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30分でわかる『カラヴァッジョ巡礼』





【30分でわかる】

はじめに


本書は、イタリア各地のカラヴァッジョ作品をたどり、その絵の語る声を聞いてまわる巡礼の旅である。
実際に歩いて、現地で体験するように、年代別ではなく場所別に登場させている。




1. 生誕の地ロンバルディア



◯少年時代を過ごした町・カラヴァッジョ


カラヴァッジョという都市は、15世紀に聖母が顕現し、そこから泉が湧いたという「カラヴァッジョの聖母」の伝説 によって有名な町である。今はミラノのベッドタウンである。サンティ・フェルモ・エ・ルスティコ聖堂は、堂々たるゴシック建築の威容を見せている。


ミラノで始めた画家修業
当時のミラノは美術の面では後進地であった。
北方からの玄関口としてフランドルの文化が流入していた。
15世紀の末から16世紀初頭にかけてレオナルド・ダ・ヴィンチが滞在して《最後の晩餐》を残した。
フランドルの文化とレオナルドの影響があいまって写実的な画風の伝統が形成されていった。
カラヴァッジョによる現存する唯一の静物画の《果物籠》は、アンブロジアーナ絵画館にある。
レオナルド派やカンピ一族など、16世紀ロンバルディアの作品を市内の教会や美術館で見てまわりたい。
果物籠




2. 豊穣のローマ



◯人気画家から殺人者への転落
カラヴァッジョは、1606年に逃亡するまで14年間この永遠の都ローマに滞在する。
当時ローマは「カトリック改革」が完成し、「シクストゥス改革」によって、大量の巡礼者を受け容れる大都市に変貌しつつあった。1600年の「聖年」に向けて教会が新設、改修ラッシュであった。


◯コラム 「殉教図サイクル」のパワー
16世紀にカタコンベが発見されると、初期キリスト教時代に、多くの殉教者が実在したことがあきらかになった。
世界じゅうでもカトリック司祭が殉教す風潮のなかで、イエズス会によって殉教図ばかり集めて描く「殉教図サイクル」が流行した。


ボルゲーゼ美術館
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿が集めたコレクションを母体としたボルゲーゼ美術館は、もともとボルゲーゼ家の別荘であった建物である。
カラヴァッジョがレーナという女性を巡ってもめた際、調停したのがボルゲーゼ枢機卿であり、そのお礼として《執筆する聖ヒエロニムス》を入手した。
枢機卿の飽くなき美術収集への情熱の結果、この美術館は現在もイタリア有数のもっとも充実したコレクションを誇っている。
カラヴァッジョ巡礼のスタート地点にもゴールにもなる。
《果物籠を持つ少年》
果物籠を持つ少年

《病めるバッカス
病めるバッカス

《蛇の聖母》
蛇の聖母

《洗礼者ヨハネ
洗礼者ヨハネ3

ダヴィデとゴリアテ
ダヴィデとゴリアテ

《執筆する聖ヒエロニムス》
執筆する聖ヒエロニムス



◯カジノ・ボンコンパーニ・ルドヴィージ
カラヴァッジョの最初のパトロン、デル・モンテ枢機卿の別荘で、彼は1ヶ月ここに住んだ。
おそらくそのときに天井画《ユピテル、ネプトゥルヌス、プルート》を描いた。
ユピテル・ネプトゥルヌス・プルート


◯パラッツォ・バルベリーニ国立古代美術館
教皇ウルバヌス8世を出したバルベリーニ家のパラッツォ(邸館)が美術館として、盛期バロックの一大展示場になっている。
ナルキッソス
ナルキッソス

《ホロフェルネスの首を斬るユディト》
ユディトとホロフェルネス

《瞑想の聖フランチェスコ
瞑想の聖フランチェスコ



◯コラム 骸骨寺にも名画あります
グイド・レーニの有名な《大天使ミカエル》などの傑作がある。


◯サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂
1600年、この聖堂のコンタレッリ礼拝堂で、カラヴァッジョの《聖マタイの召命》と《聖マタイの殉教》が公開された。
《聖マタイの殉教》
聖マタイの殉教

《聖マタイの召命》
聖マタイの召命

《聖マタイと天使》
聖マタイと天使




ドーリア・パンフィーリ美術館
カラヴァッジョの初期作品《エジプト逃避途上の休息》と《悔悛するマグダラのマリア》と、カピトリーノ美術館のにある通称《洗礼者ヨハネ》のレプリカが展示されている。
エジプト逃避途上の休息
悔悛するマグダラのマリア



カピトリーノ美術館
カピトリーノの丘にミケランジェロがデザインした広場に建つこの美術館は、一部がローマ市役所になっている。
《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》
洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)

《女占い師》
女占い師



◯コラム カラヴァッジョはフィレンツェを見たか?
ミラノからローマに行く途中に陸路を使ったとすれば、ボローニャに次いで立ち寄ったに違いない。
《メドゥーサ》
メドゥーサ

《イサクの犠牲》
イサクの犠牲

バッカス
バッカス



◯サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂
内陣左にあるチェラージ礼拝堂には、カラヴァッジョの《聖ペテロの磔刑》と《聖パウロの回心》があり、正面祭壇には、アンニーバレ・カラッチの《聖母被昇天》がある。
聖ペテロの磔刑
聖パウロの回心2




◯コラム 唯一?腕を認めた好敵手カラッチ
アンニーバレ・カラッチとカラヴァッジョは、ともにバロック美術への道を拓いた巨匠として並び称されている。
彼らは当時からライバルと目された。誰に対しても悪態をついていたカラヴァッジョだが、アンニーバレのことだけは例外的に認めていたようである。


◯サンタゴスティーノ聖堂
ナヴォーナ広場の近く、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂から歩いてすぐの場所にあり、簡素なルネサンス様式のファサードを見せる。
入ってすぐ左側にあるカヴァレッティ礼拝堂に《ロレートの聖母》がある。
ロレートの聖母



◯コルシーニ美術館
コルシーニ家のパラッツォが国立美術館になっている。
《洗礼者ヨハネ
洗礼者ヨハネ2



◯ヴァティカン絵画館
カラヴァッジョの大作、《キリストの埋葬》がある。
下から見上げるような構成となっており、これは本来は司祭によって祭壇の上に掲げられた聖体にこれが重なるようなイリュージョンを与えていた。
キリストの埋葬





3. 南への逃亡



◯混沌の町で再ブレイク!
1606年、カラヴァッジョはラヌッチョ・トマッソーニを剣で殺してしまう。
自らも頭に深手を負ったカラヴァッジョは、夜陰に乗じてローマを後にし、二度と戻ることはなかった。
画家が潜伏したラツィオ山中のザガロロ、パリアーノ、パレストリーナにはコロンナ家の邸館が残っているが、カラヴァッジョの作品はない。
傷の癒えた画家は秋にナポリに移る。
当時のナポリはスペイン領で、ヨーロッパ最大の人口を誇っていた。今でもナポリはその混沌とした活力が観光客を圧倒するが、当時もスペインの圧政とそれに抗する民衆がぶつかりあってしばしば民衆反乱が起こり、豪奢な貴族文化の傍らに凶悪な犯罪や災害が隣り合う、光と影の交錯する猥雑な大都市であった。
この町には、カラヴァッジョの大作《慈悲の七つの行い》が当初から教会に設置されており、最大の見どころになっている。
画家はナポリに1年あまり滞在した後、翌1607年の夏にはマルタに渡って1年以上滞在し、シチリアを経て1609年夏、ふたたびこの地に戻ってくることになる。


◯ピオ・モンテ・デラ・ミゼリコルディア聖堂
スリに怯えながら旧市街の中心にあるごみごみしたスパッカ・ナポリを通り抜けてこの教会にたどり着き、喧騒に満ちたナポリの裏通りを活写したかのようなこの絵に出会うと、まさに場所の雰囲気と作品世界とが直結しているという印象を受ける。
慈悲の七つの行い



◯カポティモンテ美術館
カラヴァッジョの《キリストの笞打ち》がある。
キリストの笞打ち



◯コラム カラヴァッジョを師と仰ぐ「ナポリ派」
光と影の町ナポリは、カラヴァッジョの二度の滞在で、カラヴァッジェスキ(カラヴァッジョ派)の一大中心地となった。


マルタ島
1607年7月、カラヴァッジョはナポリから船でシチリア島の先にあるマルタ島に渡った。
カラヴァッジョはまず騎士団長アロフ・ド・ヴィニャクールの肖像を描き、さらに騎士団ナポリ支団長イッポーリト・マラスピーナのために《執筆する聖ヒエロニムス》を描いた。
サン・ジョヴァンニ大聖堂には会心作《洗礼者ヨハネの斬首》がある。
洗礼者ヨハネの斬首





4. シチリア放浪から、死出の旅へ



◯古代都市で新境地を拓く
1608年の夜半、マルタの要塞監獄から決死の脱獄をしてシチリアの古都シラクーザに流れ着いたカラヴァッジョは、ローマでともに暮らした旧友のマリオ・ミンニーティのもとに身を寄せる。
《聖ルチアの埋葬》
聖ルチアの埋葬



メッシーナ
カラヴァッジョはシラクーザで《聖ルチアの埋葬》を仕上げるや、その都市のうちにメッシーナに移った。
「彼の心は荒れ狂うメッシーナの海よりも不安定だった」と郷土史スジンノは記しており、ここでも奇行が絶えなかった。
メッシーナ州立美術館には《ラザロの復活》《羊飼いの礼拝》という二大傑作が展示されている。
ラザロの復活
羊飼いの礼拝




パレルモ
メッシーナに半年ほど滞在した後、カラヴァッジョはシチリア王国の首都パレルモに向かい、そこでサン・ロレンツォ礼拝堂のために《生誕》を描いた。
ナポリと同様、シチリアでもカラヴァッジョ様式は大流行した。
生誕



◯再びのナポリ、そして画家はローマを目指す
1609年の夏から秋にかけて、パレルモから再びナポリにやって来たカラヴァッジョは、10月24日、有名な居酒屋チェリーリオの前で襲撃され、瀕死の重傷を負う。
ナポリでいくつかの作品を制作した画家は、カラヴァッジョ侯爵夫人に別れを告げ、ローマに戻ろうとする。
1610年7月、全財産と自作数点を持ってカラヴァッジョはローマを目指した。
だが途中オスティアの北に位置するパロで、山賊と間違えられて逮捕されてしまう。
釈放されたが、画家は無謀にも次の寄港地であるポルト・エルコレに向かって真夏の海岸を歩いた。
ポルト・エルコレに着いたときには熱病に冒されており、まもなく息を引き取った。
荷物にあったのは《洗礼者ヨハネ》と《マグダラのマリア》であった。
カラヴァッジョの遺体が正確にどこに埋葬されたのかわからないが、海岸の一角にカラヴァッジョを記念する碑が立っている。
マグダラのマリアの法悦



◯コラム 真贋の森は深く
人気画家であったカラヴァッジョには、多くの注文があり、ある作品を見た別のパトロンが同じものを注文し、画家がそれをもう一度描くということもあった。
このレプリカは真筆といってよいものである。
今後もカラヴァッジョをめぐる真贋ロ運送は絶えることがないだろう。





【60分で理解する】

はじめに
本書は、イタリア各地のカラヴァッジョ作品をたどり、その絵の語る声を聞いてまわる巡礼の旅である。
実際に歩いて、現地で体験するように、年代別ではなく場所別に登場させている。




1. 生誕の地ロンバルディア



◯少年時代を過ごした町・カラヴァッジョ
ミケランジェロ・メリージは、肥沃な大地に重い雲がたちこめるロンバルディアで育った。
父はカラヴァッジョ侯爵に仕えるマギステル(家令、執事)であり、そこそこの地位をもっていた。
だが、ミラノで流行したペストによって父が没し、都会の中産階級の生活から一転して貧しい田舎暮らしに零落した。
カラヴァッジョという都市は、15世紀に聖母が顕現し、そこから泉が湧いたという「カラヴァッジョの聖母」の伝説によって有名な町である。今はミラノのベッドタウンである。
町でもっとも重要な教会、サンティ・フェルモ・エ・ルスティコ聖堂は、この町の規模からは大きすぎる堂々たるゴシック建築の威容を見せている。
もっとも多感な時期に過ごしたのが、聖母が現れた町であってあということは、彼の芸術形成に大きく影響していると思われる。


ミラノで始めた画家修業
当時のミラノは美術の面では後進地であった。
北方からの玄関口としてフランドルの文化が流入していた。
15世紀の末から16世紀初頭にかけてレオナルド・ダ・ヴィンチが滞在して《最後の晩餐》を残した。
フランドルの文化とレオナルドの影響があいまって写実的な画風の伝統が形成されていった。
カラヴァッジョの師ペテルツァーノの代表作は、ミラノ郊外のガレニャーノ修道院の壁画である。
冷たい色彩と写実的な細部描写が特色である。
ミラノ造幣局にあったサヴォルドの《聖マタイと天使》は「夜の絵」として名高く、光と影のコントラストを強調した画風をミラノで流行させた。
これらがカラヴァッジョの源であることはまちがいない。
1592年、21歳の画家はローマに旅立つ。
カラヴァッジョによる現存する唯一の静物画の《果物籠》は、アンブロジアーナ絵画館にある。
レオナルド派やカンピ一族など、16世紀ロンバルディアの作品を市内の教会や美術館で見てまわりたい。




2. 豊穣のローマ



◯人気画家から殺人者への転落
カラヴァッジョは、1606年に逃亡するまで14年間この永遠の都ローマに滞在する。
カラヴァッジョの初期から円熟期の作品がもっとも多く見られる。
当時ローマは「カトリック改革」が完成し、「シクストゥス改革」によって、大量の巡礼者を受け容れる大都市に変貌しつつあった。1600年の「聖年」に向けて教会が新設、改修ラッシュであった。
ローマにあるすべてのカラヴァッジョを見るには2日もあれば十分だが、カラヴァッジョ以外にも見どころは多い。
1597年から1601年にかけてダルピーノ指揮下で制作されたサン・ジョヴァンニ・イン・ラテラノ聖堂交差部を飾るモニュメントは代表的なものである。
またサンタ・スザンナ聖堂の内部、サン・ロレンツォ礼拝堂には夭折の画家ジョヴァンニ・バッティスタ・ポッツォの《聖ラウレンティウス伝》がある。


◯コラム 「殉教図サイクル」のパワー
16世紀にカタコンベが発見されると、初期キリスト教時代に、多くの殉教者が実在したことがあきらかになった。
世界じゅうでもカトリック司祭が殉教す風潮のなかで、イエズス会によって殉教図ばかり集めて描く「殉教図サイクル」が流行した。
現存するのは、サント・ステファノ・ロトンド聖堂のみである。
こうした聖堂は、海外布教に赴くイエズス会の修錬士の研修を行う施設であった。
サンティ・ネレオ・エ・アキレオ聖堂にはもう少し時代の古い十二使徒の殉教図が描かれている。
上京したばかりのカラヴァッジョはこうした壁画を見て回り、感銘を受けたにちがいない。


ボルゲーゼ美術館
シピオーネ・ボルゲーゼ枢機卿が集めたコレクションを母体としたボルゲーゼ美術館は、もともとボルゲーゼ家の別荘であった建物である。
カラヴァッジョがレーナという女性を巡ってもめた際、調停したのがボルゲーゼ枢機卿であり、そのお礼として《執筆する聖ヒエロニムス》を入手した。
枢機卿の飽くなき美術収集への情熱の結果、この美術館は現在もイタリア有数のもっとも充実したコレクションを誇っている。
カラヴァッジョ巡礼のスタート地点にもゴールにもなる。
《果物籠を持つ少年》
《病めるバッカス
《蛇の聖母》
《洗礼者ヨハネ
ダヴィデとゴリアテ
《執筆する聖ヒエロニムス》


◯カジノ・ボンコンパーニ・ルドヴィージ
カラヴァッジョの最初のパトロン、デル・モンテ枢機卿の別荘で、彼は1ヶ月ここに住んだ。
おそらくそのときに天井画《ユピテル、ネプトゥルヌス、プルート》を描いた。
カラヴァッジョ唯一の壁画だが、フレスコではなく、壁に直接、油彩で描いている。


◯パラッツォ・バルベリーニ国立古代美術館
教皇ウルバヌス8世を出したバルベリーニ家のパラッツォ(邸館)が美術館として、盛期バロックの一大展示場になっている。
建築はカルロ・マデルノの構想により、若きベルニーニやボロミーニの手が加わっている。
ナルキッソス
《ホロフェルネスの首を斬るユディト》
《瞑想の聖フランチェスコ


◯コラム 骸骨寺にも名画あります
バルベリーニ美術館に近いヴェネト通りの入り口にあるサンタ・マリア・デラ・コンチェツィオーネ聖堂は、骸骨寺として知られるカプチーノ会の聖堂である。
ローマを舞台としたアンデルセンの「即興詩人」はこの教会から始まっている。
グイド・レーニの有名な《大天使ミカエル》などの傑作がある。
下の墓室には、5つに分かれた部屋一面に、約4000体のカプチーノ会士の骨が壁面や天井に飾り付けられており、異様な雰囲気を放っている。


◯サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂
1600年、この聖堂のコンタレッリ礼拝堂で、カラヴァッジョの《聖マタイの召命》と《聖マタイの殉教》が公開された。
当時の礼拝堂は、中央の祭壇画のみが板かカンヴァスに描かれ、側壁は壁に直接描くフレスコであるのが普通であったが、この壁画は異例なことに、カンヴァスに油彩で描かれている。
これによってカラヴァッジョの名は一朝にしてローマ中に轟いた。
パッサーノによる主祭壇画をはじめ、カラヴァッジョ作品以外にも見どころが多い。
《聖マタイの殉教》
《聖マタイの召命》
《聖マタイと天使》


ドーリア・パンフィーリ美術館
16世紀に建てられ、アルドブランディーニ家からパンフィーリ家に相続され、18世紀に増築された建物が美術館となっている。
カラヴァッジョの初期作品《エジプト逃避途上の休息》と《悔悛するマグダラのマリア》と、カピトリーノ美術館のにある通称《洗礼者ヨハネ》のレプリカが展示されている。
この美術館にはアンニーバレ・カラッチの《エジプト逃避》などもある。


カピトリーノ美術館
カピトリーノの丘にミケランジェロがデザインした広場に建つこの美術館は、一部がローマ市役所になっている。
ここにはカラヴァッジョのほか、ボローニャ派の絵画が充実している。
三島由紀夫が愛したことで知られる、グイド・レーニの《聖セバスティアヌスの殉教》がある。
《洗礼者ヨハネ(解放されたイサク)》
《女占い師》


◯コラム カラヴァッジョはフィレンツェを見たか?
カラヴァッジョがフィレンツェに行ったことがあるのかどうかは不明である。
しかし、ミラノからローマに行く途中に陸路を使ったとすれば、ボローニャに次いで立ち寄ったに違いない。
ウフィツィ美術館には、初期のカラヴァッジョの作品が3点。ピッティ美術館にはマルタ時代の2点がある。
《メドゥーサ》
《イサクの犠牲》
バッカス


◯サンタ・マリア・デル・ポポロ聖堂
ローマへの玄関であったポポロ門をくぐったところにあるこの聖堂は、アウグスティヌス会の教会である。
内陣左にあるチェラージ礼拝堂には、カラヴァッジョの《聖ペテロの磔刑》と《聖パウロの回心》があり、正面祭壇には、アンニーバレ・カラッチの《聖母被昇天》がある。
この教会の左手前にあるキーじ礼拝堂は、ラファエロの設計によるものである。ラファエロの古典主義的な空間とベルニーニ彫刻のバロックが調和する。


◯コラム 唯一?腕を認めた好敵手カラッチ
アンニーバレ・カラッチとカラヴァッジョは、ともにバロック美術への道を拓いた巨匠として並び称されている。
彼らは当時からライバルと目された。誰に対しても悪態をついていたカラヴァッジョだが、アンニーバレのことだけは例外的に認めていたようである。
アンニーバレの最高傑作・ファルネーゼ宮殿の天井画は、最近予約制で公開されるようになった。
「世界の三大壁画」のひとつとして称賛され、その後の西洋美術にははかりしれない影響を与えてきた。
日曜日にしか開いていないコロンナ美術館には、イタリアでのもっとも早い風俗画である《豆を食べる男》がある。


◯サンタゴスティーノ聖堂
ナヴォーナ広場の近く、サン・ルイジ・デイ・フランチェージ聖堂から歩いてすぐの場所にあり、簡素なルネサンス様式のファサードを見せる。
入ってすぐ左側にあるカヴァレッティ礼拝堂に《ロレートの聖母》がある。
当時のローマは西洋中から巡礼者が集まって来ており、この教会は、サン・ピエトロ大聖堂に向かう彼らの通過点にあった。
この教会にはラファエロの《預言者イザヤ》のほか、サンソヴィーノの《出産の聖母》などがある。


◯コルシーニ美術館
コルシーニ家のパラッツォが国立美術館になっている。
《洗礼者ヨハネ
グイド・レーニの《サロメ


◯ヴァティカン絵画館
カラヴァッジョの大作、《キリストの埋葬》がある。
下から見上げるような構成となっており、これは本来は司祭によって祭壇の上に掲げられた聖体にこれが重なるようなイリュージョンを与えていた。
同じ部屋にはグイド・レーニがもっともカラヴァッジョの影響を受けた《聖ペトロの磔刑》や、バロックの重要な作品が展示されている。




3. 南への逃亡

◯混沌の町で再ブレイク!
1606年、カラヴァッジョはラヌッチョ・トマッソーニを剣で殺してしまう。
自らも頭に深手を負ったカラヴァッジョは、夜陰に乗じてローマを後にし、二度と戻ることはなかった。
画家が潜伏したラツィオ山中のザガロロ、パリアーノ、パレストリーナにはコロンナ家の邸館が残っているが、カラヴァッジョの作品はない。
傷の癒えた画家は秋にナポリに移る。
当時のナポリはスペイン領で、ヨーロッパ最大の人口を誇っていた。今でもナポリはその混沌とした活力が観光客を圧倒するが、当時もスペインの圧政とそれに抗する民衆がぶつかりあってしばしば民衆反乱が起こり、豪奢な貴族文化の傍らに凶悪な犯罪や災害が隣り合う、光と影の交錯する猥雑な大都市であった。
この町には、カラヴァッジョの大作《慈悲の七つの行い》が当初から教会に設置されており、最大の見どころになっている。
画家はナポリに1年あまり滞在した後、翌1607年の夏にはマルタに渡って1年以上滞在し、シチリアを経て1609年夏、ふたたびこの地に戻ってくることになる。


◯ピオ・モンテ・デラ・ミゼリコルディア聖堂
この八角形の教会は、最近美術館として整備された。
スリに怯えながら旧市街の中心にあるごみごみしたスパッカ・ナポリを通り抜けてこの教会にたどり着き、喧騒に満ちたナポリの裏通りを活写したかのようなこの絵に出会うと、まさに場所の雰囲気と作品世界とが直結しているという印象を受ける。
この教会には、カラッチョロの《聖ペテロの解放》もある。


◯カポティモンテ美術館
小高い丘の上に立つこの美術館は、18世紀にブルボン家のカルロス3世が作らせた宮殿が国立美術館になったものである。
カラヴァッジョの《キリストの笞打ち》がある。
カラヴァッジョ以前の16世紀ナポリ絵画から、カラヴァッジョの影響によって勃興したナポリ派をまとめて見ることができる。


◯コラム カラヴァッジョを師と仰ぐ「ナポリ派」
光と影の町ナポリは、カラヴァッジョの二度の滞在で、カラヴァッジェスキ(カラヴァッジョ派)の一大中心地となった。
ナポリの教会には、カラヴァッジョから直接影響を受けたカラッチョロやリベラの作品が数多く残っている。
ナポリの町を一望できる丘に建つサン・マルティーノ修道院(国立サン・マルティーノ美術館)はカラッチョロ、リベラ、スタンツィオーネなどのナポリ派の壮大な展示場になっている。
またナポリの大聖堂(ドゥオモ)も欠かすことはできない。
内部の中央にあるテゾーロ・ディ・サン・ジェンナーロ礼拝堂では、毎年5月の第1日曜日の前日と9月19日に祭壇の上で、守護聖人聖ヤヌリウス(ジェンナーロ)の血が溶解する奇蹟を起す。
現在は美術館として公開されているサンセヴェーロ・デ・サングロ礼拝堂は、ベルニーニによって創始されたバロック彫刻の究極の姿である18世紀のナポリ彫刻が一堂に会して見事である。


マルタ島
1607年7月、カラヴァッジョはナポリから船でシチリア島の先にあるマルタ島に渡った。
カラヴァッジョはまず騎士団長アロフ・ド・ヴィニャクールの肖像を描き、さらに騎士団ナポリ支団長イッポーリト・マラスピーナのために《執筆する聖ヒエロニムス》を描いた。
サン・ジョヴァンニ大聖堂には会心作《洗礼者ヨハネの斬首》がある。




4. シチリア放浪から、死出の旅へ



◯古代都市で新境地を拓く
1608年の夜半、マルタの要塞監獄から決死の脱獄をしてシチリアの古都シラクーザに流れ着いたカラヴァッジョは、ローマでともに暮らした旧友のマリオ・ミンニーティのもとに身を寄せる。
ギリシアの植民都市として古い歴史を誇り、僭王ディオニシオスの下で繁栄したシラクーザは、古代遺跡の宝庫である。
風呂の中で浮力の法則を発見したアルキメデスが裸で飛び出して走り、あるいは友人を助けるためにメロスがやはり裸で疾走した舞台もこの町であった。
カラヴァッジョは考古学者ミラベッラの案内で石切り場を訪れ、そこを「ディオニシオスの耳」と命名したという。
《聖ルチアの埋葬》


メッシーナ
カラヴァッジョはシラクーザで《聖ルチアの埋葬》を仕上げるや、その都市のうちにメッシーナに移った。
「彼の心は荒れ狂うメッシーナの海よりも不安定だった」と郷土史スジンノは記しており、ここでも奇行が絶えなかった。
メッシーナ州立美術館には《ラザロの復活》《羊飼いの礼拝》という二大傑作が展示されている。


パレルモ
メッシーナに半年ほど滞在した後、カラヴァッジョはシチリア王国の首都パレルモに向かい、そこでサン・ロレンツォ礼拝堂のために《生誕》を描いた。
残念ながらこの作品は1968年10月16日深夜、マフィアによって盗み出され、以降行方不明である。
ナポリと同様、シチリアでもカラヴァッジョ様式は大流行した。


◯再びのナポリ、そして画家はローマを目指す
1609年の夏から秋にかけて、パレルモから再びナポリにやって来たカラヴァッジョは、10月24日、有名な居酒屋チェリーリオの前で襲撃され、瀕死の重傷を負う。
ナポリでいくつかの作品を制作した画家は、カラヴァッジョ侯爵夫人に別れを告げ、ローマに戻ろうとする。
1610年7月、全財産と自作数点を持ってカラヴァッジョはローマを目指した。
だが途中オスティアの北に位置するパロで、山賊と間違えられて逮捕されてしまう。
釈放されたが、画家は無謀にも次の寄港地であるポルト・エルコレに向かって真夏の海岸を歩いた。
ポルト・エルコレに着いたときには熱病に冒されており、まもなく息を引き取った。
荷物にあったのは《洗礼者ヨハネ》と《マグダラのマリア》であった。
カラヴァッジョの遺体が正確にどこに埋葬されたのかわからないが、海岸の一角にカラヴァッジョを記念する碑が立っている。


◯コラム 真贋の森は深く
人気画家であったカラヴァッジョには、多くの注文があり、ある作品を見た別のパトロンが同じものを注文し、画家がそれをもう一度描くということもあった。
このレプリカは真筆といってよいものである。
今後もカラヴァッジョをめぐる真贋ロ運送は絶えることがないだろう。





【書評】


カラヴァッジョの光と影は、南下するにつれてその気候と通じ合うようにコントラストの濃いものとなっていった。
イタリアを北から南に駆け抜けるような人生は、カラヴァッジョのその常軌を逸したような奇行とともに、強烈なインパクトを残したのだろう。
光と影という二項対立は、現代人も惹きつける詩的な霊源なのである。