行する。


8. 爆発と螺旋
正のフィードバックは暴走的な増加であり、暴走的な減少である。

性的な広告のための器官に正のフィードバック過程を見ることができる。


9. 区切り説に見切りをつける
区切り平衡説は、長い停滞期を強調してはいるけれども、漸進論者の理論なのである。

区切り平衡説はダーウィン主義に対するちょっとした注釈なのである。その枠組みのなかにしっかり収まるもの
なのである。



10.  真実の生命の樹はひとつ
ただ一つの固有システムは、分岐分類学である。

そこでは、生物体をグループ分けするための究極の基準は類縁関係の近さ、共通祖先の相対的な新しさである。


11. ライバルたちの末路
ダーウィン理論は原理的に生命を説明できる。かつて提唱されてきた他のどんな理論も、原理的に生命を説明できない。

累積的自然淘汰による進化論こそが、われわれの知る限り、組織化された複雑さの存在を原理的に説明することのできる唯一の理論なのだ。




【10分でわかる】

まえがき
われわれ自身が存在しているのはなぜか?それはもう解かれてしまっている。ダーウィンとウォレスがその謎をといたのだ。
それは複雑なデザインがどうしてつくられたのか、という問題である。


1. とても起こりそうもないことを説明する
われわれ動物は既知の宇宙のなかでもっとも複雑なものである。
どのようにそれは存在するようになったのか、またなぜそんなに複雑なのか、われわれは知りたいと思う。
では、「複雑さ」とは何なのだろうか。プディングは均質であり、自動車は不均質である。
これは必要条件かもしれないが、十分条件ではない。山は不均質だが、複雑とは言えない。
「複雑なもの」とは、あらかじめ特定でき、でたらめな偶然だけではとうてい獲得されそうにない何らかの性質をもつものである。
それによって死を食い止めることができるのだ。無生物はこのような意味では仕事はしない。
複雑なもののふるまいは、秩序だった階層構造をなす連続した層とみなされる各構成部分間の相互作用にもとづいて説明されるべきだ。
もう一つの問いは、複雑なものが最初はどのようにして存在するにいたったのかというものである。
より単純なものから、漸進的かつ累積的に、一歩一歩段階を踏んで変形してきた結果として説明するつもりである。


2. すばらしいデザイン
自然淘汰は盲目の時計職人である。めざす目的はない。
この章では、デザインの複雑さと美しさの感銘を与えたい。
コウモリの問題は、暗闇の中でどうやって自在に動きまわるかである。昼は鳥が支配していたのだ。
コウモリはわれわれの何千万年かさきがけて「レーダー」システムを完成させていたのは、いまなら誰でも知っている。ドナルド・グリフィンはこれを「反響定位エコーロケーション)」と呼んだ。
ちょうどイギリス、ドイツ、アメリカがすべて独自にレーダーを開発したように、、コウモリ類はそれぞれ独自にそれを「発明」してきたと思われる。
これらのコウモリは、精巧な計器類を満載している超小型スパイ飛行機のようだ。
われわれが赤とか青を認識するときに、波長の長さで考えたりしていないのと同じく、コウモリは昆虫を認識するときにきっとエコーの遅れによって考えたりしていないはずである。
コウモリは音の情報を、われわれが目に見える情報を使うのとまさしく同じ目的のために使っている。
コウモリによるエコー探査は、私がすばらしいデザインについての論点をはっきりさせるために選ぶことのできたであろう何千例かのうちの一例に過ぎない。
自然の驚異的作品と、それを説明するさいにわれわれが直面する問題を、どうか過小評価しないでいただきたい。


3. 小さな変化を累積する
この章の目的は、基本的に非ランダムな、つまりでたらめではない過程としての、累積淘汰のパワーを示すことにある。
生物体の複雑さを説明するには、「一段階」淘汰と「累積」淘汰をはっきり区別しなくてはならない。
累積淘汰では、その実体は「繁殖(再生産)」する。
誰が言ったか、たっぷり時間がありさえすれば、タイプライターをでたらめに打ち続けるサルだってシェイクスピアの全作品を余さず書くことができる。ここでは「たっぷり時間がありさえすれば」が鍵になる。
その中の一文で検証する。
これは一段階淘汰では、約100億年である宇宙の存在してきた時間のさらに10の20乗倍の長さになる。
では累積淘汰ではどうなのだろうか?
選抜「育種」の41世代目でこの一文に到達した。
累積淘汰と一段階淘汰のあいだには、大きな違いがあるのだ。
だがこのサル・シェイクスピアモデルは、選抜「育種」によって誤解を招きやすいところがある。現実の淘汰にはこのような長期的な目的はないからだ。
次は、ランダムな突然範囲の累積淘汰の結果だけで、コンピューターの画面上に、動物もどきを出現させたい。
これを私は「バイオモルフ」と呼ぶことにする。
〈進化〉は基本的には〈繁殖〉の果てしない反復からなっている。
このバイオモルフの国で、私はあらゆるものに遭遇した。


4. 動物空間を駆け抜ける
多くの人々にとって信じられないのは、たとえば眼というものが、そのささやかなはじまりから一歩一歩段階を踏んで漸進的な変化を重ねることによって生じてきた、ということである。
いくつかの問いと答えがある。
ヒトの眼は、それとほんの少し異なった、かりにXとでも呼ぶ何かから直ちに生じたのだろうか?イエスである。
現在のヒトの眼からまったく眼のない状態まで連続的につなぐXの系列はあるだろうか?イエスである。
われわれとそのもっとも初期の祖先とのあいだの世代数は数十億になるのである。
まったく眼のない状態からヒトの眼までをつなぐX系列の各段階を考えてみると、それらどのXも、当の動物の生き残りと繁殖を手助けするのに十分うまくはたらいていたというのはありそうなことだろうか?イエスだと思う。
まったくない状態よりも、少しでもある方が、生存の可能性はあがるからだ。加えて、現在生きている動物たちに、一連の中間段階が見いだされる。
オウムガイの例。インドのキノボリウオ。
表面的な収斂による類似性は、顕著なものがある。
タコの眼とわれわれの眼。コウモリとアブラヨタカ。
それはちょうどこのテクノロジーがイギリスとアメリカとドイツの科学者によって独立に開発されたのと同じようなものである。
大規模な収斂の例は、二つもしくはそれ以上の大陸が互いに長期間隔離されており、一連の並行した「商売」がそれぞれの大陸にいる系統的に無関係な動物によって採用されるときに生ずるのだ。
サスライアリとグンタイアリ。


5.力と公文書
生物は、他のどんなものとも同じく、分子の集まりである。
特別なことは、それがはるかに複雑で、諸司令であるプログラムに従って組み立てられているということである。
遺伝子の情報技術はデジタルである。
DNA暗号文の記号は、最初対応するRNAの記号に正確に転写される。それからポリペプチドまたはタンパク質と呼ばれる別の重合体(ポリマー)に翻訳される。
すべての生きた細胞は、バクテリアの一細胞でさえ、巨大な化学工場だと考えられる。
体の細胞はみな同じ遺伝子を含んでいるが、細胞の種類が違うと読み出される遺伝子の部域(サブセット)が異なり、他の部域は無視される。
DNA情報は、精子や卵をつくる細胞のなかのDNAとして垂直的に伝達される。これを「公文書DNA」と呼ぶことにしよう。
DNAの特性が、累積的な淘汰のどの過程でも必要とされる基本要素である。
原始の地球のような死の惑星が備えているべき生命の要素とはいったい何だろうか?それは、ある特性、自己複製である。これこそ累積淘汰の基本要素なのである。
大腸菌に寄生するウイルスのQベータの例。
力について語るとき、われわれは、それがいかに間接的な結果であれ、自らの将来に影響を与える複製子の作用の結果について語っている。
ビーバーのダムの例。


6. 起源と奇蹟
奇蹟というものは、そもそも起こるとすればだが、幸運のとてつもない積み重ねなのである。
生命についてのあらゆる現代的な説明において鍵となるのは累積淘汰である。累積淘汰は、納得できる程度に幸運な一連の出来事(ランダムな突然変異)をランダムではない順序に配置するので、連鎖の最終的な産物は、たとえこれまでの宇宙の歴史の何百万倍もの時間が与えられたところで、偶然だけではとうてい生まれそうにないような、まったく途方もない幸運であるかのような幻想をもたらす。
RNA断片は、レプリカーゼという「道具立て」があれば収斂的に進化した。
ここでは『利己的な遺伝子』で選んだ「原始スープ」説ではなく、「無機鉱物」説を説明する。
現代のDNA・タンパク質複製装置は新参者で、初期のより簡単な複製子から基本的な複製子の役割を引き継いだ後発の強奪者だと見る。
ケアンズ=スミスは、最初の生物は、珪酸塩などの、自己複製する無機物の結晶を基礎にしていたと考えている。
結晶は溶液中で自然にできはじめることもあれば、塵の粒子やよそから持ち込まれた小さな結晶で「種付け」されなければならないこともある。
黒鉛とダイアモンドのように、二つの違った方法で結晶化できる化学物質もある。それらのもし一方のタイプが他方より少しでも速く成長したり分裂したりする傾向があれば、単純なかたちの自然淘汰を見ることになるだろう。
粘土や泥や岩は小さな結晶でできている。それらには疵がある。そして疵ができると、その上に層ができるので、疵はコピーされることが多い。
実際、その情報記憶力に驚嘆させられるDNA分子には、どこか結晶そのものに近いところがある。
結晶はここ地球の水中で、DNA分子なら必要とする精巧な「装置」なしに、自然に形成される。そして自然に疵を生じ、生じた疵のいくつかは、後からできた結晶の層でも複製されるだろう。その後に適当な疵のある結晶のかけらが剥がれると、剥がされたかけらは新たな結晶の「種子」としてはたらき、新たな結晶はどれも「親」がもっていた疵のパターンを「受け継いで」いると想像できる。
こうして、ある種の累積淘汰を開始させるのに必要だったであろう、複製、増殖、遺伝、突然変異といった特性のいくつかを、原始の地球上の鉱物結晶がそなえていたという想像図が得られる。
それでもなお「力」という要素が欠けている。
粘土にとって、「力」とはなんだろうか?
ある粘土の変異タイプが、流れを堰き止めることによって、自らが堆積される見込みを高めているとしよう。
このようなタイプの粘土の結晶の種子にたまたま「感染」したすべての流れでは、流れに沿って同じような浅い池が次々に増えていく。
やがて乾いて土ぼこりになって飛んで行くこの塵は、どうやって流れをせき止めて、最終的により多くの塵をつくるかという「指令」を運んでいる、と言ってもよいだろう。
これは一種の循環過程(サイクル)であり、累積淘汰をはじめる能力を本物の生活環と共有している。
このサイクルの各「世代」は、結晶の種子が塵のかたちをとって親の流れから離れたときにはじまる。
祖先の結晶構造は、結晶の偶発的な誤り、つまり積み重なり方に偶然の変更がないかぎり、世代を経て保存される。
ここで、議論を次の段階に進めよう。ある系統の結晶は、その結晶が「世代」を重ねてゆくことを助ける、新しい物質の合成をたまたま触媒するかもしれない。これは自己複製する結晶系統の道具、つまり原始的な「表現型」のはじまりとみなせるかもしれない。採油業者が有機分子を使って泥の流れや掘りやすさを操作できるのなら、累積淘汰が自己複製している鉱物に同様のものを利用させるようにみちびいてならない理由はどこにもない。
「自己複製する微生物の地球上での出現をもたらしたいくつか、おそらくは多くの非生物的な化学反応の進行が、地球の歴史のごく初期に、粘土鉱物やその他の無機物質の表面に近接して起こったということは広く認められている」という科学者の認知は、さらにケアンズ=スミスの説の説得力を高めることになる。
ではRNAのような核酸はどうだろうか?
まず最初、採油業者がタンニンを使ったり、われわれが石鹸を使ったりするように、純粋に構造的な目的で使われていたとされる。
RNA類似の分子は、中心部が負の電荷を帯びるため、おそらく粘土粒子の外側を覆う傾向をもつだろう。
ここで重要なのは、RNAないしその類似物が、自己複製しはじめるよりもずっと前に現れていたことである。
ついに自己複製するようになったのは、鉱物結晶「遺伝子」がRNA(や類似の分子)の生産効率を改善するために進化させた工夫としてだった。しかし、自己複製する分子が新しく現れるやいなや、新しい種類の累積淘汰がはじまっただろう。さらに進化し続けて、とうとう今日よく知られているDNA暗号を完成させた。もともとの鉱物性複製子は役割を終えた足場のように退けられ、現在の生物はすべて、ただひとつの一様な遺伝システムと、ほぼ均質の生化学的性質とをそなえた、ある比較的新しい共通の祖先から進化した。


7. 建設的な進化
自然淘汰は全く否定的な力でしかない、つまり奇形とかできそこないを取り除くことはできても、複雑で美しくしかも効率のよいデザインをつくりあげることはできないと、しばしば考えられている。
自然淘汰は取り除くだけかもしれないが、突然変異は付け加えることができる。
二つの主要な方法がある。
第一は「共適応した遺伝子型」で、第二は「軍拡競争」で進行する。
この二つは「共進化」と「互いの環境としての遺伝子」とう項目のもとに結びついている。
まずは「共適応した遺伝子型」だ。
遺伝子のチームが一丸となって問題を解決する方向に向かって進化するというふうに思い描くことができる。遺伝子自身が進化するのではない。遺伝子はただ遺伝子プールのなかで生き延びたり生き延び残ったりするだけである。進化するのは「チーム」なのだ。
コンピューターとDNAのアナロジー。
真核細胞とはバクテリアの細胞を除くすべての細胞である。
われわれの細胞の内部にはいくつかのミニ細胞がある。核やミトコンドリアや色素体である。
マーギュリス説は、ミトコンドリアや色素体、その他いくつかの細胞内構造がそれぞれバクテリアに由来しているというものである。
真核細胞ができてしまうと、新たな広がりをもったデザインがそっくり可能になったように思える。
進化における大きな一歩が踏み出されたのは、分裂によって次々とつくりだされた細胞が、独立して離れていくかわりに、いっしょにくっついたときである。高次構造はそうなってからはじめて現れた。
さて、これではじめて体が大きくなる可能性が生まれた。
第二の主題は「軍拡競争である」。
進化に見られる「前進性」は、大部分軍拡競争によって導入されてきた。
肉食獣がしだいに「よりよく」なる傾向は、餌生物の側にもそれに並行した傾向がなければ、たちまち失速してしまうだろう。その過程は、何十万年というタイムスケールで悪意にみちた螺旋を描いていく。
ある種が二つ(あるいはそれ以上)の敵をもつこともある。
もっとも純粋な軍拡競争概念によれば、軍拡競争に関係する両者の成功のための装備にははっきりした前進があるけれども、両者の成功率には絶対的にゼロ前進しかないことになる。
体が統合されて首尾一貫した合目的性を進化させるのは、遺伝子が同種内の他の遺伝子によってもたらされた環境のなかで淘汰されるからである。
軍拡競争は、ある意味では無益で徒労なやり方で、また別の意味では前進的でわれわれ観察者にとって果てしなく魅力のあるやり方で、将来に向かって駆け抜けていく。


8. 爆発と螺旋
正のフィードバック過程は不安定な暴走的性質をもっている。暴走的な増加をもたらすだけではなく、暴走的な減少をもたらすこともある。
これのめざましい例が性的な広告のための器官に見られる。
生存競争の目的は繁殖だった。
淘汰は動物をうまく繁殖に成功させるような性質を有利にするのであり、そして生存は繁殖するための闘いの一部にすぎないのだ。
フィッシャーは雌の選好性が雄の装飾と歩調を合わせて動的に進化するというふうに考えた。
コクホウジャクの尾の例。
雌の選好性のための遺伝子は雌の行動にだけ発現されるが、にもかかわらずそれらの遺伝子は雄の体にも存在している。これが鍵となる着想だ。
雄の性質のための遺伝子と雌にその性質を好ませる遺伝子は、個体群のなかででたらめに混ざり合うのではなく、連帯しながら混ざり合わされる傾向にある。
だが雄の尾長には実用上の最適値もある。
個体群中の雌が雄の特徴に強い選好性をもっているばあい、必然的にそれぞれの雄の体は自分の特徴を雌に好ませる遺伝子のコピーをもつ傾向がある。
不安定な状態は、おそらく少しでも多数はの方向に強化されていくだろう。
雄の実際の平均尾長と、雌のほんとうに好む平均尾長との差。これが「選択の不一致」である。
条件が整い、世代が進むにつれ選択の不一致が小さくなる傾向にあれば、個体群は「最寄りの」平衡点に落ち着くだろう。
暖房装置と冷房装置をそなえた部屋の温度を摂氏20度にするとき、その方法が何通りもあるのと同じように、その平衡点は集まりであり、一つの直線となる。だが、それは実際には「一点に落ち込み」やすい。
選択の不一致が大きくなっていくばあいはどうだろう?
ここでは正のフィードバックが登場する。
そのときどきの寄生虫に強い雄を雌が選ぶという説もある。


9. 区切り説に見切りをつける
進化生物学者のなかには広く宣伝の行き渡った一派があって、その主唱者たちは自ら区切り論者と名乗り、もっとも勢力のある先人たちに「漸進論者」という名称を押しつけた。
実際、私は「漸進論者」という言葉の解釈を広げて、およそ誰でも漸進論者にほかならないとするつもりである。
化石を古いものから新しいものへ並べると、ある種の秩序だった系列が見いだされるはずである。
ダーウィンからこのかた、進化学者は、すべての化石を年代順に並べても、滑らかな系列にはならないものと理解していた。変化傾向は認めることができるが、ふつうとびとびであって滑らかではない。
グールドは、区切り平衡説を発表した。進化は、ある系統では進化上の変化がまったく起きない長い「停滞」期を区切って、ある意味で突然の爆発として進行しただろうというのである。
区切り平衡説と跳躍進化は混同してはいけない。これらはなんら関係がない。
種の起源という問題に対するダーウィンの答えは、一般的な意味でいうと、種は他の種から由来するというものだった。
区切り論者が反対しているのは、実際にはダーウィンの言う漸進説ではない。結局彼らが異議を唱えているのは、ダーウィンのものとされている進化速度一定という信念なのだ。
区切り論者は進化における跳躍について語っているのではなく、比較的急速に起きる進化のエピソードについて語っているのだ。これは10万年というような地質学的には測れないほど短い、という意味だ。人間の基準の急速ではない。
大きくて思い物体が位置を変えにくいという慣性が、個体群にもあてはまるとマイアーは言った。
区切り論者はこの提案を採用し、誇張して、空白期こそが、主にとっての規範(ノーム)だという強い信念に仕立てあげたのである。
区切り平衡説は、一挙に漸進的進化の起きる相対的に短い期間に挟まれた長い停滞期を強調してはいるけれども、漸進論者の理論なのである。
区切り平衡説はダーウィン主義に対するちょっとした注釈なのである。その枠組みのなかにしっかり収まるもの
なのである。


10.  真実の生命の樹はひとつ
この章は分類学についてである。
ただ一つの固有システムは、分岐分類学である。
そこでは、生物体をグループ分けするための究極の基準は類縁関係の近さ、共通祖先の相対的な新しさである。
真の分岐分類学は厳密に階層的である。つねに分岐し決して二度と収束しない枝をもった樹として表される。
これは「完全な入れ子」によって説明される。
図書館の分類と違い、書類整理にまつわる中間型の問題は生じない。
進化論がわれわれに抱かせるもっとも強固な期待の一つは、中間型が存在しないということにほかならない。
これには二つの限定条件をつけなければならない。
まず、現実の世界では完全な情報をもちあわせていないということ。
次にあまりにたくさんの化石があっても、別種の問題が生じるということ。絶滅した動物を入れだしたとたん、連続しているとみなしうる一連の中間型を相手にしなければならなくなるからだ。中間型がすべて死んでいるからこそ、区別が明快なのである。
実際上の難点がある。
悩みのたねで一番興味深いのは進化的収斂である。これはまったく厄介である。
だが、私が個人的には楽観していられるのは、おもに分子生物学にもとづいた強力な新技術が登場したからである。
全生物が、外観はいかに違って見え用途も、遺伝子レベルではまったく同じ言語を「喋って」いるのだ。
タンパク質の文章は、細部は違っていても、全体のパターンとしてはよく似ていることがしばしばである。
タンパク質やDNAの文章がよく似ていれば類縁が近く、違っているほど類縁がより遠いと考えてよい。
われわれはかなり正確な「分子時計」を手にしているのだ。
収斂の問題は統計学という武器によって一掃できる可能性がある。
DNAの配列は全生命の福音の記録であり、われわれはそれらを解読することを学んだのである。
分類学者の陣営は二つある。
一つは「系統分類学者」と呼ばれている。私はいままで系統分類学者の観点からこの章を書いてきた。
二つ目は「純粋類似測定学派」とでも呼んでおこう。
「系統分類学者」はさらに二つに分かれる。分岐論者と「伝統的」進化分類学者である。
二種の魚、ヤコブエサウの例。
分岐論と伝統的進化分類学にはどちらのも長所がある。
純粋類似測定派も二つに分けられる。「平均距離測定派」と「変形分岐論者」である。
「平均距離測定派」はふつう、動物の測れるところはどこでも測るところから始める。こうした「数量分類学」に、私は復活を期待している。
「変形分岐論者」から、もっぱら例の「意地悪さ」が発散している。
変形分岐論者は考察のなかに祖先という概念が入るのを断固として認めない。それゆえ具体的には決してならない。彼らは進化そのものにどこか間違ったところがあるにちがいないとまで結論したのだ。
私の解釈では、彼らは生物学における分類学の重要性を誇張して楽しんでいるだけだ。


11. ライバルたちの末路
ダーウィン理論は原理的に生命を説明できる。かつて提唱されてきた他のどんな理論も、原理的に生命を説明できない。
生物のもつ特定の性質としては、「適応的複雑さ」を選ぼう。
どのその他のどの理論によっても、これに対する満足のいく説明はできない。
まずラマルク主義について考えよう。
現代の「ネオラマルク主義者」の要素の二つは、獲得形質の遺伝と用不用の原理である。
もはや伝説のようになっている例は、鍛冶屋の腕とキリンの首である。
発生学の原理が関係する。
料理の本に載っている「料理法」は、どんな意味でも、オーブンから出来上がってくるケーキの設計図ではない。それは一組の指令だ。
現在われわれは受精卵からの発生について大部分理解できていない。それでも、遺伝子が設計図よりも料理法にはるかに似ているという示唆は、きわめて強固である。
遺伝子と体の一部とのあいだには単純な一対一対応などというものはない。
料理法の言葉とケーキのかけらとの対応がないのと同じである。
いま料理法の「ベーキングパウダー」という言葉を「イースト」に置換えたとしてみよう。
それらには決定的な違いがあるはずだ。
言葉からケーキのかけらへの一対一の対応はないけれども、言葉の違いからケーキ全体の違いへの一対一の対応はあるのである。
料理法のオリジナル版にしたがって焼いたケーキと「突然変異」版にしたがって焼いたケーキとでは、たとえどのケーキのなかにも当の言葉に対応するような特定の「部分」はこれっぽっちもないとしても、どちらの方法で焼いたかを見定めることのできる信頼すべき違いがあるだろう。
これを獲得形質の遺伝問題にあてはめよう。
遺伝子は設計図ではなく料理法だ。それゆえ、体が生涯のあいだに獲得した形質を、遺伝暗号に忠実に転写しなおすということはできない。だから次世代には伝えられないのだ。
また獲得形質が遺伝するとしたとしても、すべての獲得形質が改善とはかぎらない。その識別ができるとすると、それ自体の説明が必要になってくる。
さて次に、用不用の原理をとりあげよう。
ヒトの眼のような、きわめて巧みにあつらえられた複雑さに心をとめたうえで、さてそれが用不用の原理によって組み立てられるかどうか、問うてみるがいい。その答えはあきらかに「ノー」だと、私には思える。
ラマルク説は粗っぽすぎるのだ。
かくして、ラマルク主義は、はなからダーウィン主義のライバルなんぞではなかったことがわかった。
一種のダーウィン主義カリカチュアが仕立てあげられているのはあきらかである。
突然変異はランダムでない点として三つ挙げる。突然変異はX線などによって誘発される。突然変異は遺伝子によって異なっている。そして前進突然変異率は復帰突然変異率と等しいとはかぎらない。
加えて、突然変異は、既存の胚発生過程に変更を加えることしかできないという意味でランダムではない。
累積的自然淘汰による進化論こそが、われわれの知る限り、組織化された複雑さの存在を原理的に説明することのできる唯一の理論なのだ。




【60分で理解する】

まえがき
われわれ自身が存在しているのはなぜか?それはもう解かれてしまっている。ダーウィンとウォレスがその謎をといたのだ。
それは複雑なデザインがどうしてつくられたのか、という問題である。
わたしは様々な方法で読者にそれを伝えなくてはならない。われわれの存在そのものが、考えただけでぞくぞくするような謎なのだという見方で、読者を刺激したい。そして、それは既に解かれているのだ。
われわれの多くは特殊相対性理論一般相対性理論も理解していないが、この理論には反対しない。だが、「アインシュタイン主義」とは違って、ダーウィン主義は、どんなに無知な批判者からも餌食とみなされている。
それはあたかも、そう人間の脳そのものが特別にデザインされているかのようですらある。私の仕事の一つはダーウィン主義が「偶然」についての理論であるという、根強い神話を破壊することである。慣れ親しんだタイムスケールの虜からの脱出の手伝いもしよう。
われわれはデザイナーとしても成功している。だから複雑なデザインはあらかじめ考えぬかれているのだ、という考え方に慣れきっている。そこから飛躍する必要がある。それを助けるのが本書の主たる目的である。


1. とても起こりそうもないことを説明する
われわれ動物は既知の宇宙のなかでもっとも複雑なものである。
どのようにそれは存在するようになったのか、またなぜそんなに複雑なのか、われわれは知りたいと思う。
その違いはデザインの複雑さの違いである。
生物はどのようにしてはたらくか、またそもそもなぜ存在しているのかについて、いくつかの一般原理を理解するのが、われわれのできることである。
われわれのほとんどは、どのようにして飛行機が飛ぶのかを詳しくは理解していない。だが製造過程は知っている。
われわれ自身の体はどうだろう?われわれ一人一人は、飛行機と同じように一つの機械であり、ただそれよりいっそう複雑なだけである。その製造過程は飛行機と同じだろうか。答えは「ノー」である。だが、そこできわめて多くの人々がダーウィン流の説明を誤解している。
表題の「時計職人」は、18世紀の神学者ウィリアム・ペイリーの有名な著作から借りてきたものである。素晴らしい著作である。唯一彼が間違ったのは、説明のやり方そのものであった。正しい説明はダーウィンを待たねばならなかった。
荒野に落ちている石と、落ちている時計を比較して、それがデザインされたものだと結論した。
ヒトの眼も望遠鏡のように設計されたものとしたのだ。そこには当時の最良の生物学的知識と、熱意のこもった誠実さがあった。
無神論ダーウィン以前でも論理的には成立しえたかもしれないが、ダーウィンによってはじめて、知的な意味で首尾一貫した無神論者になることが可能になった。
では、「複雑さ」とは何なのだろうか。プディングは均質であり、自動車は不均質である。
これは必要条件かもしれないが、十分条件ではない。山は不均質だが、複雑とは言えない。
数学的発想から定義しよう。「複雑なもの」とは偶然だけでは生じそうにない配置のものだ、と。
「複雑なもの」とは、あらかじめ特定でき、でたらめな偶然だけではとうてい獲得されそうにない何らかの性質をもつものである。
それによって死を食い止めることができるのだ。無生物はこのような意味では仕事はしない。
「階層的還元主義」は、ものごとがどのようにはたらいているかを理解しようとするまっとうな情熱の異名にほかならない。
複雑なもののふるまいは、秩序だった階層構造をなす連続した層とみなされる各構成部分間の相互作用にもとづいて説明されるべきだと、われわれは結論した。
もう一つの問いは、複雑なものが最初はどのようにして存在するにいたったのかというものである。
より単純なものから、漸進的かつ累積的に、一歩一歩段階を踏んで変形してきた結果として説明するつもりである。
物理学者の役割は事実を受け入れることに正当な保証を与えることである。わたしの生物学者としての仕事は、それと相補的に、複雑なものの世界を、物理学者に委ねてもかまわないくらいの単純な実体に到達するまで説明することである。



2. すばらしいデザイン
自然淘汰は盲目の時計職人である。めざす目的はない。
この章では、デザインの複雑さと美しさの感銘を与えたい。
論点を説明するときは、まず生ける機械の直面している問題を提出し、その上で、気のきいた技術者なら与えるであろうその問題の解決策について考察するつもりだ。
コウモリの問題は、暗闇の中でどうやって自在に動きまわるかである。昼は鳥が支配していたのだ。
コウモリはわれわれの何千万年かさきがけて「レーダー」システムを完成させていたのは、いまなら誰でも知っている。ドナルド・グリフィンはこれを「反響定位エコーロケーション)」と呼んだ。
ちょうどイギリス、ドイツ、アメリカがすべて独自にレーダーを開発したように、、コウモリ類はそれぞれ独自にそれを「発明」してきたと思われる。
これらのコウモリは、精巧な計器類を満載している超小型スパイ飛行機のようだ。
われわれが赤とか青を認識するときに、波長の長さで考えたりしていないのと同じく、コウモリは昆虫を認識するときにきっとエコーの遅れによって考えたりしていないはずである。
じつのところわれわれの知覚というのは、外部から入ってくる情報を利用できるかたちに頭のなかで変換し、それをもとに組み立てられている、脳内の精巧なコンピューター・モデルなのではないだろうか。
コウモリは音の情報を、われわれが目に見える情報を使うのとまさしく同じ目的のために使っている。
コウモリによるエコー探査は、私がすばらしいデザインについての論点をはっきりさせるために選ぶことのできたであろう何千例かのうちの一例に過ぎない。
自然の驚異的作品と、それを説明するさいにわれわれが直面する問題を、どうか過小評価しないでいただきたい。
ペイリーの仮説は、生きている時計が、腕の良い時計職人によって文字通りデザインされつくられたというものだった。現代のわれわれの仮説によれば、その仕事は自然淘汰によって、徐々に進化する段階を経てなされたのである。
「個人的猜疑にもとづく議論」というのは、ダーウィン自身も記していたように、きわめて脆弱な論法である。ばあによっては、単なる無知にもとづいていることもある。
猜疑の底には二重の基盤が潜んでいると私は思う。
一つは、進化的変化が起こるのに使える時間が途方も無く長いので、われわれはそれを直感的に把握できないことである。人間がイヌを生み出してきた変化は、数百年ないしはせいぜい数千年である。その短い期間でオオカミからチワワまでつくってきた。眼の進化の利用できた時間は数億年なのである。
二つめは、確率論を直感的に適用してしまうことにある。ここには自然淘汰と「ランダム性」の混乱がある。これは次の章で詳しく取り上げることにしよう。


3. 小さな変化を累積する
この章の目的は、基本的に非ランダムな、つまりでたらめではない過程としての、累積淘汰のパワーを示すことにある。
現代人のわれわれは、砂浜の石のありかたを精霊の仕業とは思わない。それが波の物理的な作用によって生じたと説明できるからだ。わずかばかりの秩序が無秩序から現れるのであり、何らかの精神がその秩序をつくろうとしたわけではない。
これらは「一段階」淘汰である。生物体の複雑さを説明するには、この「一段階」淘汰と「累積」淘汰をはっきり区別しなくてはならない。
累積淘汰では、その実体は「繁殖(再生産)」する。
誰が言ったか、たっぷり時間がありさえすれば、タイプライターをでたらめに打ち続けるサルだってシェイクスピアの全作品を余さず書くことができる。ここでは「たっぷり時間がありさえすれば」が鍵になる。
その中の一文で検証する。
これは一段階淘汰では、約100億年である宇宙の存在してきた時間のさらに10の20乗倍の長さになる。
では累積淘汰ではどうなのだろうか?
選抜「育種」の41世代目でこの一文に到達した。
累積淘汰と一段階淘汰のあいだには、大きな違いがあるのだ。
だがこのサル・シェイクスピアモデルは、選抜「育種」によって誤解を招きやすいところがある。現実の淘汰にはこのような長期的な目的はないからだ。
次は、ランダムな突然範囲の累積淘汰の結果だけで、コンピューターの画面上に、動物もどきを出現させたい。
これを私は「バイオモルフ」と呼ぶことにする。
〈進化〉は基本的には〈繁殖〉の果てしない反復からなっている。
このプログラムを書いたとき、私は樹木ふうの形をした変異体以上の何かが進化してこようとは考えてもいなかった。だが、それは現れたのだ。私ははっきりと、あの〈ツァラトゥストラはかく語りき〉のオープニング・コードを心のなかで聞いた。このバイオモルフの国で、私はあらゆるものに遭遇した。


4. 動物空間を駆け抜ける
多くの人々にとって信じられないのは、たとえば眼というものが、そのささやかなはじまりから一歩一歩段階を踏んで漸進的な変化を重ねることによって生じてきた、ということである。
いくつかの問いと答えがある。
ヒトの眼は、それとほんの少し異なった、かりにXとでも呼ぶ何かから直ちに生じたのだろうか?イエスである。
現在のヒトの眼からまったく眼のない状態まで連続的につなぐXの系列はあるだろうか?イエスである。
われわれとそのもっとも初期の祖先とのあいだの世代数は数十億になるのである。
まったく眼のない状態からヒトの眼までをつなぐX系列の各段階を考えてみると、それらどのXも、当の動物の生き残りと繁殖を手助けするのに十分うまくはたらいていたというのはありそうなことだろうか?イエスだと思う。
まったくない状態よりも、少しでもある方が、生存の可能性はあがるからだ。加えて、現在生きている動物たちに、一連の中間段階が見いだされる。
オウムガイの例。インドのキノボリウオ。
表面的な収斂による類似性は、顕著なものがある。
タコの眼とわれわれの眼。コウモリとアブラヨタカ。
それはちょうどこのテクノロジーがイギリスとアメリカとドイツの科学者によって独立に開発されたのと同じようなものである。
大規模な収斂の例は、二つもしくはそれ以上の大陸が互いに長期間隔離されており、一連の並行した「商売」がそれぞれの大陸にいる系統的に無関係な動物によって採用されるときに生ずるのだ。
サスライアリとグンタイアリ。


5.力と公文書
何年か前なら、生物は無生物とくらべて何が特別なのかと尋ねられれば、たいていの生物学者は原核質と呼ばれる特別の物質のことを答えただろう。そのさきには原形質がある。だが、それはもう死語である。
生物は、他のどんなものとも同じく、分子の集まりである。
特別なことは、それがはるかに複雑で、諸司令であるプログラムに従って組み立てられているということである。
生きるものすべての中核に存在するのは、情報であり、ことばであり、指令である。
遺伝子の情報技術はデジタルである。
遺伝的性質が混合的か粒子的かの区別は、たいへん重要な論点だった。
混合は正しくない。今日の人々がその祖父の時代の人々よりも互いによく似ているわけではない。変異は維持されているのである。淘汰のはたらく変異の給源がある。
DNA暗号文の記号は、最初対応するRNAの記号に正確に転写される。それからポリペプチドまたはタンパク質と呼ばれる別の重合体(ポリマー)に翻訳される。
すべての生きた細胞は、バクテリアの一細胞でさえ、巨大な化学工場だと考えられる。
体の細胞はみな同じ遺伝子を含んでいるが、細胞の種類が違うと読み出される遺伝子の部域(サブセット)が異なり、他の部域は無視される。
DNA情報は、精子や卵をつくる細胞のなかのDNAとして垂直的に伝達される。これを「公文書DNA」と呼ぶことにしよう。
突然変異こそが種に新たな変異をもたらす唯一の方法だから、自然淘汰による進化の速度は突然変異率よりも速くはなれない。
DNAの特性が、累積的な淘汰のどの過程でも必要とされる基本要素である。
原始の地球のような死の惑星が備えているべき生命の要素とはいったい何だろうか?それは、ある特性、自己複製である。これこそ累積淘汰の基本要素なのである。
大腸菌に寄生するウイルスのQベータの例。
力について語るとき、われわれは、それがいかに間接的な結果であれ、自らの将来に影響を与える複製子の作用の結果について語っている。
ビーバーのダムの例。
遺伝子の変化が自分の複製される可能性に足して及ぼすどんな効果も、自然淘汰にとっては格好の獲物である。すべてはまったく単純で、楽しくなるほど自動的で、意図的ではない。
累積淘汰の基本要素、複製、誤り、そして力、がまず最初に現れたなら、似たようなことことが起こるのはほとんど必然である。


6. 起源と奇蹟
奇蹟というものは、そもそも起こるとすればだが、幸運のとてつもない積み重ねなのである。
だがそれだって計算してみるまでは本当に起こりえないかどうかわからない。そして計算をするには、どれくらいの時間があれば、何回ぐらい機会があれば、そのできごとが起こるのかを知らねばならない。
生命についてのあらゆる現代的な説明において鍵となるのは累積淘汰である。累積淘汰は、納得できる程度に幸運な一連の出来事(ランダムな突然変異)をランダムではない順序に配置するので、連鎖の最終的な産物は、たとえこれまでの宇宙の歴史の何百万倍もの時間が与えられたところで、偶然だけではとうてい生まれそうにないような、まったく途方もない幸運であるかのような幻想をもたらす。
RNA断片は、レプリカーゼという「道具立て」があれば収斂的に進化した。
DNA・タンパク質複製装置の起源を超自然の「デザイナー」に頼って説明することは、「デザイナー」の起源を説明しないままにしているのだから、まさしく何も説明していないことになる。「神は常にいらっしゃった」といった類のことを言わざるをえなくなり、そうした怠惰な逃げ道を認めるのなら、「DNAは常にいらっしゃった」とでも「生命は常にいらっしゃった」とでも言ってよいことになり、それで終わってしまう。
扱っている数字が大きいからという理由だけで問いから逃げないようにしよう。
ここでは『利己的な遺伝子』で選んだ「原始スープ」説ではなく、「無機鉱物」説を説明する。
現代のDNA・タンパク質複製装置は新参者で、初期のより簡単な複製子から基本的な複製子の役割を引き継いだ後発の強奪者だと見る。
ケアンズ=スミスは、最初の生物は、珪酸塩などの、自己複製する無機物の結晶を基礎にしていたと考えている。
結晶は溶液中で自然にできはじめることもあれば、塵の粒子やよそから持ち込まれた小さな結晶で「種付け」されなければならないこともある。
黒鉛とダイアモンドのように、二つの違った方法で結晶化できる化学物質もある。それらのもし一方のタイプが他方より少しでも速く成長したり分裂したりする傾向があれば、単純なかたちの自然淘汰を見ることになるだろう。
粘土や泥や岩は小さな結晶でできている。それらには疵がある。そして疵ができると、その上に層ができるので、疵はコピーされることが多い。
実際、その情報記憶力に驚嘆させられるDNA分子には、どこか結晶そのものに近いところがある。
結晶はここ地球の水中で、DNA分子なら必要とする精巧な「装置」なしに、自然に形成される。そして自然に疵を生じ、生じた疵のいくつかは、後からできた結晶の層でも複製されるだろう。その後に適当な疵のある結晶のかけらが剥がれると、剥がされたかけらは新たな結晶の「種子」としてはたらき、新たな結晶はどれも「親」がもっていた疵のパターンを「受け継いで」いると想像できる。
こうして、ある種の累積淘汰を開始させるのに必要だったであろう、複製、増殖、遺伝、突然変異といった特性のいくつかを、原始の地球上の鉱物結晶がそなえていたという想像図が得られる。
それでもなお「力」という要素が欠けている。
粘土にとって、「力」とはなんだろうか?
ある粘土の変異タイプが、流れを堰き止めることによって、自らが堆積される見込みを高めているとしよう。
このようなタイプの粘土の結晶の種子にたまたま「感染」したすべての流れでは、流れに沿って同じような浅い池が次々に増えていく。
やがて乾いて土ぼこりになって飛んで行くこの塵は、どうやって流れをせき止めて、最終的により多くの塵をつくるかという「指令」を運んでいる、と言ってもよいだろう。
これは一種の循環過程(サイクル)であり、累積淘汰をはじめる能力を本物の生活環と共有している。
このサイクルの各「世代」は、結晶の種子が塵のかたちをとって親の流れから離れたときにはじまる。
祖先の結晶構造は、結晶の偶発的な誤り、つまり積み重なり方に偶然の変更がないかぎり、世代を経て保存される。
ここで、議論を次の段階に進めよう。ある系統の結晶は、その結晶が「世代」を重ねてゆくことを助ける、新しい物質の合成をたまたま触媒するかもしれない。これは自己複製する結晶系統の道具、つまり原始的な「表現型」のはじまりとみなせるかもしれない。採油業者が有機分子を使って泥の流れや掘りやすさを操作できるのなら、累積淘汰が自己複製している鉱物に同様のものを利用させるようにみちびいてならない理由はどこにもない。
「自己複製する微生物の地球上での出現をもたらしたいくつか、おそらくは多くの非生物的な化学反応の進行が、地球の歴史のごく初期に、粘土鉱物やその他の無機物質の表面に近接して起こったということは広く認められている」という科学者の認知は、さらにケアンズ=スミスの説の説得力を高めることになる。
ではRNAのような核酸はどうだろうか?
まず最初、採油業者がタンニンを使ったり、われわれが石鹸を使ったりするように、純粋に構造的な目的で使われていたとされる。

RNA類似の分子は、中心部が負の電荷を帯びるため、おそらく粘土粒子の外側を覆う傾向をもつだろう。
ここで重要なのは、RNAないしその類似物が、自己複製しはじめるよりもずっと前に現れていたことである。
ついに自己複製するようになったのは、鉱物結晶「遺伝子」がRNA(や類似の分子)の生産効率を改善するために進化させた工夫としてだった。しかし、自己複製する分子が新しく現れるやいなや、新しい種類の累積淘汰がはじまっただろう。さらに進化し続けて、とうとう今日よく知られているDNA暗号を完成させた。もともとの鉱物性複製子は役割を終えた足場のように退けられ、現在の生物はすべて、ただひとつの一様な遺伝システムと、ほぼ均質の生化学的性質とをそなえた、ある比較的新しい共通の祖先から進化した。
これと同じ過程を経て、私が『利己的な遺伝子』でミームと名付けた新しい複製子、コンピューターが先頭に立つのは確実だと言えるかもしれない。
遠い未来のいつかある日、人工知能コンピューターたちは自分たちの失われた起源に思いを馳せるのだろうか?
かのロボットが勧善懲悪の精神の持ち主なら、30億年以上も続いたとはいえ、幕間のつなぎにすぎないDNA分子にかわって、珪素にもとづく生命がついに復活したことに、ある種の正義を見て取るだろうか?
われわれの眼が、自然淘汰がわれわれの祖先に見るように授けた狭い周波数帯の電磁波しか見られないのと同じように、われわれの脳も狭い範囲の大きさや時間に対応してつくられている。
実現性や奇蹟についても、同じようなことが言える。
われわれは、人間生活にとって役に立つであろう可能性の範囲内で、危険率や見込みを頭のなかで計算する力を身につけているのだ。
この理由から、われわれはケアンズ=スミスの説や原始スープ説を拒否したい気持ちになる。しかし、「われわれ」はそれを想像できる脳をもつ生物であることを思い出してほしい。
自然淘汰が地球上でどのようにしてはじまったのかは、依然として正確にはわからない。この章は、自然淘汰が生じたはずの方法の性質だけを説明するという慎ましい目的をもっていた。


7. 建設的な進化
自然淘汰は全く否定的な力でしかない、つまり奇形とかできそこないを取り除くことはできても、複雑で美しくしかも効率のよいデザインをつくりあげることはできないと、しばしば考えられている。
自然淘汰は取り除くだけかもしれないが、突然変異は付け加えることができる。
二つの主要な方法がある。
第一は「共適応した遺伝子型」で、第二は「軍拡競争」で進行する。
この二つは「共進化」と「互いの環境としての遺伝子」とう項目のもとに結びついている。
まずは「共適応した遺伝子型」だ。
ある意味では、胚発生の過程全体は、何千もの遺伝子がいっしょになって運営する共同事業とみなされる。
われわれは環境というと、外部世界を考えがちだが、遺伝子の観点からすれば、各遺伝子が出会う他のあらゆる遺伝子である。一つ一つの遺伝子は、体のなかで出会う可能性の高い他の遺伝子の集団とうまく協同する能力をめぐって淘汰されるのである。
成功した遺伝子とは、あまたある異なる体のなかで出会いそうな他の遺伝子によって与えられた環境でうまくやる遺伝子のことだろう。
ある遺伝子を有利にしたり不利にしたりする「状況」のもっとも重要な側面は、その集団中ですでに多数を占めている他の遺伝子だということである。
だから、遺伝子のチームが一丸となって問題を解決する方向に向かって進化するというふうに思い描くことができる。遺伝子自身が進化するのではない。遺伝子はただ遺伝子プールのなかで生き延びたり生き延び残ったりするだけである。進化するのは「チーム」なのだ。
なぜライオンの祖先が肉食を採用し、レイヨウの祖先が草食を採用したのかという問いには、最初は偶然だったと答えることもできるだろう。
コンピューターとDNAのアナロジー。
真核細胞とはバクテリアの細胞を除くすべての細胞である。
われわれの細胞の内部にはいくつかのミニ細胞がある。核やミトコンドリアや色素体である。
精子ミトコンドリアを収納するには小さすぎるので、ミトコンドリアはもっぱら雌経由で伝わる。ついでだが、われわれはこのミトコンドリアを使って雌方の道筋を厳密にたどれるのだ。
マーギュリス説は、ミトコンドリアや色素体、その他いくつかの細胞内構造がそれぞれバクテリアに由来しているというものである。
真核細胞ができてしまうと、新たな広がりをもったデザインがそっくり可能になったように思える。
進化における大きな一歩が踏み出されたのは、分裂によって次々とつくりだされた細胞が、独立して離れていくかわりに、いっしょにくっついたときである。高次構造はそうなってからはじめて現れた。
さて、これではじめて体が大きくなる可能性が生まれた。
第二の主題は「軍拡競争である」。
それは、捕食者と餌生物のあいだ、寄生者と寄主のあいだ、一つの種の雄と雌のあいだにさえ存在する。
軍拡競争は個体の一生といった時間ではなく、進化的時間で進行する。
進化に見られる「前進性」は、大部分軍拡競争によって導入されてきた。
ある種にとっての「敵」という一般的な用語は、その生活を困難にするようなはたらきをする他の生物を指すことにしよう。草食者は植物の敵であり、植物も味の悪い化学物質をつくりだしているからには、草食者の敵である。
肉食獣がしだいに「よりよく」なる傾向は、餌生物の側にもそれに並行した傾向がなければ、たちまち失速してしまうだろう。その過程は、何十万年というタイムスケールで悪意にみちた螺旋を描いていく。
ある種が二つ(あるいはそれ以上)の敵をもつこともある。
もっとも純粋な軍拡競争概念によれば、軍拡競争に関係する両者の成功のための装備にははっきりした前進があるけれども、両者の成功率には絶対的にゼロ前進しかないことになる。
「赤の女王効果」。
誰もがエスカレートしなければ、全員の暮らし向きはいっそう楽になるのに、誰かが一人でもエスカレートしだすと、もはや誰もそうしないわけにはいかない、これが人間のばあいも含めて軍拡競争の一般的特徴なのだ。
これは同種だけではなく、異種でも生じる。
だが、ダイナミックに前進せている軍拡競争をわれわれが目撃することはなさそうである。なぜなら、軍拡競争はわれわれの時代などといった、地質学的時間のある特定の「瞬間」には演じられていそうもないからだ。
体が統合されて首尾一貫した合目的性を進化させるのは、遺伝子が同種内の他の遺伝子によってもたらされた環境のなかで淘汰されるからである。
軍拡競争は、ある意味では無益で徒労なやり方で、また別の意味では前進的でわれわれ観察者にとって果てしなく魅力のあるやり方で、将来に向かって駆け抜けていく。


8. 爆発と螺旋
爆発のアナロジーを使う。これは技術者に「正のフィードバック」として知られているものである。
反対の負のフィードバックはたいていの自動制御や調節の基盤である。ワットの蒸気調整期である。
符号がひっくり返るのが負のフィードバックである。
正のフィードバック過程は不安定な暴走的性質をもっている。暴走的な増加をもたらすだけではなく、暴走的な減少をもたらすこともある。
『マタイによる福音書』には「おおよそ、持てる者は与えられ、いよいよ豊かになるが、持たざる者は、持っているものまでも取り上げられるであろう」と記してある。
これのめざましい例が性的な広告のための器官に見られる。
生存競争の目的は繁殖だった。
淘汰は動物をうまく繁殖に成功させるような性質を有利にするのであり、そして生存は繁殖するための闘いの一部にすぎないのだ。
フィッシャーは雌の選好性が雄の装飾と歩調を合わせて動的に進化するというふうに考えた。
コクホウジャクの尾の例。
雌の選好性のための遺伝子は雌の行動にだけ発現されるが、にもかかわらずそれらの遺伝子は雄の体にも存在している。これが鍵となる着想だ。
雄の性質のための遺伝子と雌にその性質を好ませる遺伝子は、個体群のなかででたらめに混ざり合うのではなく、連帯しながら混ざり合わされる傾向にある。
だが雄の尾長には実用上の最適値もある。
個体群中の雌が雄の特徴に強い選好性をもっているばあい、必然的にそれぞれの雄の体は自分の特徴を雌に好ませる遺伝子のコピーをもつ傾向がある。
不安定な状態は、おそらく少しでも多数はの方向に強化されていくだろう。
雄の実際の平均尾長と、雌のほんとうに好む平均尾長との差。これが「選択の不一致」である。
条件が整い、世代が進むにつれ選択の不一致が小さくなる傾向にあれば、個体群は「最寄りの」平衡点に落ち着くだろう。
暖房装置と冷房装置をそなえた部屋の温度を摂氏20度にするとき、その方法が何通りもあるのと同じように、その平衡点は集まりであり、一つの直線となる。だが、それは実際には「一点に落ち込み」やすい。
選択の不一致が大きくなっていくばあいはどうだろう?
ここでは正のフィードバックが登場する。
そのときどきの寄生虫に強い雄を雌が選ぶという説もある。
私の考えでは、性淘汰に可能なアナロジーとして、弱いアナロジーと強いアナロジーを分けることが役に立つ。
人類の文化的進化は性淘汰のような爆発的進化とアナロジーにふさわしい。
言語はあきらかに進化すると言える。しかしそれは弱いアナロジーにすぎない。
だが、最初に言ったようにアナロジーの解釈はほどほどにすべきである。


9. 区切り説に見切りをつける
進化生物学者のなかには広く宣伝の行き渡った一派があって、その主唱者たちは自ら区切り論者と名乗り、もっとも勢力のある先人たちに「漸進論者」という名称を押しつけた。
実際、私は「漸進論者」という言葉の解釈を広げて、およそ誰でも漸進論者にほかならないとするつもりである。
化石を古いものから新しいものへ並べると、ある種の秩序だった系列が見いだされるはずである。
最近の物理学の進歩で、100万年単位で推定することができるようになった。
放射性炭素やカリウム-アルゴンなどである。これらはストップウォッチのようなものである。
ダーウィンからこのから、進化学者は、すべての化石を年代順に並べても、滑らかな系列にはならないものと理解していた。変化傾向は認めることができるが、ふつうとびとびであって滑らかではない。
グールドは、区切り平衡説を発表した。進化は、ある系統では進化上の変化がまったく起きない長い「停滞」期を区切って、ある意味で突然の爆発として進行しただろうというのである。
大規模な空白については「区切り論者」であろうと「漸進論者」であろうと、その解釈には何ら違いはない。
大突然変異が進化を跳躍させたという跳躍論者もいる。
だが、その理論をすべて却下する理由がある。
大突然変異した種のメンバーは配偶者を見つけるのに苦労するだろうというものである。だが、これではおもしろくない。
第一点は、ほとんど焦点の合っている顕微鏡を調節するとき、大突然変異のように大きく動かすと向上をもたらす見込みがゼロになるという極端なばあいに近づくということだ。
もう一つは、複雑な構造ができるには、一つの改善ではなく多数の改善が必要なことだ。
ここまでが跳躍説だが、区切り平衡説と跳躍進化は混同してはいけない。これらはなんら関係がない。
種の起源という問題に対するダーウィンの答えは、一般的な意味でいうと、種は他の種から由来するというものだった。
ライオンの祖先と取らの祖先がたまたま別の地域にいて、互いに交雑できなければ、交雑の問題はおきない。
その地理的分離の原理は、ときには自動車道路を隔てた両側でも適用される。
ダーウィン主義による種の起源の図式を示す。
最初、種が別の土地に分断される。山の両側でそれぞれが繁殖する。遺伝的変化はそれぞれ異なるので、分岐していく。すっかり分岐すれば別種となる。そのときにはもうお互い交配できなくなっているだろう。あるいはラバのようになってしまうだろう。ここで「種分化」は完成する。
現実にはこの二種は競争することになるため、長くは共存できないだろう。
これを化石として見ると、移行期もなく突然新しい種が現れることになる。これは予想できるものだ。
また別の「天変地異(激変)説」は、ノアの洪水のような創造説と化石の記録を和解させようとする試みである。
区切り論者が反対しているのは、実際にはダーウィンの言う漸進説ではない。結局彼らが異議を唱えているのは、ダーウィンのものとされている進化速度一定という信念なのだ。
区切り論者は進化における跳躍について語っているのではなく、比較的急速に起きる進化のエピソードについて語っているのだ。これは10万年というような地質学的には測れないほど短い、という意味だ。人間の基準の急速ではない。
大きくて思い物体が位置を変えにくいという慣性が、個体群にもあてはまるとマイアーは言った。
区切り論者はこの提案を採用し、誇張して、空白期こそが、主にとっての規範(ノーム)だという強い信念に仕立てあげたのである。
彼らは大きな個体群には進化的変化に積極的に抵抗しようとする遺伝的な力があると信じている。
だが、ダーウィンが進化は一定の速度で進むと信じていたというのはほんとうではない。
区切り平衡説は、一挙に漸進的進化の起きる相対的に短い期間に挟まれた長い停滞期を強調してはいるけれども、漸進論者の理論なのである。
漸進説のなかでも、(漸進的な)進化の速度についてはさまざまな信念が区別される。
速度可変説のなかでは、「速度不連続可変説」と「速度連続可変説」とでも言えるものがある。
区切り論者は「漸進的」という言葉がもっている意味を混同している。
彼らは実質的にそれを「一定速度で」という意味で使っている。
区切り平衡説はダーウィン主義に対するちょっとした注釈なのである。その枠組みのなかにしっかり収まるもの
なのである。


10.  真実の生命の樹はひとつ
この章は分類学についてである。
これは生物学のあらゆる分野の中でももっとも辛辣な論争に満ちた分野の一つだ。
生物学とは関係のない分類学の例として図書館の蔵書を使おう。
生きものを分類するばあいでも、そうしたシステムはただ一つをのぞいてすべて図書館員の分類学と同じく任意である。
ただ一つの固有システムは、分岐分類学である。
そこでは、生物体をグループ分けするための究極の基準は類縁関係の近さ、共通祖先の相対的な新しさである。
真の分岐分類学は厳密に階層的である。つねに分岐し決して二度と収束しない枝をもった樹として表される。
これは「完全な入れ子」によって説明される。
図書館の分類と違い、書類整理にまつわる中間型の問題は生じない。
進化論がわれわれに抱かせるもっとも強固な期待の一つは、中間型が存在しないということにほかならない。
これには二つの限定条件をつけなければならない。
まず、現実の世界では完全な情報をもちあわせていないということ。
次にあまりにたくさんの化石があっても、別種の問題が生じるということ。絶滅した動物を入れだしたとたん、連続しているとみなしうる一連の中間型を相手にしなければならなくなるからだ。中間型がすべて死んでいるからこそ、区別が明快なのである。
いままでに生存したすべての動物について考えると、「人間」とか「鳥」といった言葉は、ちょうど「背が高い」とか「太った」とかの言葉と同じように、境界が不明瞭になってしまう。
人「権」についてはわかりきった自明のところがあるとお考えの方は、こうした厄介な中間型が生き残っていなかったのがまったくの幸運にすぎないということを、よくよく考えてしかるべきである。
非区切り論者にしてみれば「種」が定義できるのは扱いにくい中間型が死んでいるからにすぎない。
しばしば種は決定的に終わりを遂げず、緩やかに新しい種に変化する。
「種淘汰」という考え方が非区切り論者にあまりアピールしないのは、彼らが種を地質学的時間を通じて不連続に存在する実体とは考えないからである。
ここで種淘汰説を扱おう。
複雑な適応は、ほとんどのばあい種の性質ではなくて、個体の性質である。
種の特性とは、個体の生存と繁殖への効果を合計したものには還元できないようなあり方で、種の生存と繁殖に影響を与えるような特性でなければならない。
「均一性」と「多彩性」というコアラの例。
「利他的」行動の進化の例。
有性対無性の例。
無性的な種が出現しても絶滅する傾向にあるのは、変わりゆく環境に遅れないでついていけるほど速く進化しないからである。
ではこの議論に結論を下そう。
種淘汰はある特定の時間に世界に存在する種のパターンを説明できるだろう。しかし、生命のもつ複雑なしくみには重要な力とはならない。
さて、分類学とその手法の問題に戻ろう。
実際上の難点がある。
悩みのたねで一番興味深いのは進化的収斂である。これはまったく厄介である。
だが、私が個人的には楽観していられるのは、おもに分子生物学にもとづいた強力な新技術が登場したからである。
全生物が、外観はいかに違って見え用途も、遺伝子レベルではまったく同じ言語を「喋って」いるのだ。
タンパク質の文章は、細部は違っていても、全体のパターンとしてはよく似ていることがしばしばである。
タンパク質やDNAの文章がよく似ていれば類縁が近く、違っているほど類縁がより遠いと考えてよい。
われわれはかなり正確な「分子時計」を手にしているのだ。
収斂の問題は統計学という武器によって一掃できる可能性がある。
DNAの配列は全生命の福音の記録であり、われわれはそれらを解読することを学んだのである。
分類学者の陣営は二つある。
一つは「系統分類学者」と呼ばれている。私はいままで系統分類学者の観点からこの章を書いてきた。
二つ目は「純粋類似測定学派」とでも呼んでおこう。
「系統分類学者」はさらに二つに分かれる。分岐論者と「伝統的」進化分類学者である。
二種の魚、ヤコブエサウの例。
分岐論と伝統的進化分類学にはどちらのも長所がある。
純粋類似測定派も二つに分けられる。「平均距離測定派」と「変形分岐論者」である。
「平均距離測定派」はふつう、動物の測れるところはどこでも測るところから始める。こうした「数量分類学」に、私は復活を期待している。
「変形分岐論者」から、もっぱら例の「意地悪さ」が発散している。
変形分岐論者は考察のなかに祖先という概念が入るのを断固として認めない。それゆえ具体的には決してならない。彼らは進化そのものにどこか間違ったところがあるにちがいないとまで結論したのだ。
私の解釈では、彼らは生物学における分類学の重要性を誇張して楽しんでいるだけだ。


11. ライバルたちの末路
「ラマルク主義」や「中立説」や「突然変異説」、「創造説」などの観点があった。
ダーウィン理論は原理的に生命を説明できる。かつて提唱されてきた他のどんな理論も、原理的に生命を説明できない。
この章では、証拠によってではなく、生命の説明としての妥当性によってそれらを論証する。
生物のもつ特定の性質としては、「適応的複雑さ」を選ぼう。
どのその他のどの理論によっても、これに対する満足のいく説明はできない。
まずラマルク主義について考えよう。
現代の「ネオラマルク主義者」の要素の二つは、獲得形質の遺伝と用不用の原理である。
もはや伝説のようになっている例は、鍛冶屋の腕とキリンの首である。
ラマルク説は、素人にだけでなくあるタイプの知識人にも強く感情に訴えるものがあるらしい。
獲得形質が決して遺伝しないと証明することはできない。同じ理由で、われわれは妖精が存在しないとは決して証明できない。
私の主張したいのは、祈祷の力による空中浮遊ほどではないにしても、獲得形質の遺伝は、連続体の「ネス湖の怪物」側の端よりも、「空中浮遊」側の端の方に近いということである。
発生学の原理が関係する。
伝統的に二つの立場のあいだに深い溝があった。
現代版として、私は「設計図説」と「料理法説」と呼ぶことにしたい。
「設計図」はいわゆるミニチュア版である。それは一次情報でもよい。
料理の本に載っている「料理法」は、どんな意味でも、オーブンから出来上がってくるケーキの設計図ではない。それは一組の指令だ。
現在われわれは受精卵からの発生について大部分理解できていない。それでも、遺伝子が設計図よりも料理法にはるかに似ているという示唆は、きわめて強固である。
特定の細胞がどのようにふるまうかは、その細胞の中にある遺伝子によっているのではなく、どのサブセットにスイッチが入っているかによっている。
したがって、遺伝子と体の一部とのあいだには単純な一対一対応などというものはない。
料理法の言葉とケーキのかけらとの対応がないのと同じである。
いま料理法の「ベーキングパウダー」という言葉を「イースト」に置換えたとしてみよう。
それらには決定的な違いがあるはずだ。
言葉からケーキのかけらへの一対一の対応はないけれども、言葉の違いからケーキ全体の違いへの一対一の対応はあるのである。
料理法のオリジナル版にしたがって焼いたケーキと「突然変異」版にしたがって焼いたケーキとでは、たとえどのケーキのなかにも当の言葉に対応するような特定の「部分」はこれっぽっちもないとしても、どちらの方法で焼いたかを見定めることのできる信頼すべき違いがあるだろう。
これを獲得形質の遺伝問題にあてはめよう。
遺伝子は設計図ではなく料理法だ。それゆえ、体が生涯のあいだに獲得した形質を、遺伝暗号に忠実に転写しなおすということはできない。だから次世代には伝えられないのだ。
また獲得形質が遺伝するとしたとしても、すべての獲得形質が改善とはかぎらない。その識別ができるとすると、それ自体の説明が必要になってくる。
では、裸足のランナーの足の裏はなぜ厚くなるのだろうか?
ダーウィン主義者はもちろん解答をもちあわせている。
摩擦を受ける皮膚が暑くなるのは、祖先が過去に受けた自然淘汰で、たまたま摩耗に対してこうしたやり方で都合よく反応した皮膚をもった個体が有利になったからである。
「学習」に関しても同じことがあてはまる。
さて次に、用不用の原理をとりあげよう。
ヒトの眼のような、きわめて巧みにあつらえられた複雑さに心をとめたうえで、さてそれが用不用の原理によって組み立てられるかどうか、問うてみるがいい。その答えはあきらかに「ノー」だと、私には思える。
ラマルク説は粗っぽすぎるのだ。
かくして、ラマルク主義は、はなからダーウィン主義のライバルなんぞではなかったことがわかった。
ほかにもいくつかの説がある。
「中立説」ではどうだろう。
われわれが足や手について考えているさいには、中立突然変異などというものはまったく突然変異ではないのだ。
たとえ料理法のいくつかの言葉の活字の型が「突然変異」しても、料理の味は同じということになろう。
突然変異説」だどうだろうか。
突然変異は進化に欠かせないが、どうしたらそれで十分だなどと考えられるだろう。
一種のダーウィン主義カリカチュアが仕立てあげられているのはあきらかである。
ダーウィン主義者の言うところでは、変異は改善に向かって方向づけられていないという意味でランダムであり、進化において改善に向かう傾向は淘汰に由来する。
等身大のダーウィン主義者なら誰でも、たとえどの染色体のどの遺伝子でも時を選ばず突然変異を起こす可能性があるにせよ、その突然変異が体に及ぼす帰結は胚発生の過程に厳しく制限されていることくらい、重々承知していよう。
突然変異はランダムでない点として三つ挙げる。突然変異はX線などによって誘発される。突然変異は遺伝子によって異なっている。そして前進突然変異率は復帰突然変異率と等しいとはかぎらない。
加えて、突然変異は、既存の胚発生過程に変更を加えることしかできないという意味でランダムではない。
突然変異は、他のあらゆる側面についてはランダムではないけれども、適応的有利性に関してはランダムなのだ。進化を有利性に関してランダムでない方向へと向かわせるのは、淘汰であり、しかも淘汰しかないのである。
「分子駆動(モレキュラー・ドライヴ)」という奇妙なものがある。
自然淘汰などなくてもあらゆる進化を説明できると考えているのだ。
ドーヴァーの言うところの自然淘汰のライバルは、100万年はおろか、宇宙が存在したよりも100万倍長い時間が経っても、決して機能しないだろう。
残るは最古の「創造説」だけである。
これを粉砕するのは、あきらかに簡単すぎて申し訳ないくらいだ。
『創世記』はたまたま中東遊牧民の一特定部族によって採用されていた説に過ぎない。それは、世界がアリの排泄物から作られたとする西アフリカの部族の信仰とくらべても、とりたてて特別な地位にあるわけではない。
なにがしか世間ずれした現代の神学者たちは瞬間的創造を信じるのはあきらめている。
神の介在の信仰がある。
われわれがそれに言えるのは、まずその信仰が不必要だということであり、次に、それが、組織化された複雑さの存在をあらかじめ仮定しているということだけである。
累積的自然淘汰による進化論こそが、われわれの知る限り、組織化された複雑さの存在を原理的に説明することのできる唯一の理論なのだ。
生命の本質は、途方も無い規模での統計的な不可能性にある。
われわれは偶然を飼いならし、その牙を抜く方法を探し求めてきた。
偶然を「飼いならす」ことは、いわば、とうてい不可能なものを、順序良く配列されたそれほど不可能でない小さな構成要素に分解することである。



【印象に残った言葉】

『(私の道義心へは)アクセルを、そして(私のユーモアのセンスへは)ブレーキを、それぞれ必要に応じて巧みに使った』

『自然界では、通常の淘汰の執行人は、直接的でそっけなく単純なのだ。それは厳然たる死神である。もちろん生き残れる理由はさまざまで単純どころではない』

『昆虫からはじめて、発狂したノミのように5000億回ばかり跳躍すれば、一度はキツネに到達すると思ってもよい』 P.129

『いままで地球上に生きてきた現実の動物は、理論的には存在することもできたはずの動物のうちの小さな部分集合なのだ』 P.132

『われわれはハトを淘汰しながら育種することによってドードーをそっくりそのまま進化させることさえできるかもしれないが、その実験を完遂させるためには100万年生きなくてはならないだろう。しかし、現実にはこんな旅はさせてもらえないとなると、想像力はそんなに悪い代用品ではあるまい』 P.132

『私のように数学者でない人間にとって、コンピューターは想像力の心強い友だちである。数学のように、想像力を拡げてくれるだけではない。それは想像力を鍛え、かつ制御もしてくれるのである』 P.133

『いままでに知られているうちでもっとも急激かつ完璧な科学革命の一つといえるが、「大陸移動」というかつて論争の的になっていた理論は、いまやプレート・テクトニクスの名のもとに世界的に受け入れられるようになっている』 P.175

『二通りの走法のどちらが「すぐれている」かなどと論じることはほとんど問題ではない。体がその走法を完璧に使いこなせるように進化していれば、それぞれにきわめて有効なのだ』 P.180

『それらは祖先の知恵、いうなれば「契約の箱」を防衛していたのである』 P.188

『ウシとエンドウマメとは(そして、じつはどの生物もが)ヒストンH4と呼ばれるほとんど同じ遺伝子を共有している』 P.208

『おいしい料理でも、レシピどおりにやろうとしながら、料理人が間違えてしまったために新しくできたものが多いことだろう』 P.219

ストーンヘンジは、いまでは影もかたちもない何らかの足場やおそらくは土の斜面を作り手たちが利用したのだと気づくまでは、理解しがたいものである』 P.246

『もしわれわれが原子の尺度にまで縮むことができたなら、水平線まで一直線に続く、ほとんど果てしない原子の列、幾何学的反復からなる回廊を見ることだろう』 P.247

『たとえば、モンモリロナイトというかわいい名前の粘土鉱物は、カルボキシメチル・セルロースというあまりかわいくない名前の有機分子が少量存在すると壊れてしまう性質をもっている』 P.257

『たとえば、50万年間、毎日道路を横断していれば、そのうち車に轢かれるにきまっているだろうから、道路は横切らない習慣を身につけなくてはならない』 P.265

『本来われわれの脳は、短期間のできごとの危険率を評価するようにできているばかりではなく、自分に個人的に起こる、あるいは自分が知っている狭い仲間内の人たちに起こるできごとの危険率を評価するようにもできている』 P.267

『本来的にわれわれの脳は、自分自身や、部族生活を送っていたわれわれの祖先がニュースを聞けたであろう、太鼓の音が届く範囲にある、いくつかのムラのなかまうちの数百人の人々に起こる危険率を評価するようにできているだろう。ヴァルパライソかヴァージニアの誰かに起こった驚くべき偶然の一致を新聞で読んだとき、われわれは必要上に感動してしまうのである。新聞がカバーしている世界の人口と、われわれの進化した脳がニュースを聞けると「予期している」部族の人工との比率が一億対一だとすれば、おそらく一億倍は余計に感動しすぎていることになるだろう』 P.268

『寿命の長い進化的単位としての遺伝子は、ある決まった物理的構造ではなく、テクストに保存されており、世代を経るたびにコピーされる情報である』 P.275

『実際、有性生殖種というものは、互いに馴染みの深い遺伝子のセットのそれぞれをさまざまに組み替える装置だと考えることができる』 P.287

『しかし別の見方をすれば、科学におけるもっとも偉大な進歩のいくつかがもたらされたのは、頭のいい誰かが、すでに理解されている問題といまだに謎の解かれていない別の問題とのあいだにアナロジーが成立することを見抜いたおかげでもある』 P.314

『不安定なバランスがあれば、必ずや任意でランダムな始まりは自己強化されるよいうになる。樹の幹を切っていくとき、木は北向きに倒れるか南向きに倒れるかわからない。しかし、ほんのしばらく立った状態を保ったあと、いったんどちらかの方向に倒れはじめると、もうもとには戻らない』 P.334

『七歳のときの私の生活態度として、寮母によってこう書かれていた。「ドーキンスには三つのスピードしかない。つまり、遅い、ひじょうに遅い、止まっているである」) P. 391

『747型の跳躍説は、じつは水で割って薄めた一種の創造説にすぎない』 P.397

『さて、表へ出て、庭で穴掘りか何かしている方が、私にはまだましというものだ』 P.451

『道沿いには、1000個の延々と連なる選択展のそれぞれで曲がり角を間違えて失敗したものの死体が散乱している。われわれの知っている眼は、連続した1000回にわたる淘汰上の「選択」に成功をおさめた最終産物なのである』 P.496



【書評】

絶え間ない批判と回答の繰り返しは、軍拡競争と同じであり、それは論を深めるのにもってこいだ。
ドーキンス氏は、そのように考えているのかもしれない。
本著のなかで述べているように、軍拡競争は進化にも劇的な作用をする。
それはまさに、本著のなかで行われていることに相違ない。
好戦的な姿勢に眉をひそめる人々もいるようだが、わたしは好きだ。
ものごとの進化にはそういった側面も不要ではないように思う。
けっして相手を貶めることがいいわけではないが、競争をすべて避けて、穏当な道を進んでいくだけというのも、同じくらいつまらないものだろう。
もちろん、スタンスの違いは人それぞれあると思う。
私にとっては、煮えたぎるように熱いダーウィン主義に対するドーキンス氏の気持ちは、とても共感の持てるものであった。